第43話 不安定な影
紗矢は越河家へ帰宅すると、着替えのためもう一つの自室へと向かう珪介と二階で別れ、ゆっくりとした足取りで階段をあがっていく。無言のまま誰もいない広い部屋へと入り、後ろ手にドアを閉め、そして小さなため息を吐いた。
目覚めてから二日たち、体調も回復したため、紗矢は今日、登校することになった。
部屋の角位置に置かれているクローゼットを開け、制服を脱ぐべく、リボンを引っ張った。
ふと、扉の内側に備え付けられている鏡に目を向け、手を止める。鏡には、心もとない表情を浮かべる自分が映っていた。紗矢はその顔からおもむろに視線をそらし、またため息を吐いた。
体調は学校に行けるほど、回復している。食事もしっかりとっている。昨日は天気も良かったため、夕方、珪介と共に庭を散歩した。
(……けど……)
紗矢は服の上から、刻印を指先で押さえた。
体調は回復したというのに、刻印の力があまり戻っていないような気がするのだ。
以前、刻印の力が低迷しているときは、体調はすこぶる悪かった。しかし今、体調は良好だというのに、回復の兆しを実感できていない。
ブラウスのボタンを外し、視線を胸元の刻印に向ける。目覚めたあと痛みを感じ、刻印が黒色へと変化してから、一度も金色にはなっていない。それどころか、逆に色が薄くなってしまっているように紗矢には思えるのだ。
自分では体調が戻ったと思っていても、実際はそうではないのかもしれない。
怒りで爆発させた力は、窓ガラスを割り、壁に亀裂を走らせ、戸棚を倒し、峰岸卓人本人にも痛手を負わせた。自分で思っている以上に、身体への負担が大きいものだったのだろう。
「……これからゆっくり回復していくよね」
自分に言い聞かせるよう独りごちてから、紗矢は手早く着替え始めた。珪介が来るまでに着替え終わっていないと、面倒なことになってしまう。彼の目の前で堂々と着替えられる訳もなく、舞たちの部屋まで行き着替えるはめになってしまうのだ。
焦り気味に着替えていると、窓の外から羽音が聞こえてきた。長袖のチュニックにパンツ、そしてロングパーカーと、気軽な格好にそそくさと着替え、紗矢はバルコニーへ出た。
オレンジの空に、元気いっぱいのソラが飛び回っている。視線を落とせば、庭の中央で辺りをチラチラ見ながらランスがとてとて歩いていた。
力がなかなか戻らないため、鳥獣たちにも力を与えられずにいる。それも紗矢にはもどかしかった。
「みんなと遊んでこようかな」
先ほど珪介が、これから学校裏の見回りに蒼一と行くと言っていた。紗矢はそれについて行くわけではない。夕飯の時間まで獣舎の掃除がてら、遊んでいても問題ないだろう。
パタパタと足音を響かせながら、部屋を出て階段を降りていけば、二階の廊下からボソボソと話す声が聞こえてきた。階段を降りる速度を緩め、そちらを伺えば、話し声が止む。向かいあって立っていた珪介と蒼一が、揃って紗矢に顔を向けた。
口を閉ざし、話を中断した二人から微かな気まずさを感じ、紗矢はぎこちなく愛想笑いを浮かべた。
(……何の話をしていたんだろう)
気にはなったが聞くことはできず、紗矢はそのまま二人に背を向け一階へと降りようとした。
「紗矢」
しかし珪介に呼びかけられ、振り返る。
「どこ行くの?」
「庭に……ランスがいたから……遊ぼうかなって」
途切れ途切れに答えると、珪介が口元に笑みを乗せ、小さく頷いた。
「……俺、これから兄さんと結界の状態見てくるから、ランスといて。すぐ帰ってくる」
「うん……分かった……気をつけて」
今度は紗矢が珪介に向かって笑いかけた。そして階段を降りていくと、程なくして後ろで小さなため息が吐き出された。か細過ぎて、それが誰のものかはハッキリ分からなかったが、紗矢はきっと珪介のため息だと思った。
涙が込み上げてくる瞳を伏せ、紗矢は懸命に靴を履く。この場から逃げ出したかった。
彼は今まで以上に自分を気にかけている。それはきっと、目の届かない所に行かれ、また何かあったらと、不安からの行動なのかもしれない。あの日、修治たちに一声かけず、保健室を出てしまったことへの後悔が、紗矢の中で募っていく。
(……珪介くんに余計な心配させて、私、ほんとに馬鹿だ)
戸を押し開け外に出れば、ちょうど赤い翼を力強く羽ばたかせ、ランスが空へと舞いあがっていく。
「あっ。待って」
