第54話 守るべきもの、1

 苦しそうな声を発しながら長の躰がぐらりと揺れ、紗矢は慌てて長の背中から降りた。

 床に降り立った瞬間、柱と柱の間から強い風が吹き抜けていく。突風に煽られよろめきながらも、紗矢は降りたばかりの長の躰にしがみつき、必死に堪えた。


 風が止む。音も止み、場が静けさを取り戻すと、不意を衝くように卓人が笑った。くぐもった笑い声が響き、反響し、薄気味悪さを増幅させていく。


 笑い続ける卓人と、卓人の斜め前に立ち興奮気味に鳴き声を発する灰色の鳥獣。

 珪介と紗矢が困惑し見つめる先で、肩を揺らし笑っていた卓人の顔から、突然笑みが消えた。


「やっぱり求慈の姫に戻っちゃったんだ」


 非難じみた声音でそう呟き、卓人は紗矢を見た。

 鋭く攻撃的な瞳と、ゆらり現れた灰色の光に、紗矢は言葉を返すことが出来なかった。


「何でお前がここにいる」


 珪介は庇う様に紗矢の前へと移動し、刀の切っ先を卓人に定めた。


「すべてをぶち壊してやろうと思って」


 臨戦態勢に入っている珪介を一瞥し、卓人は鼻で笑った。

 感情のこもっていない声音が、冷たさと異様さを際立させ、嫌な緊張感を生じていく。珪介からも赤い光が立ち上りだす。


 一触即発の状態に紗矢が息苦しさを感じた瞬間、柱と柱の隙間からランスが飛び込んできた。

 そのまま滑らかな動きで珪介の隣に着地し、卓人の鳥獣に対し威嚇の声を上げた。


「どっちが先にここへ来るか予想してたんだけど、見事に外れちゃった」


 また卓人は嘲るように鼻で笑い、くたりと身を伏せている真白き長に目を向けた。


「その赤いヤツを飛ばしてここに来るだろうと思ってたから、着いた順番で始末していこうと思ってたのに、まさか長に乗って二人一緒にくるなんてさ」


 そして、つまらなさそうに肩を竦めた。


「その死にぞこないに、よく乗る気になったね」


「峰岸君!」


 その一言で、瞬時に紗矢の頭に血が上っていく。噛みつくように声を荒げれば、卓人は顔をしかめ、大げさにため息を吐いた。


「それのどこに畏怖すべきところがあるって言うの? 俺の鳥獣の方がよっぽど強いよ」


 目の前にいる自分の鳥獣に視線を向け、卓人は愛おしむような笑みを浮かべた。


 紗矢は卓人の鳥獣を見て、即座に体を強張らせた。目が合った瞬間、鳥獣が紗矢を見て再び喚き始めたからだ。

 興奮を抑えられない様子で鳴き声を上げるその姿は、紗矢の記憶に残っている姿と重なって見えた。


「……あぁ。あの時コイツも、紗矢ちゃんを喰らったもんね。そりゃ覚えてるよね。紗矢ちゃんの力」


 卓人は鳴き声を上げ続ける鳥獣と怯える紗矢を見てからほくそ笑み、珪介を横目で見た。


「すごく美味しかっ――……っ!」


 言い終わるよりも先に、珪介の背に赤い翼が現れた。大きく広げられた羽が、赤い光の尾を引く。

 ほんの一瞬で卓人との距離を詰め、勢いのままに斬りかかろうとしたが、寸でのところで、珪介の動きが止まった。


「お前っ!」


 大きく後ろに飛び後退してきた珪介の横顔には、焦りと怒りが浮かんでいた。

 ランスも長も、ほぼ同時に、卓人に向かって唸り声を上げる。嫌な予感が、紗矢の心を締め付けていく。


「さっき言ったよね。すべてをぶち壊しに来たって」


 卓人の前にいた灰色の鳥獣が威嚇の声を上げ、体勢を低くし動き出す。鳥獣が退き見えた卓人の右手に、直径が十センチほどの白い球体が乗っていた。


(あれは……)


 小さめの手毬のように見えたそれが、僅かに発光する。そして金色に輝いた後、元の白い塊へと戻っていった。

 紗矢は目を見開き、息を詰めた。それが何か分かったのだ。卓人が持つそれこそが、紗矢の守りたいものであり、守らなくちゃいけないもの――……金色の鳥獣が産み落した、卵である。


