第40話 思いが混ざり合う時


「紗矢ちゃんっ!」


 体の痛みも忘れ、卓人は走りだす。紗矢の姿を探すべく手すりから身を乗り出し、すぐさま卓人は身を震わせる。

 バルコニーの下に、珪介がいた。その腕でしっかりと紗矢を抱きかかえ、殺気立った赤い瞳を卓人に向けている。

 珪介がぐっと歯噛みした瞬間、生温かな風が卓人の頬を掠め舞い上っていった。


「――……っ!」


 卓人はよろめきながら二歩後退し、尻餅をつく。視線を昇らせれば、真っ赤な鳥獣が怒りの咆哮を轟かせた。卓人はまた身震いする。


「卓人さん!」


 部屋の中から伊月の声がし、走り寄ってくる足音も聞こえてきた。


「……くそ。越河か」


 苦労しながらバルコニーへと出た伊月は、夜空を旋回する赤の鳥獣を見上げ舌打ちをした。そして卓人を見て、慌てて近づいてくる。


「大丈夫ですか!? 血が!!」


 その一言で、卓人はハッと我に還った。

 同時に、頬を抑える己の手からポタリポタリと血液が滴り落ちていることにも、気付かされる。


「ランス!」


 庭で力強い声が響き渡れば、赤き鳥獣は身を翻し、峰岸家の敷地の外へと一直線に飛び去っていく。庭にあった巨大な威圧感の塊も屋敷から遠ざかり、卓人の萎縮していた感情も戻ってくる。


「……くそっ!」


 見下していた珪介に、完全に気圧されていた。最後にそうも気付かされ、卓人は赤く染まった握り拳を床へと叩きつけた。



+ + +



 目に入る全てのものが憎かった。

 すべてを滅茶苦茶に壊してやりたい――……しかし、その怒りを沈めたのは紗矢だった。しがみつくように首に回っていた手が力なく落ちた瞬間、珪介に冷静さが戻ってくる。

 夕暮れ時に見た舞とは比べ物にならないくらいに紗矢の顔色は悪かった。呼吸も頼りなく、今にでも止まってしまいそうに思え、珪介は前に出かかっていた足を、後ろへ引いた。


 すぐに忠実の元へ連れて行かなくては。

 峰岸の屋敷を囲う林を走り抜けていると、頭上で鳥獣が甲高く鳴いた。天を仰ぎ見れば、ソラが珪介の真上でくるりと方向を転換する。そして珪介に顔を向け一鳴きすると、右方向へと進路を傾けていく。


 また一つ、後ろから鳴き声が発せられる。

 ランスは珪介と並走するように滑空したあと、木々の隙間を抜け夜空へ舞い上がっていった。紗矢を見降ろしながら再び声を上げたあと、ソラの軌道をたどるように進んでいく。不安や焦りが混ざりあったようなランスの声音に珪介は急き立てられた。


 歩道から右手に広がる林に中へとそれると、鳥獣たちに先導されながら道なき道をがむしゃらに突き進んでいく。林を抜け、道へ飛び出せば、ちょうど大通りから信号を曲がってきた見覚えのある黒いワゴンが、珪介の少し手前で停止した。


「珪介っ!」


 助手席から降りてきた修治が、素早く後部座席の扉を開けた。


「大丈夫か……っ!」


 珪介は無言のまま、車に乗り込んでいく。修治は珪介が抱えている紗矢に目を止め、息を詰めた。

 顔色を変えたのは運転席にいる忠実も一緒だった。運転席から珪介の方に向かって身を乗り出し、忠実は両手を伸ばす。脈を確認するべく紗矢の手を掴み上げ……そこに見えたあざに、ほんの一瞬動きを止めた。しかしすぐに気持ちを取り戻し、手首に指の腹を押し当てる。


「……修治! 早く乗れ!」


「お、おう!」


 忠実は小さく息を吐いた後、強い声音で修治に車内へ戻ることを要求する。修治が助手席へと飛び乗るやいなや、アクセルを踏み込んだ。


 誰も言葉を発しない車内で、珪介は抱えこむように紗矢を抱き締めた。

 あの時、紗矢を保健室に残さず、連れて行けば良かった。何度も繰り返した後悔の思いが、再び珪介の心を締め付けていく。


「……んっ」


 紗矢が弱々しく身動きした。腕の力を緩め、その顔を覗き込めば、閉じられていた瞼がゆっくりと開いていく。


「……珪、介……くん」


 か細い声音で名を呼び、紗矢が珪介の腕をきゅっと掴んだ。


「大丈夫。傍にいるから」


 珪介が必死に微笑み返せば、紗矢は安心したような笑みを浮かべ、瞼をゆっくり下げていく。無意識下で行われただろう彼女の行動を見て、珪介は瞳をきつく閉じ、彼女を支える手に再び力を込めた。以前のやり取りを思い出したのだ。


