第50話 背中を押す思い
「まだ熱があるわね」
渡した体温計を見て困った顔をする母を見ながら、紗矢はベッドから両足を下ろした。
「私、今日は学校行く」
ハンガーラックにかかっている制服へ向かって歩き出すが、母に足がふらついたことを気付かれてしまい、ベッドに押し戻されてしまった。
「そんな調子じゃ無理でしょう。今日も休みなさい。分かったわね」
「……分かった」
無理やり布団をかけられてしまい、紗矢はふて腐れた顔をしつつも、そう言葉を返した。
大人しくベッドの中に納まった紗矢に苦笑してから、母は再び困り顔をし部屋を出て行った。
トントントンと階段を降りた足音が遠ざかり、聞こえなくなるのを待って、紗矢は物音をたてないように慎重にベッドから出た。机の上のペンを掴むと、そのままカレンダーの前に立ち、バツ印をかき込む。
「三つ、並んだ!」
紗矢は笑みを浮かべた。
水曜日の帰宅後に発熱し、木曜日は学校を休むことになってしまったが、記憶を失うことはなかった。金曜日の今日も、ここ数か月の記憶がしっかりと頭の中に留まっている。
越河家での思い出も、峰岸とのやり取りも、珪介への思いも、何一つ薄れていない。
紗矢はペンを机の上に置き、続いて制服を手に取った。
「行かなきゃ」
パジャマを脱ぎ捨て、制服に着替える途中で見た胸元に、刻印は無かった。それだけが自分に戻ってきてくれない……しかし、それだけなのだ。
制服に着替え終えると、紗矢は両手を広げ見た。なんとなくではあるが、自分に力が戻ってきているように思えるのだ。
「私も、自分の直感を信じる」
カレンダーにバツが三つ並んだこと、そして何より、珪介への思いが消えていないこと。それは大きな自信に繋がっている。
(珪介君に会いたい。会って、好きだよって伝えたい)
珪介にそう告げたら困惑されてしまうかもしれない。求慈の姫になった舞にも、辛い思いをさせてしまうかもしれない。
(それでも私は、越河に帰りたい。珪介君の傍にいたい)
紗矢は気だるさを追い出すように深呼吸してから、ゆっくり部屋の戸を開け、音をたてないよう慎重に階段を降りていく。
「……お忙しい所、すみません。片月ですが……」
母の声がリビングから聞こえてきて、紗矢は一旦扉の手前で足を止めた。扉が開いたままなのだ。
「紗矢のことなんですけど、水曜日から熱がありまして……えぇ……風邪なのか、そうでないのか、私には判断できなくて……」
母が誰と電話で話をしているのか、紗矢には分かった気がした。忠実だ。
すぐに忠実の名前を思い浮かべられたことが嬉しくて、つい笑みを浮かべてしまう。
また忘れてしまうかもしれないという恐怖はまだ心の中に残っているが、その恐怖に怯えたまま留まってなどいられない。
忍び足で扉の前を通りすぎながら、ちらりとリビングの中へ目を向け、思わず足を止めた。電話中の母と目があってしまった。
「こら! 紗矢っ!」
紗矢は走りだす。急いで靴を履くと、そのまま外へと飛び出した。母の声が玄関の向こうから聞こえた。しかし足は止まらない。
角を曲がると、徐々に速度が遅くなっていく。息苦しさと気だるさに負け、紗矢はブロック塀に手を付いた。荒い呼吸を繰りし、気持ちが落ち着きを取り戻し始めると、ぞくりと悪寒が走った。自分が誰かに……何かに見られているような気がしたのだ。
辺りを見回すが、それらしいものはいない。しかし、嫌な気配は体にまとわりついてくる。
(異形が近くにいる……早く、学校に行かなくちゃ)
気配は一つや二つではない。このまま立ち止まり続けたら囲まれてしまうだろう。
迫りくる恐怖を察知し、震えた唇を噛みしめて、紗矢は学校に向かって進み出した。
小さな赤い橋を渡り、坂を登っていく。
(ホームルーム、始まっちゃう)
大抵の生徒はすでに校舎内へ入ってしまったからか、紗矢の周りには、数えるほどの生徒しかいない。
足は何度ももつれそうになるが、嫌な気配を近くに感じる以上、立ち止まることはできない。気力を振り絞り歩き続ける。
(学園内に入れば、そばにいけば、きっと……珪介君が気づいてくれる)
