第44話 推移

 かくりと船を漕いだことにハッとし、紗矢は瞳を開けた。


「……やばい。このまま寝ちゃいそう」


 目覚めきっていない体を無理やり動かして、紗矢は立ち上がった。

 背伸びをしながら時刻を確認すれば、幸いにも、部屋に入ってきてから十分しか経っていなかった。完全に眠りに落ちる前に気が付けたことに、ほっと息を吐いた。

 これから学校なのである。珪介と二人で朝食を食べ終え、髪を結うため部屋に戻り、そしてローテーブルの上に大きな鏡を置き、ふかふかのラグの上に座り、櫛を持ったところで、眠くなってしまったのだ。


 しっかり睡眠をとっているというのに、ここ最近、急に眠くなってしまうことがある。

 紗矢は胸元の刻印のあたりを手の平で撫でた。解消しない眠気の原因として思い当たるのは、これしかない。


 獣舎での和哉たちの話を盗み聞きしてから一週間が経った。紗矢の力はいまだ低迷したままで、刻印の色も薄いままである。美春の言葉通り、このまま力が戻らなったら……どうなってしまうのだろう。

 雛を連れて塔から降りてきた長に、役目を全うできる力がないと判断されてしまったら、どうなってしまうのだろう。


(珪介くんにも、迷惑かけちゃうんだろうな)


 美春の顔を思い出しながら、紗矢が俯いていると、がちゃりと戸が開いた。

 珪介は机上に置いてある鞄に向かって進みながら、紗矢に顔を向け眉根を寄せた。


「……具合悪い?」


「ううん。眠いだけ」


「髪はそのままで良いの?」


 二つ目の質問に、紗矢は苦笑いしながら頷いた。

 髪を結うと言って部屋に戻ってきたのに、依然そのままの状態でいるのだから、珪介に不思議がられても仕方がない。昨日も一人早々とベッドに入ったというのに、ついさっきちょっぴり寝てしまった……と、打ち明けるのも恥ずかしい。