 頭の中が真っ白になった後、徐々に怒りが沸き起こってくる。

 先ほど卓人は『すべてをぶち壊してやろうと思って』と、言った。紗矢は力いっぱい拳を握りしめた。


「……返して。卵を返して」


 怒りに震えながら紗矢が要求すれば、卓人は卵を持った右手を上昇させ、ほくそ笑んだ。


「返すわけないじゃん。返したら、わざわざこんなところまで来た意味がなくなっちゃうし」


 卵をよく見れば、僅かにひびが走っている。力を込めたら、そのまま潰されてしまうような気がして、紗矢は怖くなった。


「返してよっ!」


 卓人から取り戻さなくてはいけない。

 焦りと共に紗矢が一歩を踏み出した瞬間、卵を持っていた手がくるりと裏返された。

 小さな悲鳴を上げ、動けなくなった紗矢を見て、卓人は満足そうに笑った。卵は床に落ちなかった。卓人に掴まれたまま、手の下に留まっている。


「……やめて」


 しかしその状態で安心など出来るはずもない。手を離せば、そのまま床に落下してしまう。


「やめてっ!」


 紗矢は耐えきれなくなり、卓人に向かって走り出した。


「紗矢! 下がれ!」


 珪介が叫ぶと、卓人の口角が上がっていく。紗矢の視線の先で卓人の左手が動き、腰に添えられている刀の柄を掴んだ。身の危険を感じるよりも早く、紗矢の腕が後ろから強く引っ張られた。眼前を閃光が走っていく。

 床の上へ尻餅をつき、見上げた紗矢の目には、背に灰色の翼を広げ、表情を歪ませ刀を振り上げる卓人の姿が映っていた。


 刀と刀がぶつかりあう。珪介は紗矢を庇うように卓人の刀を受け止め、そして力で押し返した。

 卓人はふらつきながら数歩後退したが、自分を見失ったかのような怒号を上げると、再び珪介へと向かってくる。

 珪介も柄を掴み直し、卓人に斬りかかっていく。二つの力のぶつかり合いから目をそらさぬまま、紗矢は立ち上がる。

 腕を競えば珪介が上だが、今は卓人の左手に卵がある。本気を出すことはできないだろう。


 卓人が振りおろした刀が、珪介の頬を掠めた。

 卓人がニヤリと笑い、僅かな隙を見せたその時、珪介が卵を持つ左手を蹴り上げた。


 咄嗟に紗矢は走り出していた。

 卵が弧を描き、床へと落ちるその寸前で、紗矢は両手を伸ばし卵を受け止めた。勢いを止めることはできず、そのまま床を滑るように転がった後、紗矢は慌てて上半身を起こし卵を確認する。新たなひびは入っていない。ホッと息を吐き出した。


「紗矢! ランスに乗って、先に下へ降りろ!」


 焦り声の指示を聞き、紗矢は勢いよく顔を上げる。


「でもっ!」


「俺は平気だ。先に降りろ! 早くしろ!」


 心の中で「でも」と繰り返し、胸元で卵を抱きかかえたまま珪介を見つめてしまう。珪介を置いていくことへの戸惑いが大きくて、すぐに決断することが出来なかった。


 しかし、ぐったりと横たわっている長と、長の前で壁となり卓人の鳥獣に向かって毛を逆立て威嚇をするランスを見て、紗矢は心を決める。


(心配だけど……大丈夫。珪介君は、峰岸君には負けたりしない……私はこの卵を、産まれてくる雛を絶対に守らなくちゃいけない!)


 卓人との攻防の狭間でちらりと自分に目を向けた珪介へと、紗矢は力強く頷いた。

 立ち上がろうとすれば、鳥獣から太い呻き声が上がった。

 ランスが鋭い鉤爪を卓人の鳥獣の脇腹に突き立て、そして珪介の言葉に従うように紗矢の元へとやってくる。


 紗矢はもう一度珪介を見てから、体勢を低くしたランスに背中に手を伸ばした。

 右手に持った卵に気を配りつつ、よじ登ろうと力を込めた時、紗矢に緊張が走った。灰色の鳥獣がこちらに向かってくる。そのまま猛烈な勢いでランスに体当たりをした。


「きゃあっ!」


 ランスごと紗矢はなぎ倒され、床へしたたかに体を打ち付けた。

 手の力が抜け、卵が真っ白な床へ転がり落ちたことに気が付き、紗矢は慌てて手を伸ばす。しかし、卓人の鳥獣が怒りの咆哮を上げ、前足で抑えつけるように、紗矢の手を踏みつけた。


 激痛が走り苦悶の声を上げた直後、鳥獣の嘴が目の前にある卵を掠めたのを目にし――、紗矢は叫んだ。


「だめっ!」


 刻印が熱くなり、紗矢の手を押さえつける鳥獣に前足の下で火花が散った。

 卓人の鳥獣は野太い声を上げ、飛び退くように紗矢から前足を離すが、ぶるりと身を震わせたのち、荒々しく鳴いた。恐怖と痛みで混乱してしまったようだった。嘴から舌を垂らし、目を異様なほどにギラギラさせながら、鳥獣は太く鋭い鉤爪を紗矢めがけて振り上げた。


 鳥獣の悲鳴が木霊する。爪が紗矢に到達する前に、真っ白な床に血が飛び散った。珪介の刀が唸りを上げたのだ。

 前足を深く切りつけられ、卓人の鳥獣はいびつな動きで珪介から距離を取っていく。

 珪介は肩で息をしながら、様子を確認するように紗矢を見た。紗矢も珪介を見上げた。大丈夫だよと言いたいのに言葉を発することができなかった。


「……まだ終わってないよ」


 低い声音が響いた。即座に振り向けば、卓人が屈んでいた身を上げ、虚ろな顔を二人に向ける。


 その手は、卵を掴んでいた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る