第42話 過去語り、2

 また違う痛みが胸元に走った。和哉の寂しそうな笑みに、紗矢の胸がきゅっと苦しくなっていく。


「もちろん最初は、その存在も自分の中に生まれた感情も、忘れるよう努力していた。彼女が峰岸家を選んだ以上、既に振られたようなものだからね……それに私には、菜摘なつみという許嫁もいた」


「菜摘さんは……蒼一さんのお母さんですよね?」


「あぁ」


 夏休みの間、先代の住む屋敷の前で、忠実と楽しそうに話をする着物姿の女性を、紗矢は何度か見かけていた。

 紗矢が遠くから挨拶すると、その女性も紗矢に気づき、にこりと優しく笑いかけてきた。穏やかな笑みは、紗矢に強い印象を与えた。彼女は和哉の現在の妻である美春よりも、その身のうちに強い力を秘めていたからだ。

 その日のうちに、紗矢は忠実に彼女の名前を聞きに行き、彼女が「菜摘さん」であると知ったのだ。

 同時に、菜摘さんは和哉さんの前妻であり蒼一の母親だと、舞から聞いたことも思い出した。


「以前から、峰岸家は五家の中で頭一つ抜きんでていた。だから鳥獣の長から求慈の姫を託されることがほとんどだった。越河の先代には、それを面白くないと思う連中が沢山いてね……次こそは、峰岸よりも強い子を産み、峰岸の上に立てる男に育て、越河の時代を築けと、私たち兄弟はうんざりするくらいその言葉を聞かされたよ」


 和哉は膝の上で指を組み、肩越しにライラを振り返り見た。ライラは瞳を閉じたまま、動かずにいる。


「高校を卒業し、越河の当主を任された私は、越河の刻印持ちの中で力が一番強かった菜摘と当然のように婚姻を結ばされることになる……しかし結局、私たちは蒼一をもうけた後、婚姻関係を破棄しまった」


 呟き、苦笑しながら和哉は視線を前に戻した。


「そして三年が経ち、越河の守護下に美春が入った。彼女が私に懐くのを見た上の代が、美春を妻に迎え子を成せと言い始めた。確かに私も、弟の正則や忠実に助けられている。そのことを考えると、蒼一だけに越河を背負わせるのは酷だと思った。美春も好意を態度で示してくれ、段々と私もその気になっていった」


 蹲っていたランスがピクリと顔を上げ、戸の方をじっと見つめた。和哉もそれを見て、また口元に笑みを浮かべる。そして浅く息を吸い込み、話を続ける。


「……けど皮肉にも、再会してしまった。私は峰岸家から逃げ出してきた結綺と、出会ってしまった」


 奥底に沈められていただろう記憶が、言葉となって和哉から告げられる。その横顔が、紗矢には懺悔をしているように見えた。


「結綺は菜摘以上の力を持っていた。その力は幼いころ露わになり、彼女は何もわからないまま、峰岸家の守護下に下ることになったらしい……しかし、大人になるにつれ、峰岸家の考えに疑問を持ち始め、ついには苦痛すら感じるようになってしまった」


 不意に、卓人の顔を思い出し、紗矢は身震いをした。和哉の言葉は止まらない。


「峰岸に逆らったらいけないと、彼らに守ってもらわないと、自分は生きていけない。そんな考えに囚われ、ずっと耐えていたが……彼女は限界に達し、峰岸家を飛び出した」


 珪介の母親が感じていた強迫観念は、紗矢にも覚えがある。刻印を受けたあの日、峰岸卓人に対して感じた思いと一緒だ。

 その数時間前、もし珪介に学校の裏で助けてもらわなかったら、図書館でのあの一時がなかったら、きっと紗矢は刻印の瞬間、珪介を強く望むこともなく、峰岸家の守護下に入ってしまっていたことだろう。

