第52話 求慈の姫

 学校を出て坂を降り、赤い橋を渡り、紗矢は越河家に向かって懸命に駆け抜けていく。


 学校と越河家のほぼ中間地点にある林に差し掛かったところで息苦しさに耐えられなくなり、両ひざに手を突き、身を屈めた。

 荒々しい呼吸を繰り返し息を整えながらも、目は木々の隙間へと向いてしまう。


(ここで立ち止まってたら、危険かもしれない)


 隙を見逃すまいとこちらを伺う禍々しい気配がそこにあった。視線を移動させれば、それらが林の至る所で潜んでいることも分かってくる。


 バサリバサリと羽音を響かせ、ランスが紗矢の隣に舞い降りてきた。すると異形の気配が怯えるように距離を置く。紗矢はランスの躰を撫でながら、少しだけ力を抜き、道の先を見据えた。


「早く行かなくちゃ」


 思い切り息を吸い込んで、再び走りだそうとすると、後ろから制服を引っ張られた。驚き後ろを見れば、紗矢を引き留めるようにランスが嘴でブレザーを挟んでいた。


「ランス?」


 ランスはブレザーから顔を離し、視線を上空へと向けると、グルルと喉を鳴らした。


「どうしたの?」


 じっと一方向を見つめているランスと同じように、紗矢も空を見上げた。しかし青い空と白い雲しか見当たらず、紗矢は困り顔でランスの顔から林の先、そして空を順番に見た。

 心なしか、ランスが緊張しているように思え、紗矢は気持ちを落ち着かせるように赤い躰を撫で続ける。


(どうしたんだろう)


 小首を傾げてからもう一度視線を上昇させ、紗矢は目を見開いた。大きな躰が上空を通りすぎて行った。


「……長」


 思わずその名を呟けば、再び大きな影が地面を走っていく。程なくして、目の前に長が降りてきた。その姿を見て、紗矢は言葉を失った。自分の記憶の中のある雄姿とは、かけ離れていたからだ。

 所々、翼が抜け落ち、真っ白だった躰には濁った色が混ざっている。地面に降りてくる様子も何とも頼りなく、バランスをうまく調整できないのか、体が左へと流れてしまっている。

 とうとう、舞い降りるというよりは落下する形で、長は地面に到達した。力を使い切ってしまったかのように、くたりと身を伏せた長の元へ、すぐに紗矢は走り寄っていく。


「どうして……こんな」


 まだらになってしまった躰に、そっと手を触れれば、胸元にじわりと熱が広がっていった。刻印がまた力を取り戻していくのを感じながら、紗矢はブラウスのボタンへと手を伸ばした。

 卓人に解かれてしまったリボンは結びなおす気力もなく、そのままポケットへ押し込んでしまったが、ボタンを外したままでいるのは恥ずかしくて、きちんとかけ直したのだ。それをまた一つだけ外すと、黒々とした刻印の一部が、紗矢の目に飛び込んできた。


(色が濃くなってきてる)


 消える不安を完全に拭い去ることは出来ないが、それでも、湧き上がってくる力が紗矢の自信に繋がっていく。


(私は越河の刻印持ちだって、胸を張って珪介君に会いに行って……良いですか?)


 祈るような思いで長を見つめれば、突然、閉じていた瞼が勢いよく開かれ、紗矢に強い眼差しを向けた。

 目と目が合い、紗矢の鼓動がドクリと跳ねた。体の真ん中を、鋭く貫かれたような感触が通り抜けていく。身動きもできぬまま、紗矢はじっと長の瞳を見つめ返した。くたびれてしまった見た目とは逆に、長の瞳には強い力があった。

 ふと、何かを語りかけられているような気持ちなったが、長の言葉は以前のように響いてこなかった。

 紗矢が口惜しさに唇を噛んだ瞬間、長がゆらりと身を起こし、空を見上げた。見ているのは越河家のある方角だと気が付くと、後ろに控えていたランスが唸り声を上げた。慌てて振り返れば、ランスも長と同じ方に顔を向け、毛を逆立てている。


「いったいどうしたの?」


 何に対し警戒しているのが判断できず、紗矢はランスから長へと視線を戻した。ちょうど長の顔も紗矢へと向く。

 再び視線を通わせた瞬間、長が毛を逆立て、そして咆哮を上げた。紗矢は目を見開き、息をのんだ。ずきりと痛みを発した刻印が熱を産み、その熱が頭の天辺へ、指先やつま先にも広がっていく。

 間を置かず、広がっていった熱が、刻印へと戻っていく。金が黒を覆い尽くしていった。

 長の咆哮で震えていた木々が静かになっていく中、紗矢の鼓動だけが最後まで強く鳴り響いていた。


「……私……」


 刻印が輝きを取り戻したことに驚き、次の言葉を発せずにいると、長の体がぐらりと傾いだ。大きな音と砂埃を巻き上げながら、地面に倒れてしまった。


「長!」


 慌てて紗矢は長に近づいていく。


「しっかりして!」


 躰を摩りながら、そう呼びかける。辛そうな唸り声を上げるが、紗矢を見る目はまだ輝きを失ってはいない。また何かを話しかけれたような気持ちになり、紗矢は涙ぐんだ。温かな躰に両手を伸ばし、紗矢は長の体に抱きついた。


(きっと、長は私を叱りに来たんだ。お前は何してるんだって)


