第48話 こんなにも愛しいのに
「紗矢の……幸せ……」
囁くような珪介の声に紗矢の意識は浮上する。瞳を開けると、自分をじっと見つめる珪介の顔が見えた。
部屋の薄暗さを感じながら、珪介の体に手を伸ばせば、ギシッとベッドが軋んだ。
「……珪介君、眠れないの?」
掛布団の中で向き合い、紗矢は掠れ声で問いかけた。珪介は何も答えぬまま視線をそらし、紗矢の頭をそっと撫でた。
(今、何を考えてるの?)
数時間前、部屋に入ってきた舞を見て、ひどく取り乱してしまった自分を、紗矢は後悔していた。
忠実に諭され部屋を出て行く舞は、とても寂しそうな顔をしていた。
喰らうという願いを叶えてあげられなかったことと自分の怯えた態度が、舞にそんな顔をさせているのだと、容易に判断できたからだ。
そしてあれからずっと、珪介は無表情のままである。
部屋で一緒に食事をとった時も、夜の見回りを済ませ部屋に戻ってきた時も、その表情が和らぐことはなかった。
彼が何を考えているのか分からないことも、恐くて仕方がなかった。
「俺は……自分の直感を信じることにした」
頬のラインをたどるように撫でていた手を止め、珪介は口角を上げた。
「直感?」
「そう。俺の直感……本能と言っても良いかもしれないけど」
珪介は布団の中へ手を戻し、そのまま紗矢の腰を引き寄せた。
「求慈の姫は紗矢だ。舞も、他の刻印持ちも、紗矢と比べると今一つ物足りない……だから俺はこのまま、紗矢の刻印の力が回復し、役目が戻るのを待とうと思う」
珪介の言葉に紗矢は目を見開いた。燻っていた眠気が吹き飛んでいく。
「私の力が回復するのを?」
言葉にすれば戸惑いが生まれる。この先、自分の力が回復するのか、それとも消えてしまうのか、見当もつかないからだ。
そんな気持ちを紗矢の表情から見て取ったように、珪介は穏やかな笑みを浮かべた。
「俺には、紗矢の力が眠っているだけのように思えてならない。いずれまた目を覚ます時がくる。そんな気がする」
「無くなったんじゃなくて……眠ってる」
消えていくこと。そのことに囚われ怯えてばかりだった。
しかし別の考えも出来るのだと珪介に教えられ、紗矢は胸元をそっと手で抑えた。
「初めて会った時、俺、思ったんだ。紗矢を守ることが、俺の産まれてきた意味で、生きる理由なんだって」
囁くように言葉を紡ぎながら、珪介は紗矢の手を掴み、指を絡めた。
「紗矢はいずれ求慈の姫になる存在だったから、あの時俺は本能でそう感じたんだと思う」
絡んだ指先に、どちらからともなくきゅっと力が入った。
「今も、そう思ってる。求慈の姫は紗矢しかいない」
再びベッドが軋んだ。珪介は紗矢を抱き寄せ、腕に力を込めた。
自分の背に回された手が僅かに震えているのを感じ、紗矢は顔を上げた。しかし、珪介の顔を見ることが出来たのは、ほんの一瞬だった。頭の後ろに添えられた彼の手によって、紗矢の顔は珪介の胸元へと引き寄せられたからだ。
「俺の気持ちはずっと変わらない」
トクトクと刻み続ける鼓動と共に、珪介の声が聞こえてきた。
先ほどと一変し、切なさを絞り出すかのような彼の声音に、紗矢の胸も締め付けられていく。
「紗矢は……これからもずっと……俺がこの世で唯一愛しいと思える存在だから」
珪介の思いと、一瞬見た彼の悲しそうな顔を思い浮かべ、紗矢の目から涙が溢れだした。
(今のは……私に力が戻らなかった時に対しての言葉だ)
温かな体にぎゅっとしがみつけば、応えるように、珪介の腕にも力が込められる。
そっと頭を撫でられ、紗矢は胸元に顔を押し付けた。しばらく涙が止まらなかった。
+ + +
土曜日になり、紗矢は体育館前で若葉を待っていた。
曇天で風は冷たく、時折寒さで身が震えた。指先の冷えを感じ、紗矢は手の平を擦り合わせながら、自分の手首に視線を落とした。
今朝がた珪介から渡された守護珠が、鈍く輝いていた。
新たに珪介が作りなおしたブレスレットなのだが、連なる朱色の石の中で彼の力が込められたのは、一粒だけである。本来なら血のように真っ赤な色に染まるはずなのだが、そこにある色は薄いものだった。紗矢の体の負担を考慮し、込める力も加減されているからだろう。
紗矢は視線を上げて辺りを見回した。
耳を澄ませば、風もないのにガサリと草木が揺れる音が聞こえた。しかし、そこから異形の気配を上手く感じ取ることはできなかった。
ガタリと戸が開く音がして、紗矢は後ろを振り返った。
「……まだ来ねーの?」
ユニフォーム姿の修治が、声を潜め紗矢に話しかけてきた。
「うん」
修治はきょろきょろと回りを確認してから、寒そうに体を震わせた。
「うおっ。外、寒っ! 中で待ってろって」
今日は、珪介はここにいない。越河家に残っている。何か感じたらすぐに来ると言ってくれたが、それでもやはり、いつも傍にいてくれた彼がここにいないことが心細かった。
(……でも、しょうがないよね)
舞は今日、部活を休んでいる。紗矢とは逆で、越河の結界の外に出ると、酷い倦怠感に襲われ、しまいには動けなくなってしまうからだ。舞と紗矢の力が逆転してから、珪介が舞に付き添うことが多くなった。
(私には、珪介君が付き添うほどの力がないから……)
紗矢は慌てて首を振り、湧き上がってきた弱い気持ちを頭の中から追い出した。
(まだ力が戻ってないだけ! だから、今は仕方がない!)