倒れるのはその後だと、自分に言い聞かせつつ、紗矢は登校途中の生徒を一人追い抜き、門を通り抜けた。
足を止め、ホッとすれば、チャイムが鳴った。紗矢は気持ちを引き締め、昇降口に向かって再び歩き出す。
(珪介君の靴)
靴箱の前にたどり着き、自分の靴を脱ぐ前に、紗矢は珪介が来ているかどうかを確かめることにした。
(……まだ来てない)
学校に来れば会えるだろう思っていただけに、落胆してしまう。
遅れているだけだろうか。いつ来るのだろうか。今日は来るのだろうか。越河家に行けば会えるだろうか。
(校舎裏にいるのかな)
その可能性は十分あるが、確信が持てぬ以上、のこのこ確認しになど行けない。
紗矢は自分のクラスの前を離れ、修治と舞のクラスの靴箱前へ移動する。二人がいるのなら、先に二人に自分の現状を聞いてもらってもいいのだ。そうこうしているうちに、きっと珪介もやってくるだろう。
(……二人もいない)
修治と舞のクラスの靴箱には、上履きが二つしか残されていなかった。確認すれば、修治と舞のものだった。
紗矢は焦る気持ちを抑えながら、下級生の靴箱が並んでいる場所へと向かう。
(確か裕治君と唯ちゃんは……)
二人のクラスにはまだ登校していない生徒が何人かいた。それらを確認していくと、裕治と唯の上履きがあった。
「みんな……休み?」
何かあったのかと、不安になっていく。祐治の上履きを元の場所に戻し、紗矢は目を閉じ、息を吐き出した。
(……くらくらする)
頭の奥が熱を持ち、じんわりとした痛みもある。
(どうしよう。越河家に行った方が良いのかな。ここで待った方が良いのかな)
突然、胸が苦しくなり、紗矢は思わず呼吸を止めた。
ちょうど刻印のあった辺りにだけ、両側からぐっと圧迫される苦しさが生じている。紗矢は耐えられず、その場に両膝をついた。
「……もしかして、紗矢ちゃん?」
自分の名を呼んだ声音に反応するかのように、胸元に刺すような痛みも加わる。
重い頭を上げ、紗矢は声のした方に顔を向けた。廊下に峰岸卓人が立っていた。自分を見て目を見開いている。
「驚いた」
驚きの表情から、面白いものでも見つけたような顔つきに変わった卓人に、紗矢は恐怖を覚え、すぐさま立ち上がり逃げ出そうとする。
「力、戻ってるの? 完全に消えたかと思ったのに」
しかし卓人はすぐに歩み寄ってくる。逃げ出すことを許さないかのように、紗矢の腕を掴んだ。そして紗矢が見ていた先にある上履きを確認し、卓人は悟ったような笑みを浮かべる。
「力を失い越河に捨てられて……でも力が戻ってきてしまった。それで再び越河に助けを求めようとしてるって感じ?」
ドクドクと響く鼓動に、胸元の痛みが付随する。
「越河のメンツ、今日は来ないんじゃないかな」
「……来ない?」
「だって今日は、五家のお偉いさんたちに、新当主と求慈の姫の顔見せする日だったはずだよ」
聞かされた事実に、一瞬、紗矢の時間が止まった。今月末に顔見せが行われると珪介に言われたことを、はっきり思い出したのだ。紗矢はぐっと拳を握りしめた。
(……早く行かなくちゃ)
刻印が戻ってない自分が、越河家に行ったところで、当主と求慈の姫の顔見せを止める事などできない。分かってるが、それでも、止めたいと思う自分がいる。
(求慈の姫は……求慈の姫は……)
込み上げてくる思いに、紗矢の手が震えた。
「僕も峰岸の新当主として参加しなくちゃいけなかったんだけど……越河珪介の顔を見たくないから、行かないつもりだった……でも、紗矢ちゃんを連れて参加するなら、楽しそうだね。僕と一緒に行く?」
「なっ」
嘲笑いながらの申し出に、紗矢は卓人を力いっぱい睨みつけた。
卓人は紗矢の抗議に対しふんっと鼻で笑ってから、紗矢の胸元に手を伸ばした。すっとリボンを解いた指先で、ボタンを外し始める。
「やっ、やめて!」
右腕を掴まれたままでは逃げることも出来ず、左手で卓人の手を掴もうとしても、逆に振り払われてしまう。
身をよじりながら視線を落とし、紗矢はハッとする。刻印が薄っすらと浮かび上がり、そして消えていったからだ。恐る恐る視線を上げると、すぐに卓人と目が合った。彼は紗矢を見つめたままほくそ笑む。胸元の刻印は、すぐにその姿を消してしまったが、卓人の表情からして、しっかり見られてしまったようだった。
