第47話 反する幸せ
「疲れた?」
「……ううん。平気」
珪介とぽつりぽつり言葉を交わしながら、林を通り抜けると、越河の二つの屋敷が紗矢の目の前に現れた。
緊張感を伴いながら、越河の結界内へ一歩踏み込むと、その瞬間、ドクっと鼓動が鳴った。同時に、足が重くなったような感じを覚え、紗矢はため息を吐く。
(やっぱり……結界に何かあるのかな)
バサバサと羽音が聞こえ、紗矢は弾かれたように獣舎へと目を向ける。
しかしすぐに、気持ちは沈んでいった。獣舎の屋根にも、空にも、庭のどこにも、鳥獣たちの姿がなかったからだ。
(ランスたちがいないんじゃなくて、やっぱり私に見えないだけなのかな)
午後の授業の間も、こうして学校から帰る間も、何度も空を見上げたが、ランスもソラもスイも見つけることが出来なかったのだ。
紗矢は隣を歩く珪介をちらりと見た。ソラやスイの姿が見当たらないのは有り得る話かもしれないが、ランスを見つけられないのはおかしいのだ。基本、珪介に命じられない限り、ランスは珪介と共に行動する。これまでも、登下校時にその姿を見ないことはなかった。
ランスの姿が徐々に消えていったあの光景を思い出すと、紗矢の胸がきゅっと切なく痛んだ。
もう一度珪介を見上げれば、紗矢は彼の目が屋敷の方に向けられていることに気が付いた。彼の視線の先にあるのが、三階の舞たちが生活している大部屋だと分かれば、また胸が痛くなる。
(舞ちゃん、早退したみたいだし……気になるよね)
今まで自分がそうしてもらっていたように、求慈の姫となった彼女を当主である珪介が心配するのは、当然のこと。
そう頭では分かっているが、心は穏やかでいられない。珪介と舞が寄り添って笑みを浮かべているのを想像してしまう。舞の腕にはいつか珪介の子供が抱きかかえられ……。
紗矢は慌てて顔を俯かせた。涙の浮かんだ自分の顔を、珪介に見られたくなかったからだ。
(私、耐えられないかもしれない……だったら、いっそ)
力があれば、このままずっと越河家に世話になることになる。
好きな人が、他の女性と仲睦まじくなっていくのを近くで見ていかなくてはいけない。
だったらいっそ、このまま力が消えてしまった方が……。
「――……っ!」
紗矢の思いを叶えるかのように、刻印が痛み出した。痛みは全身に広がっていく。耐えきれず、紗矢はその場に崩れ落ちた。
+ + +
額にひやりとした冷たさを感じ、紗矢は身じろぎしながら瞳を開けた。
「……大丈夫か?」
落ちてしまったタオルを再び紗矢の額に乗せた珪介が、ベッド脇の椅子に腰かけた。
「珪介君……私」
そこまで言って、紗矢は黙った。自分がどうしてベッドに横になっているのかを思い出したからだ。
無意識に、紗矢は服の上から刻印に触れていた。気味が悪いくらいに、そこに痛みは残っていなかった。
額の上のタオルを掴み取り、ゆっくりと上半身を起こし、ぎくりとした。紗矢は制服ではなく、お気に入りのルームウエアを身に着けていたのだ。気を失っている間に、自分で制服を脱ぎ、これに着替えた……ということは、おそらくないだろう。だとしたら、誰が制服を脱がし、これに着替えさせたのか。
恐る恐る、紗矢は顔を珪介に向け――……息をのんだ。感情の感じ取れない瞳で、珪介がじっと紗矢を見つめている。
(珪介君が……私を着替えさせたんだ……それで……)
持っていたタオルをぎゅっと握りしめた。
(私の……刻印を……見たの?)
今、刻印はどんな状態になっているのか。薄いまま肌に残っているのか、それとも跡形もなく消えてしまっているのか。確認するのも、珪介に直接聞くのも、どちらも怖かった。
そして自分を見つめる珪介の瞳も怖かった。怒っているようにも見え、悲しそうにも見え、冷たくも見えた。何を考えているのか全く分からない。
「……紗矢……お前」
発せられた声に、厳しさが含まれていて、紗矢はびくりと体を震わせた。
視界の中の珪介が揺れる。これから彼が何を言うのか。自分に何を宣告するのか。恐くて頭の中が真っ白になっていく。タオルを持つ手も震え出す。
そっと伸ばされた珪介の手が、震える紗矢の手を包み込んだ。珪介は僅かに視線を彷徨わせた後、気持ちを決めたように紗矢をまっすぐに見た。
「舞を連れてくる」
「……えっ」
珪介は紗矢から手を離すと、椅子から立ち上がった。
(舞ちゃんを、ここに連れてくる?)
