第55話 守るべきもの、2
「返して!」
転がっていった卵が卓人の手に戻ってしまったことに気付いて、紗矢はすぐさま立ちあがった。
卵に向かって伸ばした手に鈍い痛みが走る。苦悶の声をあげ、鳥獣に踏まれた手を抱くように、紗矢は背中を丸めた。珪介は労わるようにそっと紗矢の背に手を添える。
歯を食いしばり痛みを堪える紗矢を感情のない瞳で一瞥したのち、卓人は再び口を開いた。
「長がいなくなったら、この地はどうなると思う?」
問いかけてはいるけれど、答えは求めていないようだった。さして興味がないような顔で、卓人は卵を見つめている。
「抑圧していたものから解き放たれて、新たな時代が幕を開けるのかな。五家も、鳥獣も、異形も、純粋に強いものが上に立つ。下剋上みたいな時代がね」
長の新たな命を繋ぐことが出来なければ、異形が我が物顔で町を闊歩し始めるだろう。それで犠牲になるのは、力を持ってしまった女性だ。血の匂いが鼻を突き、紗矢はそんな光景を一瞬想像してしまう。
ぞくりと身を震わせ視線を動かすと、灰色の鳥獣が翼から血を滴り落としながら、主の元へと向かって行くのが見えた。
「それとも、今いる鳥獣たちの中のどれか一匹が、新たな長として君臨するのかな……だとすると求慈の姫は邪魔だなぁ。君がいると、その赤いのに軍配が上がっちゃうじゃん」
卓人は顎をそらし、紗矢を見て笑みを浮かべた。
「どちらにしても……この卵と、紗矢ちゃんがいなくなればいい。そうすれば僕は、越河珪介の上に立てる」
ずきりと刻印が痛んだ。激しい怒りに囚われ、紗矢は卓人を睨みつけた。
「命に代えても卵は守ってみせる! 私はそのための存在なんだから!」
紗矢の叫びに、卓人は一瞬目を見張った後、気に入らないように顔をしかめ、卵を持つ手に力を込めた。
「バカ言うな」
珪介は怒りを滲ませた声でそう呟くと、紗矢の背中に添えていた手を、ぎゅっと握りしめた。
思わず振り返った紗矢の瞳を見つめ返し、珪介は口元に笑みを乗せる。
「卵も紗矢も守ってみせる」
珪介の宣言に同意するように、ランスが唸り声を上げ紗矢の隣に並ぶ。人と獣。それぞれが敵意をむき出しにして、向かい合った。珪介がランスを横目で見、先手を打った。
「ランス!」
小さく呼びかけた瞬間、赤い躰が弾丸のように突き進んでいく。そして卓人の鳥獣ともつれ合いながら、塔の外へと飛び出して行った。
「もう一度、峰岸の隙をつく。絶対に奪い返すぞ」
ギャアギャアと獣の叫びが反響する中、珪介が小声で話しかけてくる。紗矢は気持ちを引き締めるように表情を改め、こくりと頷き返した。
赤と灰色がぶつかり合い、せめぎ合っている。
珪介に切りつけられた傷が痛むのか、卓人の鳥獣は防衛に回ることが多く、どう見てもランスが優勢に立っていた。
卓人はちっと舌打ちし、卵を持っている手を大きく振り上げた。
「させない!」
珪介はすでに動いていた。紗矢が息をのむと同時に、卓人の背後に回り込み、腕を掴んだ。
卓人は身を翻し、珪介に向かって刀を凪ぐ。珪介は卓人の腕を離し、後ろへ下がりそれを避けると、瞬時に攻撃へと転じていく。
鳥獣に踏まれた手がズキズキと痛んだ。逆にそれが紗矢の意識を研ぎ澄ませていく。
(守りたい……卵の中にいる小さな命を)
紗矢は深呼吸をしたあと、瞳を閉じ、ゆっくりと手を上昇させる。
頭の中でイメージするのは、かつて舞が見せた異形を弾き飛ばした時の姿である。
『力で弾き飛ばせ!』
頭の中で珪介の声が響き、紗矢は瞳を開けた。
珪介が振り降ろした刀を、かろうじて刃で受け止めた卓人の姿を、視界に捕らえる。
バチッ――っと、爆ぜたような音が鳴り、続けざまに派手な音を立て床に刀が落ちた。
卓人がうめき声を上げ、刀を離した右手で左の手首を抑えている。痙攣する左手から卵が落ちていった。
即座に珪介は身を屈め、卵に向かって手を伸ばす。身を伏せていた長がぴくりと顔を持ち上げた。床に落ちるギリギリの所で、珪介は卵を受け止めるが、ほぼ同時に、卓人が珪介の腹部めがけて足を蹴り上げた。
「……ぐっ」
珪介は顔を歪めた。
しかし、卵は離さないとばかりに両手で掴み直したのを見て、卓人は苛立ちのままに珪介の手を蹴り飛ばした。
「止めて!」
更に蹴り上げようとするのを阻止するべく、紗矢は卓人に体当たりをした。しかし、それほど効果はなく、逆に突き飛ばされてしまう。