 紗矢は珪介の傍へと歩み寄り、さりげなく話題を変える。


「そう言えば、来週からテストだね。今日学校から帰ってきたあと、舞ちゃんに教えてもらおうかな」


 後半、独り言のように呟きながら、紗矢は机の上に並べて置かれている鞄に手を伸ばした。しかし鞄を掴み取る前に、珪介が紗矢の鞄を掴み上げた。


「俺が教える」


「……えっ……」


 不機嫌さを含んだ珪介からの申し出に、紗矢の手が空を掴んだ。


「何で嫌そうな顔してるの? 俺じゃ不服?」


「ふ、不服とか……そういうのじゃなくて」


 今まで何度も珪介から勉強を教えてもらっている。

 思いを通わせる前は、冷たく厳しい態度で、時に涙目になることもあったのだが、最近は違う。珪介が必要以上に接近してくるため、紗矢は別の意味で涙目になってしまうのだ。


「珪介君がからかうから、勉強にならないの!」


 気恥ずかしさを隠すように、紗矢は珪介の手から無理やり自分の鞄を奪い取った。

 そのまま戸口に向かって進んでいくと、そっと後ろから腰に手が回される。軽く引き寄せられ、紗矢の体は珪介の腕の中に閉じ込められた。


「からかってない……全然」


 耳元でくすぐるように囁かれ、紗矢の顔は熱くなっていく。

 口調は明らかに面白がっていると分かるものなのに、低い声音は甘やかさを含んでいて、紗矢に熱を植え付ける。


「珪介く――……っ!」


 刻印がズキリと痛み、咄嗟に紗矢は胸元を抑えた。身を折る紗矢を支えるように、珪介の手にも力が入る。

 刺すような痛みが断続的に続く。歯を食いしばり数秒後、嘘のようにすっと痛みが引いた。


「少しベッドに横になるか?」


「平気……大丈夫、みたい」


 薄気味悪さを感じながら、紗矢は額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。


「いや……でも」


 珪介の探るような視線に気が付き、紗矢は笑みを浮かべた。


「大丈夫。いつも通りの刻印の痛みだと思うから」


 紗矢は変な理由を口にしてしまったと思いながらも、珪介の手を掴み、笑顔を崩さぬまま歩き出した。


「辛い時は我慢しないで言って」


「うん。分かってるって」


 勢いよく戸を開け、廊下に出て、紗矢は息を詰めた。

 足を止めると同時に、背中に珪介の体が軽くぶつかったが、紗矢の体は前に押し出されることはなかった。


「紗矢?」


 背後で不思議そうに珪介が紗矢を呼ぶと同時に、今まさに階段を降りようとしていた二人が顔を上げた。


「お早う! 二人とも、早くしないと遅刻するよ!」


「お早うございます!……あれ?……どうかしたんですか?」


 舞と唯が足を止め、揃って笑みを浮かべる。しかしすぐに不思議そうに首を傾げた。


「な、なんでもないよ」


 紗矢はやっとの思いでそれだけ言うと、口元に笑みを張り付け、首を横に振った。


「……そ、そう?……下で待ってるね」


 舞は紗矢に向かって軽く手を振ったのち、足音を響かせながら唯と一緒に階段を降りていった。姿が見えなくなり、気配が遠くなっていくのを感じ、紗矢は目を閉じ、息を吐き出した。

 紗矢は舞を見て、足が竦んで動けなくなるほどの恐怖を感じでしまったのだ。


(……今の何?)


 今まで、舞の姿を見て好意的な感情が湧き上がることはあっても、恐怖を抱くことは全く無かった。初めての感情にうろたえている紗矢を、珪介がそっと引き寄せた。


「どうした?」


 再び包み込まれ腕の中で、紗矢は珪介の顔を見上げた。


「……私も……よく分からない」


 ふと、薄くなっている自分の刻印を思い出し、紗矢は慌てて珪介から視線をそらした。


「は、早く行こう。のんびりしてたら本当に遅刻しちゃう。私、走るの嫌だよ」


 ぎゅっと珪介の手を掴み、僅かに落ち着きを取り戻してから、紗矢はその手を引いたまま階段を降りていく。


「紗矢に走らせるのは酷だな……運動不足だし、そもそも足も遅いし」


 さらりと嫌味を言ってきた珪介をじろりと睨みつけながら、並んで階段を降ていけば、玄関の方から「あっ」と声が聞こえてきた。


「お早うございます!」


 祐治の優しい声につられ、そちらに顔を向ければ、紗矢の体がまた硬直する。唯を見ても恐怖を感じるが、舞から感じるそれは桁違いだった。彼女の身のうちから滲み出てくる力に圧倒され、恐怖が込み上げてくる。

 珪介に助けを求めるかのように、紗矢は繋いだ手に力を込めた。


「……唯ちゃん、ごめん。ちょっと待って」


 玄関を開けようとしていた唯を、裕治は呼び止め、難問を解いているような顔で靴を履いている舞と修治を見た。片足だけ履いていた靴を脱ぐと、そのまま裕治は階段の下で留まったままの紗矢の元へと歩いてくる。

