五章

第46話 消えていく。見えなくなる。


 午前の授業を終え図書館三階の自習室で、珪介、裕治、唯の三人とお昼ご飯を食べた後、紗矢は図書館の二階を一人歩いていた。


 図書館は越河の結界が張ってあるため、学園内で一人自由に歩いて良いとされている貴重な場所である。

 紗矢は本の背文字を流し見ながら、書棚と書棚の間をゆっくりと進んでいく。しかし、本を探している訳ではない。

 ぼんやりと今朝の出来事を思い返しながら、一歩一歩静かに歩を進めていたのだった。




 朝、珪介と共に登校はしたけれど、既に授業の始まっている教室に入ったのは紗矢だけだった。珪介が「時間差で入って行くから」と言い、紗矢に先に教室に入るよう促したからだ。

 窓際の前から三番目の席に着けば、ランスとソラがベランダの手すりに舞い降りてきた。それに心を和ませつつ、紗矢は珪介がやってくるのを待っていたのだが……五分経っても、十分経っても、彼は教室に姿を現さなかった。


 斜め後ろの彼の席と、開く様子のない教室後方の扉を何度も何度も振り返り見た後、珪介はランスとソラを自分の見張りにつけ、舞の元へ行ったのだと紗矢は気が付いた。

 心の中の寂しさを紛らわせるように、ベランダにいるランスの様子をじっと観察し、紗矢は一時間目を終えたのだった。


 異変に気づいたのは、それから五分が経った頃だった。


 廊下で驚きの声音が上がり、のんびりとしていた教室内に緊張感が走った。

 何事かと廊下に向かった紗矢は、珪介が卓人に掴みかかっている光景を目にすることになる。

 学校内では温和な人物で通っている珪介だからこそ、クラスメイトや同級生たちは、廊下で戸惑いながら二人の動向を見つめていたのだが、珪介が教室に入り紗矢を抱きしめたことで、一部の生徒たちの好奇心に火をつけてしまったようだった。

 昼休みになって早々、紗矢はクラスメイトの尾島京香から、結局卓人と修治、そして珪介の誰と付き合っているのかと質問攻めにあい、急いで教室から逃げ出すはめになる。


 興味の対象にされているのは自分たちなのだが、紗矢はどことなく他人事のように感じてしまっていた。自分の置かれている状況は、楽しくて色めき立つようなものではなく、複雑で息苦しいものになりつつあったからだ。





 紗矢は気だるさを追い出すようにため息を吐き、本棚に寄りかかりながら、その場に座り込んだ。


(そう言えばこの場所って……)


 辺りを見回し、そして壁の細長い小窓に目を止め、紗矢はほんの少し笑みを浮かべた。ここは、珪介とキスをした場所である。

 気持ちを受け取ってもらえなくて、やきもきしていたあの頃よりも、心の距離は近づいているはずなのだが……今、何かが、遠ざかってしまっているような気がした。


 紗矢は震える指先でそっと襟を引っ張った。胸元にある自分の刻印は、哀れなくらい薄かった。


(舞ちゃんの刻印が光っている……それってやっぱり、舞ちゃんが求慈の姫になったってこと……なんだよね。私、力が戻らないから、役目を解かれちゃったのかな)


 求慈の姫の役目を解かれたのならば、越河家当主である珪介との関係も今まで通りという訳にはいかなくなる。

 越河家当主と求慈の姫のお披露目は来週末に行われる。そして、当主と縁を結ぶのは求慈の姫なのだ。このままだと、珪介の隣には紗矢ではなく舞が並ぶことになってしまうだろう。


 彼に気持ちをぶつけ、やっと受け入れてもらうことが出来たのに、このままでは珪介は別の女性と婚約してしまう。自分から離れていってしまう。


(そんなの……悲しすぎるよ……)


 どうにかしたいと思っても、どうすべきなのかが全く分からなかった。


(……もしかしたら、私はもうどうすることもできないのかもしれない)


 ある日突然、力が解放され、流れに身を任せるまま刻印を受け、不安定なまま求慈の姫を続けてきた。

 自分の努力で勝ち取った立場ならば、次に打つ手も思いつくかもしれないが、刻印が薄くなっていくのを見て、感じて、恐怖に支配されている紗矢には無理だった。


「……っ!」


 襟元に引っかけたままの指を外そうと再び視線を落とした瞬間、胸元に圧力を受けたような苦しさを感じた。

 そして、新たに震えが走る。視界にとらえた刻印が、すっと、胸元から消えていったのだ。

 心が一気に冷えていく。震え出す唇を必死に引き結び、叫びそうになるのを必死に堪えていると――……数秒後、刻印が薄く肌に浮き上がってきた。


 体の中で重々しく鳴り響いている鼓動を感じつつ、紗矢は息を長く吐き出す。安堵で目に涙が込み上げてきた。


(びっくりした……消えちゃったかと思った)