今朝見た舞の姿を思い出し、紗矢はぞくりと体を震わせた。
「珪介君、待って……私……」
戸口へ向かっていく珪介を、焦り気味に呼び止めた。
「その刻印の薄さからして、舞の力にものすごい恐怖を感じているのは予想がつく。けど今やらないと……舞を喰らうことも出来なくなるかもしれない」
「舞ちゃんを喰らう……む、無理。私、そんなこと出来ない。恐い」
喰らい方もよく分からない上に、今の自分では舞に近寄ることも出来ないだろう。
ドアノブに手をかけ、珪介が紗矢を振り返り見た。紗矢は必死に首を横に振る。
「俺も傍にいるし、舞だってそれを望んでる」
それでも紗矢は首を振り続けた。涙が込み上げてくる。
「刻印が消えてしまったら、俺たちはもう一緒にはいられない。頼むから、我慢して舞を喰らってくれ! 俺は紗矢を手放したくない!」
叫ぶようにそう告げたあと、珪介は力任せに戸を開ける。そして、戸の向こうに立っていた人物に驚き、身を竦ませた。
「荒れてるな」
忠実は唇の右端を上げて笑みを作るが、珪介は気まずそうに視線をはずし、部屋の外へ出て行った。
「荒れてるじゃなくて、惚れ込んでるというべきだったか?」
はははと笑いながら室内に入ると、忠実はついさっきまで珪介が座っていたベッド脇の椅子に腰を下ろした。途端、薬師の顔になる。
「……俺には、少しずつ回復してるようにも思えたし、珪介の手前、最近は見せてもらわなかったけど……刻印はまだ薄いままなのか?」
真剣な瞳を見つめ返しながら、ぎこちなく頷き返すと、紗矢は覚悟を決め、ボタンを二つほど外す。
短く息を吐き出し、少しだけ口元を緩めた。色は薄いが、刻印はまだそこにあったからだ。しかし、ホッとしたのも束の間、紗矢の胸が苦しくなっていく。
「紗矢ちゃん!」
刻印を両手で抑え、身を丸めながら、紗矢は歯を食いしばった。
「……大丈夫、で……す」
圧迫感は長引くことなく、すぐに弱まっていった。紗矢は深呼吸を繰り返したのち、そっと胸元から手を離した。
いつの間にか立ちあがり、自分の背を優しくさすってくれていた忠実に、紗矢は体を向けた。
「……忠実さん」
「ん?……えっ……そんな……」
視線を合わせたのち、忠実は視線を紗矢の胸元へと落とし、身を強張らせた。刻印が消えていたからだ。
言葉を発しないまま、数秒後が経ち、紗矢の胸元に刻印が薄く浮かび上がってきたのを見て、やっと忠実は息を吐き出した。
「……珪介は知ってるのか?」
「分かりません。見たかもしれないし、見てないかもしれない」
震える指先でなんとかボタンを留め、紗矢は再び忠実に顔を向けた。
「どうしたものだろうか」
ぼりぼりと頭をかきながら、忠実は室内を見回し、ベッド脇で視線を止めた。その視線を辿り、気づいたことに、紗矢の心が切なさで締め付けられていく。
「忠実さん……ランス、いますか?」
「あ? あぁ。そこに」
忠実が見ている場所は、まさにランスがいつも身を丸め蹲っている場所だった。しかし紗矢は、そこにランスの姿を見つけることはできなかった。
忠実に視線を戻した瞬間、紗矢の目から涙が零れ落ちた。
「……私、ランスが見えないんです」
「えっ」
「胸が苦しくなると、今みたいに、刻印が消えてしまって……それが何度かあって、ランスも見えなくなって……」
忠実は唖然とした表情のまま、椅子に腰を落とした。
「このまま、消えてしまうんでしょうか……消えてしまったら、私、これから」
紗矢は両手で頭を抱え、ぼろぼろと涙を落としていく。忠実はハッとし、小刻みに震えている紗矢の肩に両手を乗せた。
「消えると決まった訳じゃない。大丈夫だから、まずは落ち着こう」
顔をあげ自分を見た紗矢に向かって、忠実は大きく頷きかけた。
「もともと紗矢ちゃんは力が不安定だったからな……くそっ。越河が求慈の姫のことを知らなすぎるのが一番の問題かもしれない……嫌だが、そうも言っていられないな。俺は峰岸の薬師に話を聞いてみるよ」
「ごめんなさい……私がちゃんと自分のことを言えてれば……もっと早く」
「他には、どうかな?」
忠実に問われ、紗矢は今日のことを振り返った。感じた変化を思い出し、紗矢はゆっくりと言葉を返した。
「……あの……結界に入ると、ちょっと体がだるくなります」
「越河の結界に入ると?……出たら、じゃなくて?」
はいと小さく返事をすると、忠実が難しそうな顔をした。紗矢は急速に怖くなっていく。
