第51話 絆
「珪介君っ!」
重い足を必死に前へと出し、紗矢は珪介を追いかけた。
「珪介君! 待って!」
息も絶え絶えに名を呼び続け、やっと、体育館と図書館の間で珪介に声が届いた。
「紗矢」
珪介は足を止め、ゆらりと振り返り、ほほ笑みかけてきた。
紗矢は一度足を止めてから、息を整えつつ、一歩一歩珪介に向かって進んでいく。互いの距離が短くなっていく。辛さや痛みが和らぎ、徐々に心が喜びで満ちていく。自然と、紗矢も珪介に微笑み返していた。
「紗矢」
珪介が迎え入れるように手を広げた。
愛しさのままに、紗矢は珪介へと手を伸ばし――……ぞくっと身を震わせた。違和感を覚え、ぴたりと足を止める。珪介なのだけれど、何かが違うような気がした。
「……珪介、君?」
ぎこちなく問いかければ、珪介が笑みを深めた。夢から覚めたように、心が一気に冷えていく。
紗矢が伸ばしていた手を引っ込め、半歩後退すると、珪介から笑みが消えた。
珪介の右頭部が闇の色に染まり、風に巻き上げられたかのようにざわりと動いた。
恐怖で足を竦ませた紗矢の視線の先で、蠢く影たちが元の場所に戻り、再び珪介を形成していく。
(……異形)
疑うことなく、警戒することもなく追いかけてしまったことを後悔したが、もう遅かった。
足が下がり、靴底が砂を噛んだ瞬間、珪介の足元が黒へと変化した。影が、溶け出しているかのように地面に広がり、背丈が短くなっていく。一つ、また一つと、バスケットボールほどの大きさの黒い塊が作られていく。そして現れた正体を見て、紗矢は息を飲んだ。硬い毛を身に生やし、じりじりと近づいてくる異形は、以前、噛まれたそれである。
増えていく塊に、恐怖で後ずさりながらも、紗矢は必死に考えた。
(逃げなくちゃ……でも……どこに行けば……)
校舎内に向かっても越河家の男はいない。だからと言って、彼らがいるだろう越河家まで逃げ通すことも難しいだろう。
忙しなく辺りを見回し、視界を掠めた建物にハッとしたその時、近づいてきていた毛獣が、紗矢めがけて高らかに飛び上がった。それを切欠に、紗矢は走りだしていた。
(図書館だ!)
目指す先は、越河の結界が張られてある図書館。
追いかけてくる騒めきの恐怖に負けぬよう、心を奮い立たせながら、必死に走り続けた。
「――っ!」
戸口にたどり着きドアノブを回し、紗矢の顔から血の気が引いていく。
鍵がかかっていて中に入れないことに、愕然としながらも、紗矢はその場から離れるべく身を翻し、言葉を失う。
目の前には異形の獣たち。そして背後は開かぬ扉。逃げ出す道などもうどこにも残されていなかった。
じりじりと距離を詰めてくる異形に対し、震え出した手をぎゅっと握りしめた。
不意に、異形が動きを止めた。一斉に襲い掛かってくるのを覚悟し、奥歯を噛みしめる。
「――……っ?」
……しかし数刻が過ぎても、異形たちは動きを止めたまま、飛びかかってこなかった。
眉間に込めた力を少しずつ解きながら、辺りの様子を伺っていると、微かな耳鳴りがした。
(耳鳴り?……違う、耳鳴りなんかじゃない)
その音が段々と明瞭になっていく。
(鳥の鳴き声だ)
甲高い鳴き声に、鼓動がトクリと跳ねた。
まるで波が引いていくかのように、異形たちが一気に紗矢から距離をとり、後退した。
そして紗矢の耳には違う音も、聞こえていた。
(羽音が聞こえる)
空を見上げても何も見えないが、力強いその音は確かに聞こえてくる。
自分と異形の間に出来た隙間から、ふわりと温かな風が吹いてきたのを感じ、紗矢は瞳に涙を浮かべながら、一歩前へと足を踏み出した。
「……ランス?」
手を伸ばした先で、温かな何かに触れた。知っている感触に、愛しい感触に、紗矢の頬を涙が伝って落ちていく。
「ランス!」
確信を持ってその名を呼べば、また柔らかな風が産まれた。
触れているその場所で、眩い光の粒子が舞いあがった。徐々に赤い姿が現れ始め、早まる鼓動が胸を熱くさせていく。
ランスはぐっと体勢を低くし、咆哮を上げた。
びりびりとした振動が紗矢の体を駆け抜けた後、温かな躰に添えた手から、新たな力が体の中へと入ってくる。
そっと手を離せば、ランスがばさりと羽を広げた。輝きと共に散っていく赤に、紗矢の鼓動が高鳴った。
異形の獣が、次々と炎に包み込まれ、惑いながらも一斉に物陰へ消えていく。
場が清浄さを取り戻すと、逆立てた毛を収め、ランスが紗矢へと躰を向けた。しばらく見つめ合った後、恭しく、紗矢へと赤き頭を垂れた。
「……ランス」
待っていたよと、信じていたよと、言われた気がして、紗矢の目にまた涙が浮かび出す。
頭を上げ、再び目と目を合わせれば、ほんの一瞬、その表情に珪介の顔が重なった。
紗矢は自分より大きな体にしがみつき、ぎゅっと抱きしめた。
久しぶりに触れるランスの温度に、久しぶりに聞く喉を鳴らす声に、甘えてくる仕草に、また涙が流れ落ちていった。
+ + +
「私は、求慈の姫にはなれない! 紗矢ちゃんみたいに、鳥獣を手放しで可愛がることなんてできない!」
「で、でもっ。現状、求慈の姫は舞さんなんですから、とりあえず今だけちょっと我慢して、そろそろ着替えた方が……」
