第3話光

授業を終え、靴を履き替えていると、裕馬が追い付いて来た。

「蒼、今日、うち寄ってく?」

「え、お前部活は?」

裕馬は卓球部に入っている。だから決まった曜日以外一緒に帰ることはないのだ。

「顧問が出張で、今日は休部にしろってさ。この前の乱闘騒ぎからこっち、ピリピリしててさ。」

裕馬は涼しい顔で言って、蒼に並んだ。

「あのバスケ部とのヤツか」

「そうだよ。あんなの滅多にないのにさ」裕馬はニッと笑うと両手の親指を、ゲームのリモコンを動かす手つきで動かした。「こっちの大乱闘、オレ負けっぱなしだろ?寄ってけよ。」

蒼も笑った。

「勝てると思ってるのかよ。」

二人は小走りで下足室を出て行った。


裕馬は学校から自転車で10分ほどの家に住んでいる。両親は共働きで遅いので、いつも裕馬の兄と二人の所しか見たことはない。

その日は兄と裕馬と蒼の三人でゲームに夢中になっていた。ふと気が付くと、8時を過ぎている。

ーヤバい…。

蒼はポケットに手を入れて、携帯を忘れて来たのに気が付いた。

母は門限に厳しくはない…と、蒼は思っていた。あの時までは。

蒼はいきなり立ち上がった。

「ごめん、もう帰るわ。」

「え、まだいいだろ?これ終わってからにしろよ。」

蒼は玄関へ急いだ。

「携帯忘れて来たんだよ。」

ドアを開けて出ながら、蒼は言った。

「え~蒼!また明日な!」

まだテレビの前に座っている裕馬の声に見送られ、蒼は駅へと急いだ。


10月の夜風は肌寒い。自転車で風をきりながら、蒼は自分の不注意に舌打ちした。8時台の次の電車は27分のはず。この時間帯はほぼ10分おきに電車が来るが、その10分が惜しかった。

《…の…ゆう…》

何かが聞こえたような気がした。回りを見渡したが、何もない。

「またか」

目が悪いせいか、夜は特に聴覚が鋭くなるようで、その辺の人間の話し声が耳について、まるで自分に話し掛けているように思う時がある。

蒼は先を急ぎながら声を振り払い、前回遅くなった時の母を思い出した。


母は他の家のそれと比べて、かなり放任な人だった。姉の有が遅く帰ろうと、お帰り~と普通に迎え、有も悪びれる様子もなく、いつも穏やかで、弟の恒[こう]も小学生の時から、遅くまで外で遊び回っていたものだった。

蒼もそんなつもりで、その日は今日のように裕馬の家でゲームに興じていた。10時近くなり、さすがにまずいだろうと真っ暗な帰り道を急いでいると、ふと家で、母と有と涼が、自分を待っているように感じた。

駅からの長い坂道を登りきり、息を切らせて家に到着してドアを開けると、そこには見たこともないほど憔悴し切った母と、心持ち青い顔をした有と涼が蒼を睨み付けて立っていた。

「…ただいま」

「あんたね、今何時だと思ってるのよ!まず謝るのが筋ってもんでしょ」

涼が疲れた様子で、しかし眼光鋭くたしなめた。

「まだ10時じゃないか。なんでそんな心配してんだよ」

悪いと思いつつも、妹に素直に謝る気にもなれず、蒼はふてくされたように言った。涼はキッと睨んだ。

「携帯も持たないで?母さんがどれだけ心配したと思ってんの?もうちょっとで警察に通報するとこだったわよ!」

リビングのドアから一番下の双子、恒と遙が心配そうに覗いている。蒼が言い返そうとした時、母がそれを遮った。

「もう、いいわよ。」そして部屋へ入りながら、「有、ご飯用意してやって。母さん寝るわ」

母はフラフラと玄関脇の自分の部屋に入り、布団に倒れこむ。

まだ怒っている涼と黙ったままの有がリビングへ向かう中、蒼は母を見て小さく呟いた。

「ごめん、母さん」

母は次の日も寝込み、仕事を休んでしまった。


蒼は、電車がホームに入って来るのを見て我に返った。とにかく、一刻も早く帰らなければ。

いつも陽気で豪快な母の、あの弱りようはただ事ではなかった。またあんな心配をさせるのは、さすがに心が痛む。

運良く開いた席に座り、車窓の向こうに満月を見ながら、蒼はうとうととした。


《着いたぞ!》

そんな声にハッとして開いたドアを見ると、そこは見慣れた駅だった。慌ててカバンをひっつかみ飛び出した蒼は、起こしてくれた人に感謝しながら半分寝ぼけたまま階段を下り、そこに見慣れた人影を見た。