前向きになるべく、心の中で無理やり言葉を並べていく。
(私だって珪介君と離れたくない。珪介君が信じてくれてるんだから、私も自分を信じなくちゃ!)
「紗矢ーー! ごめんね、お待たせ!」
遠くから走ってくる若葉の姿に、修治は「やっと来たか」と呟き、体育館内へと引き返していった。
胸元にチクチクとした痛みを感じながら、紗矢は若葉に向かって軽く手を振った。息を切らせて走り寄ってきた若葉が、体育館内を覗き込み、大きく息を吐く。
「良かった。まだ始まってなくて」
「でもたぶん、もうすぐ始まるよ。中に入ろう」
紗矢は先に靴を脱ぎ、体育館の中へと入っていく。
壁際の空いているスペースに進みながら、ちらりとコート脇に目を向ける。修治と、同じクラスの憲二が何やら言葉を交わし、笑い合う姿が見えた。
体育館の隅で足を止めれば、後ろからついてきていた若葉が小さな唸り声を上げた。
「やっぱりみんな来てる」
「みんな?」
「私が良いなって思ってる彼を、応援してる子たち」
「恋のライバルってやつ?」
紗矢はチクチクする胸元をなだめるように優しくさすりながら、しかめっ面で頷いた若葉へ苦笑いを浮かべた。
程なくして練習試合が始まった。
意中の相手の活躍に色めき立つ若葉の隣で、紗矢は修治の姿をぼんやりと目で追いかけていた。
修治の体から微かに立ち上る、青い光。胸元に僅かに感じる、重苦しさと痛み。
紗矢は周囲の人々と同じように歓声を上げることもせず、体の中の不協和音を感じながら、ひとり静かにその姿を見つめていた。
自分を取り巻く景色が遠ざかっては、また近づいてくる。
現実から切り離されては、かろうじて、またどこかで繋がりあう。
視界の中にある青い光が消えては現れ、また消えていく……。
+ + +
「いっぱい撮っちゃった!」
練習試合が終わり、紗矢は若葉と並んで五之木学園の門を出た。
「良かったね」
そう言い終え、紗矢は欠伸をした。
「ずっとぼんやりしてるから、どうしたのかと思ってたけど、眠いの?」
「うん。眠い」
「試合も白熱してて結構面白かったのに……でもまぁ、お目当ての男子がいるわけでもないし、もともと紗矢はバスケに興味ないからしょうがないか」
紗矢が素直に打ち明けると、若葉は微笑んだ。
「でも本当に、試合面白かったよ。五之木学園強かったし。特にほら、あの人」
記憶から人物名を掘り起こすかのように若葉はこめかみを指先でトントンと叩いた。
「えーっと。越河……下の名前なんだっけ?」
「越河?」
苗字を繰り返し、紗矢は微かに首を傾げた。
「同じ二年でバスケ部の越河君」
考えようとしても、眠気で上手く頭が働かなかった。紗矢は諦めて、再び首を傾げた。
「あれ? 確か紗矢と仲良かったような気がしたんだけど……違う人と勘違いしてるかも」
若葉も思い出すのを止め、スマホの画像へと視線を戻す。すぐに幸せそうな笑みを浮かべた。
駅に向かう若葉と途中で別れ、紗矢は何度も欠伸をしながら、帰宅する。
「紗矢? お帰りなさい」
庭掃除をしていた母親が、玄関前で足を止めた紗矢に気付き、不思議そうに歩み寄ってきた。
「ただいまー。すごく眠いから、昼寝する」
「そ、そう」
玄関を開けてもらい、家の中に入ると、紗矢は階段をのぼり自分の部屋へ直行する。そして上着も脱がないまま、ベッドに倒れこんだ。
薄暗闇の中、紗矢は必死で手を伸ばしていた。
しかし、どんなに手を伸ばしても、傍にあるはずの温もりに触れることが出来ず、紗矢は“名前”を叫ぼうとした。
叫ぼうとして……力なく、口を閉じた。その名前が思い浮かばなかったからだ。
確かに自分には傍にいて欲しいと思う人がいるはずなのに、名前も顔も思い出せない。歯がゆさだけが募っていく。
『いったい何をしているのです』
祖母の声がどこかから聞こえた気がした。紗矢はその場で膝を抱え、身を丸くする。
(だって名前が分からないの。思い出せそうなのに、思い出せない。もしかしたら、最初から私にはそんな人なんていないのかも)
『私の言葉を忘れたのですか?』
(お祖母ちゃんの言葉?)