 圧迫感が引いたことにもホッとしながら、紗矢はふらりと立ち上がり、細長い窓へと向かう。そこから必死に彼の姿を探した。


 体育館の屋根の上にランスやソラ、スイの三羽の姿は確認できたが、学園裏にある祠の結界を確認しに行った珪介の姿は……今一番会いたい、縋り付きたい姿はどこにも見当たらなかった。


(もし……あのまま刻印が消えちゃったら、私どうなっていたんだろう)


 紗矢はクラスメイトの尾島京香と、彼氏である憲二の顔を思い浮かべた。

 以前、京香が小学生の頃、珪介にどっぷりはまっていたと、憲二が言っていた。あの時は、それが何を現していることなのか分からなかったが、今ではじゅうぶん理解できた。

 彼女は小学校の頃、力を持っていた。だから怖いものから守ってくれる優しく紳士的な珪介は特別な存在だったに違いないのだ。信頼し、心を砕き、好意も寄せていただろう。

 刻印を受けることもなく、すっかり力が消え失せた今、京香に珪介への思いは残っていないように見えた。今はすっかり憲二に首ったけのようだ。


 突然、紗矢の思考を邪魔するようにスマホが鳴りだした。びくりと体を揺らした後、急いで画面を確認する。


「……若葉?」


 着信相手の名前を呟くと同時に、体の奥底で僅かな緊張が生まれた。


「もしもし……若葉、どうしたの?」


『話そうと思ってクラスに行ったんだけど、いないから。電話しちゃった! 今どこにいるの?』


 図書館と言って良いのか分からず、口ごもれば、『もしもーし』と若葉の明るい声が響いた。


『聞いたよー! なんかすごい面子の四角関係になってるって』


「あー……あのね。四角関係とか、そういうのじゃないの。違うの」


 修治は友人以外のなにものでもなく、卓人とは完全に敵対してしまっている。


『紗矢は誰が本命なのよ!……越河……修治?』


「……えっ。それはない」


『なーんだ。じゃあ峰岸君? それとも越河珪介?』


 その質問を受け、紗矢は再び口ごもってしまった。

 京香の場合は、小学校の頃、珪介に恋心を抱いていたとしても、何年もの月日が流れ、新たな出会いに気持ちは変わっていき、その感情はすでに過去のものになっているだろう。

 しかし今話をしている相手は、つい最近まで、まさに珪介に心を寄せていたのだ。


「……私は、珪介君が好きだよ……」


 紗矢は声を震わせながらも、思い切って自分の気持ちを打ち明けた。

 どんな反応をされるのか、息を止め待っていると、若葉がふふっと愉快げに笑ったのが聞こえてきた。予想外の反応に、紗矢は目を大きくさせた。


『そうだったんだ! 最近、恋愛の話してないもんね。越河珪介とはどうなってるのか、細かく教えてほしいなぁ』


 声音からは全く動揺が感じられなかった。


「若葉は珪介君のこと……どう思ってるの?」


『私? 別に……って、越河君のことめちゃくちゃイケメンだとは思ってるけど。前からどうとも思ってないよ』


「えっ?」


『話したことも……ほら、図書館で倒れたときに運んでくれたって知った時だけだし。あの時ちょっとドキッとしたけど、恋愛感情には発展しなかったし! 良かったね紗矢。私とライバルにならなくて!』


 若葉が笑い、紗矢の中で混乱が生じていく。

 珪介と関わりあい、力を持っていたあの時の記憶が、若葉から抜け落ちてしまっているかのように思えた。

 もし刻印が消えてしまったら、自分も今の若葉のようになってしまうのだろうか。珪介との記憶が抜け落ちてしまうのだろうか。

 紗矢はぞくりと身を震わせた。


『ねぇねぇ。今度の土曜日、暇?』


「……え?……土曜日……えーっと……」


『あのね。バスケ部が練習試合あるみたいなの。五之木学園の体育館でやるみたいだから、こっそり見に行きたいなぁって思ってて。でも一人だとちょっと不安だし、付き合って! お願い!』


