紙と睦言

 クアラルンプールに到着したのは午前4時くらいで、プーケット行の飛行機が出発するまで5時間あった。当然のようにシャッター街と化している意外に絢爛な施設を見て私は呆然とした。時間の使い方に困った。


 とりあえずオープンスペースになっているスターバックスの席に凭れて一息吐いた。当然営業してないのだが、寄らばスタバの陰という海外旅行の基本を思い出して朝まで待機することにした。他の席には欧米人の家族が談笑していたり、アジア系と思われる集団旅行者が眠ったりしていたのだが、私は身寄りのない寂しい熱帯魚なので、レジの正面にある二人掛けの席で陰気にパソコンをカタカタ叩いたりしていた。wi-fiが孤独を慰めてくれた。


 外国にいる時の注意として荷物の管理が挙げられる。特に一人の場合は荷物を預けてトイレに行く、ということも出来ないので慎重に便意を見積もる必要がある。この時のスタバは明け方で開店していないにも拘らず、段々と人が集まり始めていて、ひとたび席を離れればすぐさま誰かが陣取り、いつの間にかサロンのようになることは自明だった。


 よって私は積もりゆくトイレに行きたいという欲求を誤魔化し誤魔化し、耐えに耐えた。朝7時くらいになるとスタバが開店したので私は荷物を3秒に一度くらい振り返って見ながらカフェラテを注文した。何も買わずに居座ることは流石に出来ない。便意と荷物の確認を怠らずに私はカフェラテのトールを注文した。


 出てきたのはカフェモカのグランデだった。


 朝に飲むには余りにも甘いカフェモカを啜りながら自問した。発音が悪かったのだろうか。それとも私が1000円札を出したことが原因か。クアラルンプールでは円が使えると聞いていたが、店員はそれを受け取ると照明に透かした後、店長に確認を取りに行った。見慣れないのだろうか。それとも人相が悪かったのか。


 カフェモカのグランデは喉に沁み込むような甘さで私を責める。侵入した水分と甘味がお腹を痛ぶり、とうとう我慢できなくなってトイレに急いだ。個室に駆け込むとなにか足りない気がした。便座に腰掛ける前に気付いた、トイレットペーパーホルダーがない。代わりにシャワーがついている。


 尾籠な話で申し訳ないが私はウォシュレットというものを信頼していない。況やシャワートイレをや、である。日本のウォシュレットならまだ清潔感があるが、海外タイル張りで出来た、なんだか薄汚れたトイレで尻を流すことは非常に躊躇われた。日本人の矜持、ということを思った。人としての誇りと天秤に掛け、まだ耐え得ると判断した。


 結局私は用を足すことも引くこともせずに個室を出た。先までシャッター街だったクアラルンプール空港も免税店の開店によって活況を呈し、華やかになっていったが私はそれどころでなく空港内をあてどなく歩き続けた。こうなれば1時間後のフライト時間まで耐え抜き、飛行機に一番乗りするしかないと考えた。


 考えたところではたと気が付いた。そういえば時差があったはずだ。クアラルンプールと日本の時差は1時間、と言うことはフライト時間はあと2時間後ということになる。


 その瞬間顔から血の気が引き、全身から汗が噴き出した。搭乗時間はまだまだ先である。耐えきれるはずがない。そうして私はあっさりと日本人の矜持とやらを捨て去った。クアラルンプールの思い出はこれだけしかない。


 無事にクアラルンプールを出発してプーケットへ向かう。所要時間は僅か1時間半ほどである。


 通路側に腰掛ける私の隣は大変良く育ったオーストラリア人男性、そしてその隣はこれまた良く育ったオーストラリア人女性。2人は新婚旅行らしく、非常に仲睦まじかった。男性はことあるごとに愛を囁くので隣にいる私は耳が焼け落ちてしまうかと思った。


「日差しが君を輝かせる(窓の外から陽が差し込んだ)」

「エステで君がまた綺麗になってしまうね(ガイドブックを見ながら)」


 多分こんな様な事を言っていたと思う。憤懣遣る方ない私は機内食のビーフンを強めに啜った。隣で響くズルズルという音にもお構いなく、男性はとうとう女性の耳を食んで愛を語りだした。おかげで睦言は聞こえなくなったが、私は憮然としてフォークをビーフンに突き刺した。


 日本から12時間を掛けて辿り着いたプーケットでは、小糠雨が空港を濡らしていた。

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