顔を上げれば、周囲がだんだんと白けていく。
『心が負けることは許しませんよ』
(私は自分に負けたの?)
紗矢は勢いよく立ちあがり、答えを求めるように、周りを見回した。
『自分で選んだ道の先にどんな困難があろうとも、立ち向かいなさい』
(……私が選んだ道)
陽炎のような揺らめきを見つけ、紗矢はそこをじっと見つめた。
見つめ続ければ、赤い輝きが、光が、ぱっと散った。
紗矢は勢いよく目を開けた。
日の陰り始めた部屋の中、ベッドに横たえていた身を起こす。静かな中で、自分の鼓動だけがやけにはっきりと鳴り続けている。
おもむろに手を持ち上げ、手首に通されたままのブレスレットを見た。同じような朱色が繋がるその中に、一つだけ、生きている石があった。
(赤い色が……石の中で動いてる)
その石を、色彩を見つめていると――……カチリと、紗矢の記憶が繋がった。
「……修治君」
先ほど思い出せなかった名前を言葉にして吐き出せば、脳裏にある人物の顔が浮かんだ。
「珪介君」
胸が切なさで苦しくなっていく。
夢の中で、必死に手を伸ばし、求めていたのは、珪介の温もりだ。
「……そんな……」
僅かな間、珪介の、そして越河の記憶が自分から抜け落ちていたことに、紗矢は愕然とする。
こんなにも恋焦がれているというのに、胸が苦しくなるというのに、一時でも自分の中から消えてしまったことが、信じられなかった。
紗矢はハッとし、上着を乱暴に脱ぎ捨て、ブラウスのボタンを外した。胸元に視線を落とし、言葉を失った。頭の中が真っ白になっていく。
刻印が跡形もなく消え失せていた。
階下でボソボソと話し声が聞こえた後、バタリと玄関の扉が閉まった音が聞こえてきた。ベッドから降り、窓から外を見ると、黒のワンボックスカーが遠ざかっていく。
(忠実さんの車)
紗矢は階段を下り、リビングへ駆けこんでいく。
「わっ。びっくりした!」
テーブルの上にはティーカップが二組置かれているが、部屋の中には紗矢の登場に驚いている母しかいない。
「そろそろ起こそうと思ってたのよ……どう?……少し寝て、楽になった?」
探るように問いかけてくる母の手の中にある物を見て、紗矢は眉根を寄せた。
「それは……」
「あぁ。これはビタミン剤よ……この前、疲労回復に効果があるって聞いて、どうかしらと思って買ってきたの。夕食後に、紗矢も飲んでみたらどう?」
「……うん」
紗矢は小さく言葉を返しリビングを出ると、ため息を吐いた。
母が持っていたのは、忠実が置いていった粉薬。刻印からくる体調不良の時に、何度も飲んだものだから、間違いないだろう。
(私が越河の家でなく、この家に帰ってきてしまったから)
母が越河の名を伏せたのは、母の考えではなく、越河側の考えだろう。
だから忠実は、記憶を失った紗矢が、このまま普通の生活へとスムーズに戻っていけるよう、紗矢とは接触せずに帰って行ったのだ。
越河から切り離されていく。そう感じ、紗矢は無意識のうちに胸元を抑えていた。
『残念ながら、珪介への思いだけなく、異形に怯えた記憶も、俺たちと過ごした記憶もすべて、二、三日で消えていくよ』
忠実の言葉が寂しさと恐怖を膨らませていく。
紗矢は自分に負けぬよう、胸元に添えた手をぎゅっと握り締めたのだった。
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