第49話 振り返らない背中

 温かな空気に満たされた午後の授業。微睡むクラスメイト。響く先生の声音。

 変わり映えのしない、いつも通りの日常が刻々と過ぎ行く中で、珪介だけが違う日常と向き合っていた。

 教科書に落としていた視線を上げ、斜め前に座る紗矢の背中をちらりと見た。先週までの彼女は、時折こちらに振り返っては、ニコリと微笑みかけてきた。

 けれど今、いくら願っても、彼女が振り返ることはない。それは紗矢の心から、自分と重ねた記憶が消えてしまったことを意味していた。




 先週土曜日。

 紗矢は修治の練習試合を見に行った後、越河家に帰ってこなかった。そのまま実家へと帰ってしまったのだ。

 すぐさま忠実は紗矢の母と連絡を取り合った。土曜も日曜日も、紗矢に関する色よい報告がされることはなかった。


 しかし、珪介は希望を捨ててなどいなかった。

 週が明け月曜日になり教室で顔を合わせれば、紗矢に変化が起こるはずだと、そう考えていたのだ。


 そして月曜日、彼女と教室で顔を合わせ、珪介は絶望を感じた。「お早う」と声を掛け、振り返った彼女の表情は驚きに満ちていたのだ。

 自分が挨拶してきたことが意外だとでも言う様に、紗矢はぎこちなく「お早う」と言葉を返してきた。それだけだった。




 水曜日になった今日も、彼女に変化は見られない。


 今まで何人もの女性が、自分の目の前を通りすぎて行った。

 腕にすがりつき、貴女が好きだと口にしたことも、刻印を得られず力を失えば、すぐに忘れていく。

 全てがみな、ほんの一時、熱に浮かされているようなものだった。珪介にとってそれは、当然のことだった。自然の流れだという気持ちしか抱いてこなかったのに……今回のことは、紗矢のことだけは、そう簡単に割り切れなかった。


 珪介は、紗矢の背中からベランダの手すりに乗っている赤い躰へと目を向けた。

 一時間目からずっと、ランスはそこに留まったままだ。じっと紗矢を見つめる瞳はひどく寂しげで、時折、話しかけるかのように短く鳴く。ここ数日、ランスは夜になっても獣舎には戻らず、ずっと紗矢の傍にいる。紗矢の家の庭で身を丸めて、蹲っているのを忠実が見ているのだ。

 珪介は変化の見られないこの状況に、悲しみや切なさだけでなく、焦りと苛立ちも感じ始めていた。回復を待つと彼女に言ったが、そう悠長にも構えていられなくなってきたのだ。




 今朝、登校しようと玄関を出ると、父の和哉が天を仰ぎ立っていた。その隣に、制服姿の舞もいた。

 気づいた和哉に手招きされ、珪介が二人の元へ歩み寄ると、舞が腹立たしげに顔をそむけた。そして告げられた。


『長が動き出したようだ。新当主と求慈の姫の顔見せを、予定通りに行うこととする……二人とも覚悟を決めなさい』――、と。


(覚悟なんかできるわけがない)


 父の言葉を思い返し、珪介は歯噛みする。舞は求慈の姫にはなれないと言い続けている。そして珪介もまた、求慈の姫は紗矢だという考えは揺らいでいない。

 自分たちの関係が定められることに反発し続けようと、珪介と舞の意見は早いうちから一致していた。しかし抗い続けられるのも、長が動き出すまでである。

 雛を連れて降りてきた時、餌となるべき求慈の姫は存在していなければならないからだ。いくら嫌だと声を上げても、刻印が光っている以上、その役目は舞となる。顔見せが行われるのは、明後日の金曜日と決められてしまった。


(何か良い手はないのか)


 珪介が再び紗矢の背中に視線を戻したところで、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。先生が教室から出て行けば、生徒たちもそれぞれに動き出す。


(……紗矢と話がしたい)


 隣の席の男に話しかけられ肩を揺らし笑っている紗矢へと、珪介は手を伸ばそうとした。


「紗矢!」


 しかし珪介の手が届く前に、紗矢は椅子から立ちあがり、歩き出した。戸口に立っている若葉に向かっていく。そのまま二人は壁の向こうへと消えていった。

 珪介は伸ばしかけた手を机の上に戻し、ベランダへと顔を向けた。ランスは寂しそうな顔をしたまま、その場に留まっている。


(……そんな顔するなよ)