 どこかで掛け違えていたら、自分も珪介の母と同じ道を辿っていたかもしれない。他人事とは思えず、紗矢はまた身を震わせた。


「私は異形に襲われそうになっていた彼女を助け、そして彼女が会いたいと望む女性の元へ連れて行った」


「会いたい女性、ですか?」


「あぁ。君のお祖母さんマツノさんだよ」


 祖母の名を聞き、紗矢は瞳を大きくさせた。


「お、お祖母ちゃん、ですか?」


「マツノさんもまた峰岸家を出た女性であり、しかも、五家に頼ることなく一人で生きていた人だ。結綺はマツノさんのことを唯一無二の存在と言っていたよ」


 そう言って、和哉が顔を綻ばせた。紗矢はその表情を見て、心臓を掴まれた気持ちになった。


「マツノさんの助言を受け、一人で生きていこうとする結綺に、私は援助を惜しまなかった。ダメだと分かっていても、時間を見つけて結綺の元へと足を運んでしまった……彼女を愛してしまっていたんだ」


 和哉から結綺に対する愛情が伝わってきたのだ。

 もしかしたら今でもまだ、結綺さんを愛しているのかもしれない。そう考えれば、美春の珪介へ根底にある思いも、見えたような気がした。美春も気づいているのだ……今もなお和哉が結綺を思い続けていることを。


「彼女も私を受け入れてくれた……そう思っていたが、結局、私はまた振られてしまった。ある日突然、もう会いたくないと、顔を合わせてもらえなくなった」


 和哉はベッドから立ち上がり、ランスの前で腰を下ろすと、愛おしむように、その頭を撫でた。

 じっと身動きせず、強張った様子のランスを見て、紗矢は何とも言えない気持ちになる。ランスと珪介が重なって見えてしまうからだ。


「三年後、私はマツノさんに呼ばれ、結綺と会った……驚いたよ。彼女の傍らに鳥獣の力を宿した男の子がいたんだ」


「それが珪介君ですか?」


「あぁ。彼女は、私との子供を産んでくれていた」


 和哉がランスから手を離せば、ランスはぶるりと身を震わせる。


「結綺は……私の立場を考え、珪介の存在を打ち明けることをせず、親子二人で暮らしていこうと考えていた。けれど珪介は、私の血を引いているだけあって、日増しに力が強くなっていく。このままではいつか息子の存在を峰岸に気付かれてしまう。気付かれれば、命はないだろう」


 ふうっと息をつくと、和哉はライラにも歩み寄り、その頭を撫でた。


「結綺は不安になり、迷いに迷った末、私に頭を下げることを選んだ……珪介に危険が迫った時に手を貸してほしいと」


 ライラは羽にうずめていた頭をもちあげ、気持ちよさそうに目を細めた。


「もちろん私に断る理由などない。その場で、珪介も結綺もこの手で守ると誓った……なのに、私が守れたのは珪介だけだった」


 苦悩に満ちた言葉が吐き出され、室内が静寂に包まれた。和哉は悲しみをその表情に滲ませながら、ライラを撫で続けている。

 紗矢は何も言えなかった。抜け落ちていた卓人の言葉が蘇ってきていたからだ。卓人は珪介の母のことを「僕の父親と結婚を誓った仲だった」と言っていた。本当にそうだとするならば、珪介の母は峰岸の当主の元から逃げ出し、越河の当主と恋に落ちたということになる。二人の逢瀬、そして産まれてきた珪介の存在を知り、峰岸は怒り狂ったことだろう。


「ふたりで……珪介君を守ったんですね」


 紗矢がぽつりと言葉を発すれば、和哉がはっと目を見開いた。辿ってしまった運命は悲しいものだけれど、結綺の思いは消えてない。珪介が生きているのだから。

 紗矢が笑いかけると、和哉も笑みを浮かべ、こくりと頷いた。


「マツノさんには今でも感謝している。彼女の亡骸を峰岸から奪い取ってくれたから、きちんと弔うことが出来た」


 今度は紗矢が頷き返す番だった。

 卓人によって異形の巣の中へと放り込まれていたら、きっと結綺の骸を取り戻すことはできなかっただろう。


「私、お祖母ちゃんのこと知ってるようで、何も知らなかった」


 片月マツノという人は、知れば知るほど手の届かない存在になっていく。


(生きていて、欲しかった)