 同時に、力を失ってしまったことを叱りに来ただけではないことも、気が付いた。再び紗矢の中の力を呼び起こすために、長はこの場に降り立ったのだ。

 今、紗矢の刻印は光っている。しかし長の言葉は聞き取れない。それほど弱っているというのに、長は力を振り絞り、紗矢の元へやってきたのだ。


「ごめんなさい!」


 抱きしめる力を強めると、ランスとよく似た喉を鳴らす声が長の躰から響いてきた。

 背後でランスが警戒の声を上げ、長は静かに頭を持ち上げた。そのまま立ち上がろうとする長から身を離し、紗矢は天に向かい唸り声を上げ始めたランスを振り返り見た。


「……ランス」


 紗矢は越河家の方角に体をむけ、目を細めた。

 獣舎、広い庭、二つ並んだ屋敷。天高くそびえたつ真白き塔を思い浮かべた瞬間、ぞくりと両腕に鳥肌が立った。塔の上、雲に隠れ見えないそこから、嫌な気配を感じ取ったのだ。警鐘を鳴らすかのように、鼓動が重々しく響き出す。


「行かなくちゃ」


 声を震わせながら、紗矢はランスを見た。ランスはすぐに翼をはためかせ、舞い上っていく。しかし、紗矢はなかなか走りだすことが出来なかった。長をこのままここに残していくのが心苦しかったからだ。


「……えっ……ちょっ……えぇっ!?」


 戸惑っていた紗矢の足が、突然、宙に浮いた。

 長は嘴で器用に紗矢の体を挟み持ち上げると、そのまま自分の背に放り投げた。

 想像以上に広い長の背中の上でどうしていいのか分からず、おたおたしている紗矢にはお構いなしに、長は動き出す。振り落とされそうな予感がし、咄嗟に紗矢は背中にしがみついた。


(……私、前に……ランスに乗りたいとか珪介君に言ったけど……)


 紗矢を背に乗せ、長が一気に空へ舞い上がっていく。


(こっ、恐いよーー!!)


 声にならない叫びを発しながら、紗矢は必死に長に縋り付く。急上昇し、雲を突き抜けると、隣にランスが並んだ。励ますような鳴き声を聞き、紗矢は弱々しく笑いかけたのだった。



+ + +



 玄関から勢いよく庭へ飛び出し、珪介はちっと舌打ちをした。庭にいた人々の視線が一斉に自分へと向けられたからだ。

 しかし、今、足止めを喰らう訳にはいかない。珪介は客人たちの間を縫うように、庭を走り抜けていく。


「珪介! 着替えもせずに、何をしている」


 しかし、途中で腕を掴み取られた。肩越しに相手を確認すれば、父の和哉だった。


「それどころじゃない! 腕を離せ!」


 乱暴な物言いに、周囲から小さなざわめきが起こった。腰のまがった老人の相手をしていた蒼一も、慌てて歩み寄ってくる。


「それどころじゃないとは、どういうことだ」


 非難するような響きを含んだ周りの囁き声など気にせずに、和哉はまっすぐに珪介だけを見つめている。


「親父! 珪介を行かせてやれ! 一大事だ!」


 玄関から駆けて出てきた修治が声を張り上げる。その後に続けて出てきた舞が、うっと表情を歪め、修治の腕を掴んだ。

 何事かと再びざわめきが起こったが、身背中を丸め胸元を抑えたまま、舞がしばらく動かずにいると、徐々に場が静かになっていった。

 舞はゆっくりと息を吐き出すと、背筋を伸ばし、シャツのボタンを一つ外した。刻印の一部を珪介に見せ、ニヤリと笑った。思わず珪介も笑みを返す。舞の刻印が、黒に戻っていたのだ。

 固まった手を珪介にそっと掴まれ、和哉はハッと我に還った。


「ど、どういうことだ」


 珪介の腕を離しながら、和哉が問えば、珪介の隣に並んだ蒼一が笑みを湛えた。


「求慈の姫を珪介が連れてくるまで、我々がもうしばらく場を繋がなくてはいけないということだな」


「お願いします」


 父と兄に向かって頭を下げ、珪介は走りだす……しかし、庭から出る少し手前で、走る勢いを殺し、弾かれたように振り返った。雲に隠れた塔の上部に、探るような視線を珪介は向ける。


(……何だ?)


 はるか上空に、微かな何かを感じた。それが何かを察知できるほど気配は大きくないが、確かに何かがいる。

 胸騒ぎに目を細めたが、ランスの鳴き声を耳にし、珪介はすぐに視界を移動する。青い空に、白と赤の姿があった。それらはみるみるうちに近づいてきた。

 気付いた庭の客人たちも長の様子がおかしいと騒ぎ出した。しかし、すぐにそれは悲鳴へと変わる。みな一斉にその場から逃げていった。


 長は下降と上昇を繰り返したのち、庭の上空で力が尽き、落下した。騒然とする中、珪介は長に向かって走り出していた。長の背から芝生の上へと転がり落ちた姿が見えたのだ。


「紗矢っ!」


 痛みを堪えるような声を発しながら、芝生の上で身を起こした彼女が珪介の声に反応し顔を上げた。


「珪介君!」


 珪介は一気に走り抜け、その腕でしっかりと紗矢を抱き締めた。


「……会いたかったよ」


 震えながら耳元で囁かれた言葉に、珪介は頷き返した。


「俺も、会いたかった」





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