 そう思う反面、自分の感情を素直に表現できるランスが羨ましくも思えた。


 じっとランスを見つめていると、ぞわりと肌が粟立った。心を研ぎ澄ませ、拾い上げた気配に、心の中で舌打ちし、腰を上げる。

 校舎内……昇降口付近に異形がいる。そしてその近くに弱々しい力も感じる。たぶん、力の主が外から異形を連れてきてしまったのだろう。


 急ぎ足で教室から廊下へと飛び出した瞬間、ドンッと腕に何かがぶつかった。瞬時に珪介は腕を伸ばし、よろめいたその体を引き寄せた。


「……大丈夫?」


「う、うんっ」


 腕の中に視線を落とし、珪介は思わず息を飲む。抱き寄せたのは紗矢だった。恥ずかしそうな表情を浮かべた後、紗矢はニコリと笑いかけてきた。


「ぶつかっちゃって、ごめんね。有難う」


 その笑顔に、愛しさが一気に込み上げてくる。抱き締めたくなる衝動をぐっと堪え、珪介はゆっくりと、紗矢から手を離した。


「……いや」


 珪介が首を横に振ると、紗矢は再び笑みを浮かべ、若葉の元へと走っていく。若葉がちらちらと珪介を見ながら小声で紗矢に話かけている。紗矢もこくこくと頷いては、口元を綻ばせた。遠ざかっていくその背中から、珪介は視線を外せなかった。


「……紗矢」


 気持ちを込め、名を呟けども、紗矢は振り返らない。ぎゅっと拳を握りしめ、珪介は階段に向かって歩き出した。







「越河君って、イケメンだよね」


「うん。カッコいいよね」


 ドキドキと高鳴る胸と、突然の接近で熱くなってしまった頬を感じながら、紗矢は若葉と顔を見合わせ笑みを浮かべた。

 ふと足を止め、紗矢は振り返った。そこにはもう珪介はいなかった。高揚していた感情に、陰が差し込んでいく。


「ちょ、ちょっと、どうしたの?」


「え?」


「なんで泣いてるの?」


 若葉に言われ、紗矢は頬に触れる。いつの間にか、瞳から涙が零れ落ちていた。


「ほ、本当だ。なんで私、泣いてるのかな?」


 何故か分からないけれども、胸が苦しくなっていく。


(寂しくて、悲しいのは……)


 珪介の手の温もりが、まだ体に残っている。自分に向けられた珪介の笑みを思い出すと、ちくりと心が痛みを発した。


「越河君」


 その名を口にした瞬間、心が熱を帯びた気がした。


「……ごめん。行ってくる」


「えっ? さ、紗矢!?」


 紗矢はすぐに踵を返し、走りだした。教室を覗き込むが、珪介の姿は見当たらない。


(私……越河君に会わなくちゃ……追いかけなきゃいけない気がする)


 明確な理由などないのに、思いが強くなり、気持ちも焦っていく。


(どこに行ったんだろう)


 見当もつかないまま、紗矢は階段を降りていく。一階に降りると、心が騒めき立っていくのがわかった。


(……体が、熱い)


 胸元を抑えたまま、昇降口に向かって進んでいく。靴箱と靴箱の間に視線を走らせていると、視界の隅で影が動いた。

 足を止め、紗矢は目を凝らす。ガラス戸の向こうに、二つの影が並んでいた。大きな背中は、珪介だった。

 探していた人物を見つけたというのに、紗矢の足は動かなかった。隣に立つ体操服姿の女性が、珪介の腕をぎゅっと握りしめていたからだ。


(越河君の……彼女?……そっか、そうだよね……)


 容姿端麗で文武両道の彼に、彼女がいてもなんらおかしくない。

 視線の先で身を寄せる二人を見てそう結論付けると、次第に心が苦しくなっていく。寂しさや悲しさで支配されていく。


(彼女と一緒にいるときに、話しかけられないよね)


 珪介の背中に視線をとどめたまま、紗矢が半歩後ろに下がった瞬間、見えていた光景が変化した。

 珪介の背には赤い翼が現れ、二人のその向こうに、人のようなモノが立っていた。蠢く影を身にまとい、虚ろな瞳で珪介たちを見ている。


「――……っ!?」


 緊張感と恐怖が、紗矢の鼓動を早くさせていく。


(……怖い)