 癖のようにそう思い、紗矢は唇を噛んだ。

 あの夜、峰岸卓人は言った。紗矢をすんなり差し出していれば、もっと長生きできたのに、と。

 マツノの死の理由に、間違いなく、峰岸卓人は関わっている。脳裏に浮かぶのは、入学したての頃、人懐っこい笑顔で話しかけてきた卓人の顔。

 そして、亡くなる数日前にマツノと交わした言葉。


『紗矢、お聞きなさい。たぶん私が貴方を守れるのもここまでです』


 凛とした表情の向こう側で、マツノは死を覚悟していた。

 自分が五之木学園への進学を希望しなかったら、峰岸卓人と出会わなかったら、まだ祖母は生きていたかもしれない。


『これからの人生、例え自分の身に何が降りかかろうとも、立ち向かいなさい。決して過去を振り返らず、そして心が負けることも許しませんよ』


 厳しくも真っ直ぐな最後の言葉を思い出し、紗矢は胸元を抑えた。悲しみと悔しさと苛立ちが、体の中で荒れ狂っていく。


「紗矢さん、大丈夫か?」


 ぎゅっと目を瞑った紗矢に気付き、和哉が慌てて歩み寄ると同時に、勢いよく戸が開いた。


「紗矢!」


「姫さん、大丈夫か?」


 入ってきたのは忠実と、トレーを手に持つ珪介だった。

 表情を強張らせ真っ直ぐ向かってくる二人と、自分の背中に手を置いている和哉を見て、紗矢は慌てて胸元から手を離し、首を振る。


「ごめん! 痛くないから大丈夫……その……お祖母ちゃんのこと思い出して、ちょっと悲しくなっちゃっただけ、です」


 安堵したように肩の力を抜き、珪介はトレーをテーブルの上に置くと、ちらりと父に目を向けた。和哉もまた息子に目を向け、ほんの数秒、ふたりの視線が絡みあった。珪介が気まずく顔をそらしたのを見て、忠実は口の端を上げる。

 和哉も一つ息を吐き出すと、ポンと紗矢の肩を叩き、優しく笑いかけた。


「体調の優れない時に、こんな話を聞いてもらってすまなかったね。まずはゆっくり休んで体力を回復しなさい……そして元気になったら、三人でマツノさんと結綺の墓参りにでも行こう」


「はい!」


 紗矢が元気よく返事をすれば、和哉は満足した様子で部屋を出て行った。

 忠実と紗矢がその背中を見つめる横で、珪介はガタガタと音を立てながら、ベッドの脇に椅子を移動させる。


「浜見さんが、紗矢に」


 再びトレーを手にした珪介が椅子に座れば、彼の手元から、良い香りが漂ってきた。


「わぁ。お粥だ」


「食べられる?」


 食べられるかどうかを考えるよりも先に、お腹が鳴った。


「食べられそうだな」


 紗矢は珪介の質問にお腹の音で答えてしまったことが恥ずかしくて頬を赤らめたが、彼の取った行動を見て更に顔を熱くする。


「ほら」


 皿の中の粥をすくったレンゲを、珪介が紗矢の口元へと近づけていく。


「あ……あの……自分で食べられるから」


「良いから、ほら」


 顔を真っ赤にし、僅かに身を引く紗矢に、珪介は薄く笑みを浮かべる。


「かっ、からかわないでよ!」


「からかってないから、早く口開けて」


 問答無用とばかりに、珪介がレンゲを紗矢の唇に付きつけてくる。

 抵抗を諦め、そして恥ずかしさを堪え、紗矢が口を開こうとしたとき、珪介の腕を忠実がガツリと掴んだ。そのまま、パクリとレンゲを口に含んだ。


「……え」


 珪介はぴくりと口角を引きつらせ、紗矢は目を瞬かせ、忠実はゴクリと粥をのみ込む。


「イチャイチャすんなっ! 羨ましいだろっ!」


 忠実の喚き声を無視し、珪介はレンゲを恨めしそうに見た。


「レンゲ、新しいのに代えてきて」


「嫌だね。俺が姫さんを見てる間に、珪介が取りかえて来い」


「行くべきなのは、そっち。俺じゃない。早く代えてきて、粥が冷める」


 言い合いをしている珪介と忠実を交互に見て、紗矢はこっそり笑みを浮かべた。この何気ない一時が、とても愛おしく思えた。






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