 じっと紗矢の目を見つめた後、僅かに視線を落とした。紗矢は祐治の目が刻印に向けられていることに気が付き、身を強張らせた。


「紗矢さん。刻印痛みますよね?」


 今この瞬間、痛みなど微塵も感じていない。しかし紗矢はぎこちなく頷き返してしまっていた。

 本当ですか?――……そう聞き返されるような気がして、紗矢が更に硬直すると、祐治は表情を崩しニコリと笑みを浮かべた。


「学校に行く前に、忠実さんから痛み止めをもらって行った方が良いと思います。念のために」


 佑治がそう告げ、珪介が頷くのを横目で見ながら、紗矢は刻印のことを聞かれなかったことに、こっそり肩の力を抜いた。


「忠実さんは朝ごはんを食べてると思います。さっき食堂に入って行ったので……僕たちも、待っていた方が良いですか?」


「場合によっては車で送ってもらうことにするから、先に行って」


 食堂の方を指さす裕治に、珪介はそう言葉を返すと、紗矢の手を掴み歩き出す。


「分かりました……また後で」


 声のトーンが少し落ちた気がして、紗矢は肩越しに祐治を振り返り見た。

 その瞬間、ざわりと胸が波立った。また祐治が、探るような瞳で紗矢を見つめていた。





 食堂に入り、予想通り朝ごはんを食べていた忠実に、事情を説明すれば、すぐに彼は食事の手を止め、席を立った。そのまま二階の自室に向かい、棚から痛み止めを出してくれた。

 時間もかからず手渡しが済んだため、紗矢は珪介と歩いて学校へと向かうことにした。遅刻ギリギリの時間になってしまったため、足早になるかと思いきや、珪介に慌てる様子はない。時間は気にしないことにしたらしい。

 もちろん紗矢も彼の速度にあわせ、のんびりと隣を進む。地面を走っていく影に気付き視線を上げれば、ランスが空を飛んでいく。

 ふと、自分の刻印のことや、舞に対して感じた感情を思い出し、紗矢は珪介に手をそっと掴んだ。心の中で一気に膨らんだ不安が、少しだけ萎んでいく。

 珪介はちらりと紗矢を見て、微かに笑みを浮かべると、繋いだ手にきゅっと力をこめた。

 風が木々を揺らす音を聞きながら、何も言葉を交わさぬまま学校に向かって歩いていく。手の温もりがしっかりと自分たちを繋ぎ合わせているような気がして、紗矢は幸せな気持ちになった。



 しかし、校門の手前にある赤い橋に差し掛かろうとしたとき、心の中に陰りがさす。

 橋の欄干に裕治と唯が寄りかかり立っていた。珪介と紗矢の姿を見つけると、ふたりは笑みを浮かべ手を振ってきた。


「二人とも歩きで来たんですね。車で送ってもらえば良かったのに」


「……どうした?」


 二人が待っていたことに、珪介が不思議そうに問いかけた。

 紗矢は唯を見て、少しだけ身を強張らせた。しかし伝わってくる威圧感は舞ほどではなく、徐々に無駄に入った力が抜けていく。


「紗矢さんに聞きたいことがあって」


 真顔になった祐治の言葉に、紗矢の鼓動がどくりと鳴った。


「だから、舞さんと修治兄さんは先に行かせて、僕たちはここで待っていました……唯ちゃんは大丈夫みたいですね。良かった」


 優しくそう話しかけてくれるが、紗矢は怖くて仕方なくなっていく。


「……聞き難いんですけど……良いですか?」


 紗矢に向かって祐治が一歩踏み出した瞬間、スマホが鳴った。祐治は足を止め、スマホを確認し、瞬きを繰り返した。


「修治兄さんだ……ちょっとだけ、すみません」


 断りを入れてから、裕治は修治と話だし、目を大きくさせた。


「……えっ!?……あ……と、とりあえず、行きます。今どこですか?」


 大きな声を上げたちの、しどろもどろに言葉を繋ぎ、電話を切ると、珪介と紗矢を見た。


「修治兄さんが……舞さんの刻印が光ってるって」


 光っている。

 告げられた言葉に、珪介と紗矢と唯は息をのんだ。刻印が金の色を宿すのは、求慈の姫だけである。


「……紗矢さん、今、刻印ってどういう状態ですか?」


 祐治の問いかけに、紗矢は何も答えられなかった。確認することも出来なかった。もし消えてしまっていたら……そう思うと、恐かった。

 混乱で頭の中は真っ白になり、唇が震え出す。


「お前らで舞の現状確認してきてくれるか?」


 珪介はそっと紗矢を抱き寄せ、祐治に指示をだす。その声音はとても低かった。





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