 自分は、気味の悪いあの存在から逃げなくちゃいけない。

 頭の中で警鐘が鳴く中、気が付けば、紗矢は珪介に向かって手を伸ばしていた。


 しかし、紗矢は弾かれたようにその手を引き戻した。珪介は隣にいる女性に何かを話しかけている。優しさと頼もしさの感じる笑みを彼女に向けている。彼女を庇う様に立つ珪介を見て、紗矢の足が後退し始める。


(私……何考えてるんだろう……)


 一気に階段を駆け上がり、教室へと飛び込んでいく。息を乱しながら席に着き、ちらりと後ろの席を見た。


(……越河君が守ってくれるような、気持ちになってた)


 持ち主のいない机を見つめれば、また切なさが募っていく。 ズキリと胸元が痛んだ。ジワリと体中に熱が広がり、ゾクリと背筋が震えた。発熱でもしてしまったかのように、熱さと肌寒さが体の中で渦を巻いている。


 ばたばたと教室内にクラスメイトたちが戻ってくると、程なくして数学の先生が戸を開けた。紗矢はもう一度斜め後ろの席を振り返り見た。授業が始まったが、珪介は戻ってこなかった。






「……だるい」


 なんとか授業を終え、ふらふらしながら帰宅すると、紗矢は制服のままベッドに寝転んだ。


「これって……風邪なのかな」


 表面は寒いのに、内側で熱がくすぶっている。

 ぼんやりする思考の中で、思い浮かべるのは珪介のことだった。結局、六時間目に彼は現れず、紗矢は何度も何度も後ろの席を見ては、気だるいため息を吐き続けたのだ。

 珪介の横顔。見えた赤い翼。異様なヒト。珪介の彼女。それらが浮かんでは消えてを繰り返している。


(……赤い……翼……越河君の……赤い翼)


 心に何かが引っかかっている。それが何かは分からない。

 思い出そうと試みると、大事な何かを無くしてしまったような気持ちになり、心が塞ぎこんでいく。


 ごろんと寝返りを打ち、紗矢は壁のカレンダーに視線を止めると、ゆっくりと身を起こした。

 先週の土曜日に、バツ印が付いている。


「このバツって」


 熱くて重苦しい頭を支えるように、紗矢は両手の指先でこめかみを抑えた。ズキリと胸が痛み、紗矢は息を詰めた。ほんの一瞬、珪介の切なげな顔が脳裏に浮かんだ。


『だから俺はこのまま、紗矢の刻印の力が回復し、役目が戻るのを待とうと思う』


 彼が自分を見つめて、確かにそう言った。再び胸元に鋭い痛みが走り、紗矢は顔を歪ませた。


『紗矢は……これからもずっと……俺がこの世で唯一愛しいと思える存在だから』


 ベッドの中。絡ませた指先。言葉。思い。珪介の視線の先には、自分がいた。


 力強い羽音が聞こえ、紗矢は目を見開いた。次々と、失っていた記憶が紗矢の中に戻ってくる。


「……珪介君……私……」


 愛しさに声を震わせながら、紗矢はカレンダーへと歩み寄っていく。バツ印をそっと指先でなぞった。


 土曜日、忠実が帰って行ったあと、紗矢は絶対に忘れないために、カレンダーにバツ印をかき込んだのだ。

 忘れていなかったら、次の日も次の日もバツを書き込み、そして三日経っても忘れていなければ、例え刻印が戻らなくても、越河家に、珪介の元に戻ろうと考えていたのだ。


 しかし、バツ印は土曜日しか書きこまれていない。自分は思い出すことができなかったのだ。

 ズキズキと痛む胸元に改めて気づき、紗矢は期待を込めて制服のリボンを解き――……唇を噛んだ。記憶は戻ったが、刻印は失ったままだ。胸元には何も浮かび上がって来ていない。


「諦めない!……もう忘れたくない!」


 紗矢は机上のペンを掴み取ると、今日の日付に力を込めてバツ印を書きこんだ。

 痛みは強くなっている。体のだるさにも覚えがある。荒い呼吸を繰り返しながら、窓を振り返り見た。


(……胸騒ぎがする)


 部屋の窓は、ちょうど越河家の方角を向いている。

 天高い場所でざわざわとした揺らめきを感じながら、紗矢はくたりとその場に膝をついた。





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