陰険な洋行者(タイ行き)

 品川から成田エクスプレスに乗り込んだ時、暗澹とした気持であったことを白状せねばならない。


 それは旅行があまりにも唐突過ぎたことに起因する。何せホテルや航空券を確保したのは出発の4日前であった。私の気持ちとしては2か月ほど前からプーケットへ向けて離陸を始めていたのだが両親や友人からは頻りに引き留められていた。

「そんなことをしている時期なのか」

 いろいろ立て込んでいることもあって引き留めるというより、離陸した私の気持ちを引き摺り下ろす政策が取られた。


 拍車をかけたのは行先と航空会社である。プーケットでは一月ほど前に爆発事件が起こった。これで渡航中止を取らない方が阿呆なのであるが、加えて私はマレーシア航空を伴侶に選んだ。マレーシア航空と言えば今でも真相は暗中にあるあの旅客機消失事件の張本人である。陰謀論は信じない方だが、ネットの記事などを見ると機長主犯説などが実しやかに闊歩横溢しており私は震えた。


 震えていると気取られればたちまち引き摺り下ろされる。そう踏んだ私は強気の外交姿勢を取ることにした。

「野球盤で遊ぶ時に2球連続で消える魔球を放る者がいるだろうか。」

「警戒されている中でトリックプレーを行うのは愚者のやることであり、故に直近に再び旅客機が消えるとは思えない。」


 意味不明の理論を展開して友人や親を煙に巻き、逃げ果せた。逃げ果せたというより周囲を脱力させ、引き摺り下ろす手を緩めさせたという方が正しい。ちなみに私は奇を衒って3球連続で消える魔球を放ることを厭わない男である。


 しかし一人で爆発事件のあったプーケットまで行くというところは変わりなく私はいくつもの注意事項と警告を頭に叩き込まねばならなかった。故に出発する頃には何か臓器売買のために国境を渡るような悲壮感を胸に抱いていた。前章に筆者死亡で、と書いたのにもそういう経緯がある。


 一人で空港、というのは気楽だが海外旅行ともなると少し、いや相当さびしい。チェックインを待つ眼前の若い男女のグル―プを睨んで

「ふしだらだ」

と思ったりもした。なんとなく明治期の洋行文化を思い出して胸を張ってみたりもしたが、国を背負って学びに向かった彼らに比して自分のなんと小さいことか。


 洋行者は港や船内で自らの目的を語り、日本を一流の国にして見せると意気込んだようだが、私の空港での最大の関心事は

「機内食は出るのか出ないのか」

「出るにしても何かお腹に収めておきたいがとんかつとそばではどちらが日本食らしいか」

という風であり、まったく小市民であった。

 

 結局機内食の有無はよく分からなかったが、出ないという不測の事態を憂慮して選んだとんかつが揚がるのを待つ。その間、ここ3か月ほど取り組んで未だ半分にも到達しない洋行文学の大作、横光利一の『旅愁』を電子書籍で開いてみたが自らの矮小が際立つだけで、辛子の小袋を弄っている方が余程楽しかったのでそうした。


 最後の晩餐を終えて空港を歩き回っていると土産店にランドセルが置いてあるのを見つけて不思議な心持がした。海外セレブの間でランドセルが流行っているという記事を見たことがあるが本当なのだろうか。


 帰ってきたら続きを読もうと決め、書店で続刊を有する本の第一巻を購入してみたが、どう考えても死亡フラグである。


 パスポートのチェックを潜ると、そこは非課税地帯である。免税店というのを見る度に思うだが、あそこで働く人たちは社内でどういう立ち位置なのだろう。各国の客に対応せねばならない点からしてもしかすると東京の伊勢丹で働く人より出世に近いのかもしれない。そう思うとエリートに対して頭を垂れる気持ちになり、なんだか肩身が狭くなった。


 空港の醍醐味は8割「動く歩道」にあると言っていい。人は誰しもあそこで記者団に囲まれる夢を見る。私も例外に非ず、動く歩道でぽーっと夢想に耽っていたところ横の「動かざる歩道」をJALのCAの一団が通過した。襟元にあしらわれた鶴のデザインと相俟って何となく鶴翼の陣を彷彿とさせる。その華やかさに中てられた様に私はまた動く歩道の上で縮こまった。


 斯くしてプーケット旅行は陰険に始まった。しかし陰険に始まったということがそのままつまらない旅に繋がるかと言えばそうではない。陰険を楽しめなければ元より一人で飛行機に乗ったりはしない。機体が上昇するにつれ、先に離陸した気持ちに追いつくようだと思い、私は高揚した。


 そして結局機内食は出た。いまさらとんかつ屋でご飯をおかわりしてしまったことを後悔した。

「beef or seafood pasta?」

という例文集とは微妙に異なる質問を何とか退け、満腹でも何とか食べられそうなシーフードパスタを選び取った。残すことはモッタイナイ精神に反するのである。

 そして配給されたプレートにはパスタや白身魚、マリネ、ゼリーの他に何か抹茶色の物が乗っていた。初めは血色の悪いモンブランかと思ったのであるが、茶蕎麦であった。丁寧に刻み葱、小分けされためんつゆ、刻みのりが用意されている。有難くつるつると啜ってみると、上空10キロで食べるにしては美味しいと思った。


 満足して眠る体勢を取ったところで機体が大きく揺れた。ここで「消失」「機長の反乱」という記事を思った。そういえば先の機長挨拶の際、どこか不満げな声だった気がする。

 結局まんじりともせず、中継地であるクアラルンプールに到着してしまった。

 機長に、疑ってごめんね、と言ってタラップを降りた。

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