ー有じゃないか…

姉は電車で二時間近く掛かる大学に通っている。蒼達兄弟姉妹は、外で会っても声を掛けたりしない。それはなんだかいつの間にか決まった暗黙の掟みたいなもので、蒼も呼び止めるつもりはなかった。

ー有が居るなら、大丈夫かな…。

蒼はなんとなくそう思い、少し後ろを、同じ自転車置き場の方へ向かって歩いた。


信号で引っ掛かっている間に、有は長い坂道を100メートルは先に上がっていた。この坂道は暗く、たまに変質者も出る噂の道で、蒼は慌てて有の後を追った。

遠くに、ぼうっと光る有が見える。その少し先の、横道をそれて上に上がる階段の所に、蒼はもうひとつぼうっと光るものを見た。

人が居る。

蒼は思った。急がなければならない気がして、ペダルを踏み込むスピードを上げる。

有を囲む光が、急に大きくなった。その時、階段の方向からもうひとつの光が有の方へ走るように動いた。

ガシャンッ

小さく自転車の倒れる音が聞こえる。ヤバい。

坂道が蒼のペダルを踏み込む力を削いでいる。


良く見ると、小さい方の光は変な色をしていた。有が腕を引っ張られながら、その光を自分の白い光で押し返しているがわかった。階段の方へ引きずられようとしている。

蒼は叫んだ。「有~!!」

一瞬、目の前が真っ白になった。

自分の背中の後ろを頭に向けてものすごい風が吹き抜けて行き、眩しくて視界は無く、蒼は自転車のバランスを崩して足をついた。

やっと視界が戻って来た時、有が立っている足元に、男が1人、転がっているのが見えた。

「有!大丈夫か?車のヘッドライトかなんかが、眩しくてオレ、なんかよく見えなくて…」

「助かったわ、蒼」有は自分の腕を擦りながら 言った。「ここ数日、なんかこの道変だったのよね。蒼が居れば大丈夫だと思ってだけど、ほんとここまであんたが出来るなんて…」

蒼は眉を寄せた。

「ここまでって、有って呼んだだけじゃん。ごめん、これからは見掛けたら声掛けて一緒に帰るよ。」そして足で男をつつきながら「それにしても、有の一撃はすごいんだな。気がつきそうにないぜ。」

有はえっ、と驚いた顔をした。

「あんた、見えてなかったの?」

「だ~か~ら~」蒼は男を階段の方へ押しやった。「真っ白で眩しくてなんも見えなかったんだって。携帯貸して。警察呼ぶよ。」

有は首を振った。

「いいのよ。もう何もしないわ、この人は。」

「何言ってんだよ、わからないだろ?」

「わかるでしょ?」有はフフンッと笑った。「もうしないわよ」

そうだ。蒼にもわかっていた。理屈じゃないのだ。でもわかる。この男は、さっきまでとなんか違う。光?そう、光が違う。

…待てよ、光って…。人って光るっけ?そういや母さんはいつも光ってたような…ん?母さん?

「あ~有!母さん、怒ってるんじゃないか?!帰るぞ!」

蒼は駆け出した。

「ちょっとあんた自転車!」

蒼は慌てて自転車に引き返し、有を急かして共に自転車をこいだ。


家の前に着くと、母がいつものようにドアの前のポーチに置いたベンチに座って、タバコをふかしていた。

「おかえり~」

「母さん、オレ携帯忘れてさ…」

母は言葉を遮った。

「知ってるわよ。さっきリビングでメール着信して鳴ってたわ。」そして家の中をアゴで示し、「ご飯出来てるわよ。」

そういえばものすごく腹が減っている。急いでドアを開けて有の後に続いて入る時、ふと、何か聞こえて閉まるドア越しに振り返って見ると、母はまだベンチに座ってタバコをくゆらせながら、月を見上げていた。

光に包まれた母は、まるで母自身が光っているように見えた。

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