「もし、刻印が消えてしまったら……珪介君を好きっていうこの気持ちも消えちゃうの?」
若葉から珪介の思いがすっかり消えてしまっているように、自分もそうなってしまうのだろうか。嫌な肌寒さを感じながら、紗矢はじっと忠実の返事を待った。
やや間を置き、忠実は小さく、首を縦に振った。
「残念ながら、珪介への思いだけなく、異形に怯えた記憶も、俺たちと過ごした記憶もすべて、二、三日で消えていくよ……刻印が消え、力も消えて、新しい人生を歩き出していく」
忠実は寂しそうに笑った。
「珪介が余裕のない様子だったのも、無理ないか。もし紗矢ちゃんが刻印を失えば、自分のことを忘れ、見向きもされなくなってしまう」
「……そんな」
「けど、愛しい人が自分との時間を忘れてしまっても、自分は簡単に彼女への思いを忘れることなど出来ない。結構、辛いんだぜ」
ドクドクドクと鼓動が重々しく鳴り響いている。
(今までのことを忘れるなんて……絶対に嫌だ)
刻印と力を失えば、珪介への気持ちだけでなく、交わした言葉も、触れた温もりも、彼と出会い知った全ての感情を手放すことになる。想像すれば、全身が粟立っていく。
紗矢が両手で自分の体を抱きしめた瞬間、バタリと大きな音を立て、戸が開いた。
「紗矢ちゃん!」
聞こえた声音に、紗矢の体が強張っていく。珪介に続き、舞が部屋に入ってきた。
「……ま、舞ちゃん」
「具合はどう?」
「あ、あの」
足を止めることなく、自分に近づいてくる舞を見て、気が付けば、紗矢は座ったまま後ずさっていた。
(舞ちゃんなのに……なんで……なんでこんなに怖いの?)
自分で自分の行動に驚く一方、舞から逃げたいという気持ちもどんどん大きくなっていく。
「ちょっと、ちょっとー。舞、ストップ!」
忠実が紗矢の視界を塞ぐように、身を乗り出してきた。
「忠実さん、ちょっとどいて。私、紗矢ちゃんと話がしたい」
「分かった分かった。話すのは良いが、ちょっと遠ざかった方が良い……そして鬼気迫る顔もやめた方が良い。紗矢ちゃんが怖がってる」
忠実さんの言葉を聞いて、足音が止まった。
「分かってるわよ……でも、このままじゃいけない。少しくらいの荒療治で、事態が好転する可能性があるなら、私はそっちにかけるわ!」
「うわっ!」
舞は忠実を突き飛ばすと、紗矢のベッドへと両手をついた。視界に再び現れ、一気に距離を詰めてきた舞に、紗矢は身を震わせた。
「紗矢ちゃんが分けてくれた力を、返したいの! 私を喰らって!」
紗矢に言い聞かせるように、舞は力強く話しかけた。
(……恐い……恐い……)
しかし、紗矢にその言葉は届いていなかった。膨らむ恐怖に勝てぬままに、紗矢は身を震わせ続ける。
舞から伝わってくる圧倒的な力。その自分との大きさの違いに、気を失いそうになってしまう。
「紗矢」
傍に寄ってきた珪介が、横から紗矢の両肩を支えるように掴んだ。
「大丈夫」
紗矢は珪介と舞を交互に見て、ぶるぶると首を横に振る。そして珪介の手から逃れるように身をよじった。
「大丈夫だから」
「待て!」
忠実は珪介と紗矢の間に割って入ると、そっと紗矢の背に手を回し、引き寄せた。
「焦る気持ちは分かるが」
「だったら!」
「越河の薬師として言う。俺は反対だ!」
食って掛かるような珪介の叫びにも動ずることなく、忠実はハッキリとそう言った。
ホッとした瞬間、涙が溢れてきて、紗矢は忠実の胸元に顔を押し付けむせび泣いた。その様子に言葉を失った珪介へ、忠実は躊躇いながら口を開く。
「紗矢ちゃんの体が、越河を拒絶し始めてる」
「……えっ」
「結界を負担に感じ始めてる……それがどういう事か、分かるな珪介」
珪介の顔から血の気が引いていく。唇を引き結び、黙って紗矢を見つめた。
「今、舞を喰らって、弱っている体の中に越河の力を、強い力を取り入れたりしたら、下手をすれば死ぬ」
そっと忠実は紗矢の頭を撫でた。
「……長が求慈の姫の役目を舞に定めたというのなら、彼女はこのままの方が幸せかもしれない」
静かになった部屋に、忠実の言葉が重く落ちていく。
「舞がお前の子を腹に宿し、産み、そして二人で育てていくのを、すぐ傍で見続けていかなくてはならないのなら、このまま力を失い普通の女の子に戻って、お前を忘れ、青春を謳歌し大人になっていった方が……紗矢ちゃんは幸せなのかもしれない」
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