第41話 過去語り、1
鳥の囀りが遠くから聞こえてきた気がした。
意識の奥でぼんやりとランスの姿を思い描きながら、ゆっくりと瞼を持ち上げると、赤い翼が視界の端を掠めた。
頭を動かし視界をずらせば、ランスがいた。爪をかちゃかちゃと鳴らし、部屋の隅の方へ行くと、身を丸めるようにし床に蹲る。
ランスがいる。
天井や部屋の様子に見覚えはなかったが、ランスがとてもリラックスしているように見えたため、紗矢は慌てることはなかった。
気だるさを感じながら寝返りを打ち――……目を見開いた。自分の横に珪介が寝ていたのだ。珪介もこちらへ体を向けているため、ちょうど向き合うような格好になってしまった。
一つのベッドで彼と一緒に寝ている。どうしてこんな状態になっているのかを考えようとし、息を詰めた。峰岸家でのことを思い出したからだ。
喰われたこと。峰岸卓人が憎くて、怒りで我を忘れたこと。バルコニーに逃げたこと。断片的にしか覚えていないが、最後はハッキリ覚えている。手すりの上から見降ろした先に、珪介がいた。こちらに向かって伸ばされた両手に向かって、紗矢は身を投げたのだ。
布団の中で手を伸ばし、紗矢は珪介に抱きついた。その胸に頬を寄せれば、トクトクと鼓動が聞こえてきた。心の波が凪いでいく。
「……紗……矢?」
掠れた声がすぐ傍から聞こえてきた。
「珪介君」
「っ!……紗矢!」
呼びかけに紗矢が答えると、珪介は勢いよく身を起こした。視線を揺らめかせながら、確かめるように紗矢の頬に触れる。
「いつから起きてた?」
「え……今、だよ」
じっと見降ろしてくる珪介を、紗矢も見上げていると、珪介の向こうからランスが覗きこんできた。自分に向けられた可愛らしい鳴き声に、紗矢が笑みを浮かべると、やっと珪介も安堵したように息を吐き出した。
「ねぇ、珪介君。ここはどこ?」
再び体を横たえた珪介にそう問いかければ、温かな手が紗矢の腰を掴み、そっと引き寄せられた。
「越河の家の中。三階の角部屋」
囁くように、紗矢の耳元で珪介が答えた。
「ちなみに三日前から、俺たちの部屋でもあるから」
くすぐったさに体の中で灯る熱を感じながら、紗矢は身を捩った。
「……わ、私と珪介君の部屋?」
「そ。俺たちがこれからずっと使う部屋」
珪介は意味ありげな笑みを浮かべると、そっと紗矢の額に口づけを落とした。
表情を固めたまま動かないでいる紗矢に苦笑したのち、珪介は伸びをしながらベッドを降りた。
「この部屋だと俺も気兼ねなく紗矢の看病できるし、バルコニーに出る戸口も大きく作られているから、ランスたちも自由に出たり入ったりできる」
テーブルの上にある水差しを持ち、コップに水を注ぐと、珪介はベッドに戻ってきた。
「喉、乾いてない?」
「有難う」
紗矢は身を起こし、差し出されたそれをコクコクと飲み干した。冷たさが体中に染み渡っていく。胸元に手を突き、ふうと息を吐き……紗矢はベッドに腰掛けている珪介を見た。
自分を見つめている彼の表情は、いつもの無表情だ。しかし見つめ返していると、不安そうな顔に見えてくる。
「珪介君……心配かけてごめんね」
珪介にこんな顔をさせている。
そう気が付けば、今更ながら、後先考えず行動してしまった自分がひどく情けなく思えてくる。
何も言わず、珪介は紗矢に向かって手を伸ばす。紗矢もそれ以上言葉を発することなく、珪介の胸に顔をうずめた。
それからしばらくし、忠実に紗矢が目覚めたと伝えてくると、珪介は部屋を出て行った。
紗矢はベッド上から室内を見回す。広さは三姉妹と共に使っていた部屋より幾分広く感じるが、ランスには窮屈なのだろう。ベッド脇に鎮座したまま、あまり動きまわらずにいる。
どのくらい寝ていたのだろう。先ほど珪介が、ここは三日前から俺たちの部屋だと言っていた。だとすれば、少なくともそれと同じくらい眠り続けているのだろう。
窓の外は明るく、まだ日が高い。昼くらいだと予想がついた。今日は休日なのだろうか。それとも平日なのか。珪介は学校を休んで自分を看病してくれているのか。考えを巡らせようとするが、頭が重く鈍い痛みがじわりと広がっていく。上手くいかない。
「――……っ!」
窓から部屋の床へと差し込んでくる眩い日差しをボンヤリと見つめていると、突然、ズキリと刻印が鋭く痛んだ。息を飲み、紗矢は刻印を両手で押さえる。
浅い呼吸を繰り返しながら、痛みが過ぎ去るのを待ったあと、紗矢は恐る恐る胸元にある刻印を確認する。
再びズキリと痛んだ後、紗矢の視線の先にある五芒星の色が変化する。刻印を染めていた金の色が、徐々に黒ずんでいく。金から、馴染み深い黒へと完全に塗り替わった瞬間、痛みが和らいでいく。それに合わせ、紗矢の肩の力も少しずつ抜けていく。
「紗矢さん、大丈夫かい? ベッドに横になりなさい」
そっと背中に温かな手が乗せられた。