 それを聞き、紗矢は「バスケ部?」と小声で繰り返していた。頭の中で一年の頃を振り返るが、若葉がバスケ好きだった記憶は見当たらない。


『実はね。一年生でカッコいい子がいるの。今度の練習試合に出るって聞いたから、見に行きたいなって。だからさっき、修治君が好きって返事を期待してたんだよね』


 修治を好きだったならば、紗矢が二つ返事で練習試合に行く約束をすると思ったのだろう。

 紗矢は思わず笑みを浮かべた。


「何か予定があったような気もするから、夜に返事するね」


 そこで話は終わりとなり、紗矢は電話を切った。予定は自分のというよりも珪介のである。自分が行くといえば、彼は警護のために同じ空間にいないといけなくなるからだ。

 薄くなっている刻印を思い出し、紗矢はそっと胸元を抑えた。

 当主である珪介が付き添うほどの力が、価値が、果たして今の自分にあるのだろうか。

 自分のマイナスな考えに物悲しくなり俯いていると、遠くから力強い足音が聞こえてきた。それは、階段をのぼり、部屋に入り、真っ直ぐに自分に向かって進んでくる。


「ここで、何してんの?」


 書棚の向こうから現れた珪介に、自分の所に戻ってきてくれた珪介に、紗矢に心の底から安堵した。嬉しくてたまらなくなっていく。


「本読もうかなって。そしたら若葉から電話がかかってきて、話してた」


「そう……そろそろ昼休み終わる。行こう」


「うん」


 珪介に続き部屋を出て自習室に戻り、裕治と唯に教室に戻ることを告げると、彼らもすぐに椅子から立ち上がった。

 四人で校舎に戻るべく、図書館内の階段を降りているとき、前を歩いていた祐治がちらりと後ろを振り返った。


「珪介兄さん。紗矢さんに話しましたか?」


「……まだ。帰りに話す」


 何のことかと祐治を見れば、ぱちりと視線があった。彼はそれ以上何も言わず、ただ紗矢に向かって微笑みを浮かべている。

 何気なく視線を移動させ、唯と目が合い、微かに息を詰めた。理由のない恐怖を感じてしまったのだ。

 それでも舞の時よりは、普通でいることができ、紗矢は足を止めることなく、目の前の二人に続き階段を降りていく。


(これって……前の若葉みたい)


 ふと思い出したのは、自分を見て怯えていた以前の若葉だ。


(あの時の若葉も、こんな気持ちだったのかな)


 俯き考えていると、そっと手を掴まれた。繋がった珪介の手の温もりに、感情が落ち着きを取り戻していく。


(ずっとこうやって……珪介君と手を繋いでいたい)


 押し開けた扉を、紗矢が通り抜けられるように珪介が押さえた。見上げれば、そこには自分を見守る優しい瞳があった。


(私も、頑張らなくちゃいけない。彼の隣にまた並べるように、出来ることを探さなくちゃ)


 図書館から出て、思わず紗矢は足を止めた。


「どうした?」


 体が軽くなった気がして、思わず後ろを振り返り、扉を見つめていると、珪介がぽつりと問いかけてきた。

 扉から外に出た瞬間、気だるさが引いていったのだ。


「……結界?」


 扉の内側と外側。その境で何かが変わるとすれば、越河の結界の有無である。

 不思議な感覚に囚われていると、突然、思い出したかのように胸が苦しくなった。一瞬だけ刻印が消えたあの時の圧迫されるような苦しさが、また襲ってきたのだ。


(やだ……消えないで、お願い)


 左手で服の上から刻印を抑え、右手で珪介の手をぎゅっと握りしめた。


「紗矢!」


「紗矢さんっ!?」


 その場にしゃがみ込めば、珪介の焦り声に続き、祐治の慌てたような声も聞こえてきた。

 続けて二人が何か話しかけてくるが、それらの声はくぐもった音に変わり、徐々に遠のいていく。荒い呼吸を繰り返しながら僅かに視線を上げると、地面に降りてきた赤い躰が視界に映りこんだ。


「……ラン……ス」


 赤い姿が薄くぼやけていく。


(ランスが……消えちゃう……)


 不安そうにこちらを見つめている小さな顔が、ゆっくりと景色に溶け込んでいく。


「……や……やだ……」


 失いたくない。

 駆け寄ってその躰を抱きしめ、存在を取り戻したい。そう強く思うのに、体が言うことを聞いてくれなかった。


(刻印……消えないで……)


 胸の痛みと苦しさに負け、心の叫びも声にすることが出来なかった。


(お願いだから……消えないで!)


 願いは叶わなかった。

 ランスのいなくなった景色が、涙で滲んでいく。


「紗矢!」


 珪介に強く肩を掴まれた瞬間、紗矢から涙が零れ落ちた。

 身を屈め自分を見つめている彼の胸元に、紗矢は必死にしがみついた。


(恐い……いや……消えないで……お願い……)


 震える手に、精一杯力を込めたのだった。





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