「刻印が戻るのも、時間の問題かな?」
「離して!」
「やだよ」
必死に卓人の手から逃げようとするが、掴まれた手の力が強くなっていく。ぐっと引き寄せられ、卓人の手が紗矢の腰に回された。
「君が越河に見限られたのも、僕が原因なんだろうし、責任をとるよ。紗矢ちゃんの面倒を、僕が一生見てあげる」
間近で囁きかけられ、心が一気に冷えていく。今までの卓人の言葉と態度が、怒りと共に脳裏に蘇ってくる。自分にしたこと、珪介の母親のこと、祖母のこと。それらの記憶が、卓人への拒絶を強めていく。
「……離して」
紗矢の感情に呼応するように胸元が熱くなっていく。見なくても、そこに刻印が現れ出ていることが、分かった。
「離してっ!」
バチリと音が鳴り、卓人は勢いよく紗矢から手を離した。そのまま一歩、二歩と、後退していく。
「私は珪介君が好きなの。珪介君と一緒にいたいの」
紗矢も靴底を擦りながら、卓人から距離を置く。卓人はぎゅっと瞳を閉じた後、突き刺すように紗矢を見た。紗矢はゴクリと唾を飲む。
「刻印が戻っても、紗矢ちゃんはもう求慈の姫じゃない。越河珪介が嫁にするのは萩野舞だよ? 例え刻印が戻ったとしても、紗矢ちゃんは萩野舞以上に大切にされることはない」
刻印が戻ったとしても、求慈の姫にまで戻れるとは限らない。
(でも――……)
紗矢は首を横に振った。
「越河珪介に愛されるのは自分だったはずなのにって思いながら、互いを誰よりも必要とし、仲睦まじくなっていく二人の傍で、紗矢ちゃんは生きていけるの?」
並べられる言葉を否定するように、強く首を振る。
「紗矢ちゃん!」
自分に向かって伸ばされた手を見て、紗矢は声を荒げた。
「違う!」
思いが熱を産み、さらに胸元が熱くなっていく。
「求慈の姫は……求慈の姫は、私だから!」
言葉にすれば、心が強固になっていく。自分は“求慈の姫”であるという強い意志が体の底から湧き上がってくる。
卓人は手を宙にとどめたまま、口を微かに開いた。その視線が自分の胸元に定められていることに気付き、紗矢は視線を落とした。
「……光ってる」
ほんの一瞬だった。浮かび上がってきた刻印が、輝いたのだ。刻印はすぐに体の中へと消えていってしまったが、それは紗矢にとって次の一歩を踏み出すための大きな勇気となった。
「紗矢ちゃん……」
掠れ声で紗矢の名を呼びながら、卓人の足が一歩前進する。
「私は峰岸君の所にはいかない……きっと珪介君が、私を待っていてくれてる」
自分の言葉に、卓人がひどく顔を歪めた。憎しみを露わにしたその表情を見て、紗矢は身を竦ませた。
恐怖を感じると同時に、紗矢は卓人から逃げるように走り出していた。
ちらちらと何度か後ろを振り返ったが、卓人が追いかけてくることはなかった。
ホッとする一方、紗矢は警戒するように周囲を見た。自分の敵は峰岸卓人だけではない。先ほどよりもハッキリと感じるこちらを見つめる異形の気配に、紗矢の背中に嫌な汗が流れ落ちていく。
ざっと風が吹き抜ける中、紗矢はハッとし、足を止めた。見つけた姿に、鼓動がトクリと跳ねた。
「珪介君!」
図書館に向かって歩いていく後ろ姿に笑みを浮かべ、紗矢は懸命に走りだした。
丁度その頃、越河家三階にある部屋の扉が、力いっぱいノックされ、乱暴に開けられた。
「ちょっと、どうすんのよ!」
舞は柔らかな白い生地を小脇に抱えたまま、苛立たしげに足を踏み鳴らして室内に入っていく。そしてバルコニーに立ち、空を見上げていた珪介に向かって苛立ちをぶつけた。
珪介は視線を落とし、庭を見た。
そこには燕尾服姿の初老の男性や、越河の上の代の男たち、瀬谷篤彦の姿がある。みな今日のお披露目のために集まって来ている五家の関係者である。
「……考えてる」
この場をどう切り抜けるかだけでなく、突然ざわめき出した異形たちの気配にも嫌な予感を覚えながら、珪介は再び空を見上げた。
やはり赤い姿は見つけられなかった。
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