顔を上げれば、いつの間にかベッド脇に越河家の先代であり、珪介の父親である和哉が立っていた。
「失礼するよ」
紗矢が体を横たえたのを確認してから、和哉はベッドに腰を掛けた。
「息子どもが、未熟ですまないね」
「いえ……私が……考えなしで……心配かけてすみませんでした……ごめんなさい」
自分を見つめる珪介と似通った目元が、悲しそうに揺らいだのが見え、紗矢は痛みと闘いながら、必死に言葉を紡いだ。
胸元がまた少し、チクリと痛んだ。刻印に、求慈の姫としてもっとしっかり自覚と責任を持ちなさいと、叱られているような気がした。
「キミを守るのが珪介の役目だ」
そこまで言うと、和哉は紗矢から顔をそらした。
「……いや。珪介だけでない。息子たち全員の役目だ」
震える声で囁くように言葉にし、和哉は再び紗矢へと視線を戻す。
「すまない。君の前でなら、口にしても良いかと思って」
どう言う意味かと紗矢が視線で問いかけると、和哉が自嘲気味に笑った。
「口を滑らせると、美春に珪介ばかり贔屓していると言われ膨れられてしまうからな」
「……贔屓ですか?」
「もちろん、息子は四人とも可愛い。がしかし、確かに私は、母親を早くに亡くしている珪介を、他の息子よりも気にかけてしまっている」
和哉の思いがけない告白が、紗矢に卓人との記憶を呼び起こしてしまった。
「あの……私……峰岸くんから、少しだけ聞きました」
黙っているべきかもしれない。そう思いながらも、口を閉ざしていることができなかった。
「……珪介君のお母さんのこと」
布団の中でぎゅっと拳を握りしめながら、紗矢も和哉に打ち明ける。
途端、狼狽したように和哉が紗矢から顔をそむけた。それを見て、紗矢は少し後悔した。踏み込みすぎてしまったと感じたからだ。
それ以上言葉を続けることはせず押し黙っていると、和哉が紗矢に視線を戻した。
「珪介の母……結綺(ゆき)と初めて出会ったのは、私が高校三年で、彼女が高校一年生の時だった。その時すでに、彼女は峰岸の守護下に置かれていた」
この話題と向き合う覚悟を決めたような和哉の様子に、紗矢は慌てて身を起こそうとする。寝たまま聞くような話ではない。
和哉が微かにほほ笑みながら手を伸ばしてきた。
「痛みは大丈夫かい?」
「はい」
腕を掴まれ、そのまま優しい力で引き起こされた。紗矢は上半身を起こすと、背筋を伸ばした。
和哉は短く息を吐き出してから、ゆっくりとした口調で続きを話し出す。
「この地で暮らしている女性は、突然、異形の姿が見えてしまうことがある。それは、姿は見えずとも鳥獣や異形と隣り合わせで暮らしているため、身のうちに眠っていた力が知らず知らずに触発されてしまうからだと言われている」
伏せ目がちな横顔を、紗矢はじっと見つめた。
「力が引き出された瞬間、その女性は異形にとって餌の対象と化してしまう。まだ五家が存在していなかった昔、多くの犠牲が出たと越河の古文書には書かれている」
その文面を思い出したのか、和哉は憂鬱そうに眉をしかめた。
「現れる力の殆どは一過性のものなのだが……時折、一過性ではなく、力を上質なものを変化させ、増幅させることのできる者が現れる。君や萩野姉妹のような女性が」
バサリと羽音を響かせて、ライラが室内に入ってきた。
和哉と紗矢に向かってクワッと小さく声を発すると、先ほどまでランスがいた部屋の隅の毛布の上に蹲った。その様子を眺め、和哉が微かに笑みを浮かべた。
「君たちのような良質の力を喰らうことで、鳥獣たちは強い力を保ち、新たな命をつなぐことができる……しかし、そのような器の女性はそうそう現れるものではない。だから鳥獣の長は我らの祖先に役割を与えた。強い力を分け与える代わりに、刻印で示した女性を異形から死守せよと」
またズキリと刻印が痛んだ。
なだめるように服の上から刻印をさすりつつ、紗矢は和哉の言葉を聞き逃すまいと、懸命に耳を傾け続けた。
「五家の初代当主たちは、その条件を受けた。この地に住む女性たちを異形から守りたかったからだ。それに、刻印持ちは五家の男たちにとっても大切な存在だ。その力を喰らわなくては、鳥獣の力を存分に発揮することが出来ない。発揮できなければ、私たちは異形との戦いに打ち勝つことが出来ず、この地は悲惨な状態へと戻ってしまう」
そこまで一気に言葉を並べ、和哉は深く息を吐き出した。そして息を吸い込み、また笑みを浮かべた。
「女性の力と五家の力にも相性がある。女性が守護下に入ったということは、惹かれ求め合った末の結果だ。他家に属する刻印持ちに手を出してはならないことも暗黙の了解となっている……それなのに私は、峰岸の刻印持ちである結綺に恋をしてしまった」
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