苦悶の声を上げ、床に身を投げだす形で、灰色の鳥獣が外から飛び込んできた。続くようにランスも戻ってくる。
所々怪我を負ってはいるが、まだまだ余力を残していると感じさせるランスとは逆に、灰色の鳥獣はもう戦意を喪失した様子で、苦しそうに悶えている。
「紗矢!」
蹴り続けられる最中、珪介が紗矢の名を呼ぶ。
珪介と視線を通わせ、そしてランスを見て目を合わせ、紗矢は気持ちを固めた。再び走りだし、力いっぱい卓人に体当たりをする。
すると続くように、ランスも卓人に体当たりする。卓人の気持ちがランスに逸れた瞬間、紗矢は珪介に駆け寄り、手から卵を掴み取った。
「ランス!」
ランスを呼び、体勢を立て直そうとした瞬間、塔の内部に突風が吹きこんできた。
風にあおられ動きを止めてしまった紗矢の腕を、卓人が掴んだ。紗矢の手から卵を奪い返し、卓人は外に向けて振りかぶった。
「やめて!」
卵は卓人の手から離れ、飛んでいく。
「いやっ!」
紗矢は走りだす。
「紗矢!」
珪介も立ちあがる。
懸命に走り、手を伸ばし、柱と柱の隙間を通り抜けた卵を、紗矢は掴み取った。
「――……っ!」
しかし、駆け抜けてきた強風に背中を押され、紗矢の体がグラリと傾いた。
崩れたバランスを戻すことはできなかった。足が床から離れていく。
「紗矢ーーっ!!」
(……珪介君の……声が……聞こえた)
しかし今は、びゅうびゅうと風を切る音しか聞こえなかった。紗矢の体が真っ逆様に落ちていく。段々と、気が遠くなっていく。
(……卵……が……)
無意識に、紗矢は卵を抱き締めていた。
(……ごめん……)
薄れていく意識の中で、違う音が聞こえた。
バサリ、バサリと、音は途切れ途切れに繰り返され――……すぐ傍にその音を感じた瞬間、紗矢の体が力強く引き寄せられた。
体を包み込んだ温かさにハッとし、紗矢は目を見開く。
(……珪介君……)
紗矢は、珪介の腕の中にいた。
落下する先を力強く見据えてから、珪介は紗矢の頭の後ろに手を移動させ、顔を近づけてきた。
唇が重なり合い、刻印がカッと熱くなっていく。力が珪介に引き出されていく。涙で滲んだ視界に、綺麗な赤い翼が見えた。
(……珪介君の……この翼……私が見たかった翼……)
それは獣舎の中で見た翼よりも艶やかで、力に満ち溢れ、壮麗な翼だった。
珪介の翼のずっと向こうに、ランスがいた。こちらに向かって真っ直ぐ降りてくる。そしてその向こうに見えた姿に、紗矢は目を大きくさせた。
ランスよりも遠い場所に見えた長の姿がぐんぐん近づいてきた。ランスを追いこし、目の前まで迫ってくる。
自分を抱きしめる珪介の力がぐっと強まったその時、長の姿がふっと消えた。ふわりとした感触に体が沈み、大きく跳ねた。周りには沢山の白が舞っている。
「……雪」
白いそれに手を伸ばし触れると、ほのかな光を放った。隣で珪介が身を起こし、驚きの眼差しで辺りを見ている。
「珪介君」
「紗矢!」
覗きこんできた珪介が真っ白な光に包まれているように見え、紗矢は目を細めた。
珪介の頭の上で白い光が眩く輝いた。
まるでそれは、長が白き冠を珪介に与え、今後のすべてを託したかのように、紗矢には見えた。
光が徐々に薄れ、白が羽根に変わっていく。
ざっと吹き抜けた風にそれらが舞い上がり、見慣れた景色が現れた。
「珪介!」
「紗矢ちゃん!」
聞こえてきた修治と舞の声に、紗矢も身を起こした。
紗矢と珪介は越河家の庭、芝生の上にいた。
修治と舞が駆け寄ってくると、ランスも紗矢の隣に舞い降りてきた。
「ランス!」
ランスが喉を鳴らしながら、小さな顔を紗矢の頬に擦りつけてきた。
紗矢は笑みを浮かべてから、空を見上げた。青く広がるそこに長の姿はなく、紗矢の心に寂しさが広がっていく。
「紗矢……卵が」
珪介の一言で、紗矢が慌てて視線を落としたその時、卵が中から突き破られた。
中に小さな嘴が見えた。程なくして、卵の殻が大きく割れ、中から小さな金色の鳥獣が飛び出してきた。
紗矢と珪介の周りを優雅に飛び回ったあと、紗矢の肩に舞い降りてくる。
ランスは金色の鳥獣を目で追っているが、しかし集まってきた皆の視線は、紗矢の手の中だけに向けられている。
「会えて良かった……本当に良かった」
紗矢は涙を指先で拭ってから、自分だけしか見えない小さくも愛おしい存在に頬をくっつけ、満面の笑みを浮かべた。
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