そのままどこかへ飛んでいってしまいそうな気持ちになり、紗矢はランスに向かって手を伸ばした。すぐに高度を落として、ランスは獣舎の屋根へと降りた。同時に、紗矢の足は前に進み出す。
林の方を警戒している赤い姿を見上げながら庭を進んでいると、冷たい風が吹いた。獣舎の中へ入ろうと考え、両手の平で腕を摩りながら、入口へと向かい……紗矢は足を止めた。獣舎の中から男女の話し声が聞こえてきたのだ。
数センチほど開いている戸の隙間から漏れ聞こえてくる声は、美春と忠実の声だ。覗き込むことも、開けることも出来ず、その場に立ちすくんでいると、もう一人の声が聞こえていた。
「確かに……しかしきっと、一時的なものだろう」
珪介の父、和哉の低く落ち着きある声に、自然と紗矢の身が引き締まっていく。
自分たちの鳥獣が住まう獣舎ならまだしも、彼らがランスたちの住まうこの獣舎にいるのは、珍しい。
「俺もそう思ってる」
どうしたのだろうかと耳をそばだてると、苛立たしげに息を吐いたのが聞こえてきた。
「どうしてこんなことになったのか、理解できないわ。だってみんな学校にいたんでしょ?」
「まぁまぁ、抑えて美春さん。あの日は、舞のこともあったから」
「だったら余計じゃない……引き継いですぐにこんなことになって……それにもうすぐ孵化するかもしれないのに、求慈の姫があんな状態だったら長から怒りをかうわよ……本当に、珪介に当主が勤まるのかしら」
美春と忠実の言葉を聞いて、紗矢は息をのんだ。
「珪介は良くやってるよ」
呟くような和哉の反論に、美春が鼻で笑う。
「あの子、越河を潰したいんじゃないの?」
「峰岸を潰したいとは思っているかもしれないけど、越河をなんて……それはないでしょう」
すこぶる明るく、笑い声を交えて、忠実が美春の言葉を否定した。
「力が回復しないのは、精神的なものが尾を引いているのかもしれない……しかし彼女は、長に選ばれた姫だ。求慈の姫である限り、力が戻らないことはない」
きっぱりとした声音で和哉が言いきったあと、静寂が訪れた。
ここから離れた方が良いかもしれないと、紗矢が半歩後ずさった時、美春の棘のある言葉が聞こえてきた。
「……もし力が戻らなかったら、珪介はどう責任をとるつもりなのかしら?」
珪介。責任。その二つの重みが圧し掛かり、視界が微かに揺れた。
紗矢は無意識のうちに、襟元を握りしめていた。刻印が薄くなりつつあることを、絶対に知られてはいけない。それだけを強く感じながら、紗矢は戸口から離れ、獣舎裏へと向かっていく。
美春の言葉は、深く深く心に突き刺さっている。実際、紗矢は和哉と同じように考えていたのだ。いくら力が弱くなってしまっても、自分が求慈の姫である限り、いつかは回復するものだ、と。
だから紗矢の中では、その”いつか”だけが問題だったのだ。自分には求慈の姫という役目がある。雛が産まれたときに、分け与えることが出来なかったらどうしよう、と。
(もしこのまま……刻印が、力が消えてしまったら)
ぞくりと背筋が震えた。その続きを否定するように、紗矢は大きく首を振る。
獣舎裏の壁に寄りかかり、襟を掴んでいた力を抜き、胸元に両手の平を重ね置く。
(……早く……戻って)
手の平の下にある刻印からは、やはり何の変化も感じ取ることが出来ず、紗矢は唇を噛んだ。
バサリと、頭上から羽音が聞こえてきた。涙で滲む視界を上げれば、ランスが家の方に向かって飛んでいく。
赤い躰を目で追い、蒼一と共に屋敷から出てきた珪介の姿を見て、紗矢は走り出していた。
陰ってきた空を舞うランスを、珪介は眉根を寄せ見上げていたが、すぐに走り寄ってくる紗矢に気が付き、目を大きくさせた。
「どうした? ……っ!」
その勢いのまま、紗矢は珪介の胸にしがみついた。
「紗矢?」
「何でもない。ちょっと……抱きつきたかっただけ」
胸に顔をうずめたままそう答えれば、背中に添えられた珪介の手に力が込められた。
彼の温もりが体の中に染み込んでくる。紗矢は長く息を吐き出した。
バサバサと羽音を立て背後に降りてきたランスの気配を感じ、紗矢は珪介から身を離した。
「行ってらっしゃい!」
笑みを浮かべ、手を振り、身を翻すと、紗矢はランスへと走りだす。
「紗矢!」
困惑げに名を呼ばれても、振り返ることはしなかった。
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