裕治が場をとりなすようにそう言えば、舞は持っていたワンピースを乱暴に床へと投げ捨て、ジロリと睨みつけた。祐治はすぐさま口を閉じ、口元をひきつらせる。
「舞お姉ちゃん、小さいころに峰岸卓人の鳥獣に攻撃されたのが、トラウマになってるからね」
壁際に立っていた唯が小声でそう呟くと、舞はぶるりと身を震わせ腕を摩った。
「私は、紗矢ちゃんは帰ってくるって思ってる」
足元にある白いワンピースを見つめながら、舞は思いを言葉にしていく。
「他家に求慈の姫の座が奪われるくらいなら、私がそれまでの代理として求慈の姫でいようって思った……あんた達の……ランスは無理だろうけど、ソラとスイとライラだったら、可愛がることができるかもしれないって、頑張ってみたわよ」
舞は大きく首を横に振った。
「でもダメだった。私は怖くて必要以上近づくことが出来ないし……鳥獣たちも寄って来ない」
深呼吸してから、舞は気持ちを立て直すと、机に寄りかかった体勢のまま俯き加減で何かを考えている珪介を見た。
「求慈の姫と、刻印を持ってるだけの私たちの間にある大きな違いはそこよね。唯だって、ずっと餌やりをしてた愛姉さんや美春さんだって、他家の刻印持ちもきっとそうだと思うわ。鳥獣たちは刻印を持っているだけじゃ懐いたりしない……でも求慈の姫は、紗矢ちゃんは違う……でしょ?」
珪介も視線を上げ、舞を見た。
「……そうかもしらねーけど、今は、舞がやるしかねーじゃん」
しばらくの間を置いて、修治が歩き出した。床のワンピースを拾いあげ、舞の手元へと突きだした。
その手が小刻みに揺れたことに気付き、舞は弾かれたように、修治を見上げた。しかし見えた表情は、強い覚悟に溢れていた。
舞は目を見張ったあと、瞳を揺らしながら修治から視線をそらした。
「そうだな。やるしかない」
かちゃりと戸を開け、忠実がずかずかと部屋に入ってきた。そして舞と修治の傍で足を止めた。
「今回の顔見せは婚約を知らせるだけじゃない。塔から長を呼び、雛を授かるという儀式も兼ねている……もう時間がない。着替えるんだ。舞も珪介も」
舞はきゅっと唇を引き結び、修治の手からワンピースを受け取った。
「雛は舞に受け取ってもらう」
ギシッと音を立てながら、珪介は机から離れると、部屋の中央にいる舞たちの元へと歩を進めた。
「けど、俺は舞と婚約なんかしない」
戸惑うように瞬きを繰り返している忠実に向かって、珪介は顔をしかめた。
「舞を嫁にもらうつもりなんて、全くない」
それを聞いて、舞がぷっと吹き出した。
「そうね。私も珪介と結婚する気ないし、今日は代理と割り切って――……」
「おいおいおい。勝手に話を進めるな」
慌てて言葉を遮った忠実へ、珪介と舞が白けた目を向ける。
しかし、すぐに珪介は窓際へと戻っていく。そっと瞳を閉じ、眉根を寄せた。
「さっきからずっと、異形が騒いでる……胸騒ぎがする」
意識を集中させれば、姿の見えない自分の分身と気持ちが繋がっていく。
(ランスがひどく警戒してる……お前、今どこにいるんだ)
問いかければ、瞼の裏に、薄ぼんやりと景色が広がった。
珪介はハッと瞳を開けた。それは初めての感覚だったからだ。
驚きに一瞬鼓動が高鳴ったが、しかしすぐに短く息を吐き出すと、再び瞳を閉じる。
(何か、俺に見せようとしてるのか?)
ランスに気持ちを寄せていくと、再び、風景が浮かび上がってきた。
青空から、五之木学園の校舎、そして視界が落ちれば、嫌な感覚が肌を撫でた。校舎の暗がりから這い出して来た異形たちが、あろうことか自分の姿を形作ったからだ。
『珪介君!』
聞こえた声に、どきりと鼓動が強く音を立てた。同時に嫌な汗が額に噴き出してくる。
自分に模倣したそれを追いかけるように、紗矢が駆けていく。
珪介は瞳を見開いた。
「だめだ!」
焦りに恐怖が混ざり合った声を上げた珪介を、その場にいた皆が驚き見た。
「お、おい。いきなりどうしたんだよ!」
「紗矢が……いや、ランスがいる。大丈夫……でも」
珪介は修治にそれだけ言って、机上に置いておいた自分の刀を手に取り、走りだした。
「ちょっ、待てって! 珪介!」
戸を開け、部屋を飛び出した珪介を、すぐに修治が捕まえた。
「離せ!」
「だから、いきなりどうしたんだって!」
廊下でもみ合っている最中、突然、修治が弾かれたように顔を上げ、窓の外を見た。
「気づいたか?」
「……あぁ……この感じ……片月だ」
修治の返答に、珪介はニヤリと口の端を上げる。
「戻ったのか」
「学園内で、異形に狙われている。すぐ傍にランスがいるから大丈夫だとは思うが、俺は行く。悪いけど、帰ってくるまでの間、庭の連中の相手してて」
自分の腕を掴む修治の手の力が抜けていくのを感じながら、珪介はそう要求する。
階段へ向かって歩を進めた瞬間、ざっと大きな影が廊下を走った。珪介も修治も、そして遅れて廊下に出てきた面々も、揃って窓へと歩み寄った。
「……長」
白く巨大な体が、どこかに向かって大空を飛んでいくのを見つめながら、珪介は囁くようにその名を口にした。
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