 五之木学園の校庭で鳥獣の長から紗矢が刻印を受けた夜、紗矢の家から越河家へと向かう最中、自分たちが交わしたやり取りだ。

 眠れと言うと、紗矢が拒んだ。少しだけ口を尖らせて、「起きたらいなくなっていた」と抗議した。そんな彼女に、珪介は言った。「もう絶対いなくなったりしない」と。

 傍にいて紗矢を守ると、今日のような思いはもうさせないと、珪介は心の中でそう誓ったのだ。


 それなのに、彼女は今、腕の中でぐったりとしている。

 お前はいったい何をやっているのだと自分で自分を罵倒したくなるのを必死に堪えていると、力の抜けた紗矢の手がまた落ちていった。その手を慌てて掴み上げ、珪介は互いの手をしっかりと繋ぎ合わせた。


 手首に残された痛々しい痣と、峰岸と獣の匂いを纏っていることからして、彼女が無理やり力を喰われているのは明白だった。そして喰われるだけでなく、彼女自身も強い力で抵抗をしている。峰岸家のまであと少しに迫ったところで、屋敷の方から爆発するような紗矢の力を感じたのだ。

 力を乱暴に喰われ、その上、先のように無理やり力を使えば、体への負担はさらに大きくなってしまう。力を失い、死に至った母親を思い出せば、珪介の心が凍り付いていく。けど、紗矢は母とは違う。求慈の姫である以上、彼女を守っているのは越河の力だけでない。


 鳥獣の力が、刻印が、彼女の命を守っている。

 彼女は死なない……死なせない。死なせてなるものか。


 弱々しい力しか残っていない熱い体を、珪介はぎゅっと抱き寄せた。



+ + +



「珪介は紗矢ちゃんをベッドに寝かせて。修治はこっち。運ぶの手伝って」


 家の中へと入ると、忠実からそう指示が飛んできた。

 珪介と修治は一つ頷き返し靴を脱ぎ捨てると、枝分かれをするように、それぞれの目的地へと素早く歩を進めていく。


 珪介が一気に三階まで駆け上ると、部屋の前に辿りつく前に扉が開いた。室内から顔を出したのは祐治だ。


「……紗矢さん」


 珪介が室内に入りやすいように戸を手で押さえながら、裕治は抱きかかえられている紗矢の顔を覗き込み、表情を強張らせた。階下の様子を伺った後、裕治は紗矢のベッドに向かっていく珪介を追う。


「珪介兄さん、忠実叔父さんは?」


「今くる」


 ベッドに紗矢を下ろすのを手伝ったあと、裕治は紗矢の首元に指を添えた。


「紗矢ちゃん!」


「うわっ!」


 しかし神妙な面持ちの祐治をパジャマ姿の舞がつき飛ばし、紗矢の両腕を掴んだ。


「紗矢ちゃん! 紗矢ちゃんっ!」


 名を繰り返し叫びながら、舞は紗矢の体を揺する。


「お姉ちゃんも、少し前に気が付いたばかりなんだから、寝てなくちゃダメだよ!」


 唯は舞を後ろから引っ張り、紗矢から引き離そうとする。がしかし、舞はその手を振り払い、紗矢を呼び続けた。

 大きなバックを持って忠実と共に部屋に入ってきた修治が、混乱状態の舞を見るやいなや、落ち着いた足取りで歩み寄り、ベッドの傍にバックを置いた。


「舞!……落ち着けって」


 大きな声から優しく穏やかな口調に変化させながら、修治は舞を後ろから抱き締めた。


「……修治」


「点滴するから、叫ぶなっつーの」


「……うん。ごめん」


 落ち着きを取り戻したように舞は小声で修治に返事をした。

 深呼吸をした後、舞は自分を抱きしめていた腕から出ると、紗矢の顔を覗き込むように、床に膝をついた。そして点滴の施されていない紗矢の手に、自分の手を重ね置く。


「熱い」


 紗矢の体温を感じ取り、ぽつりと呟いた後、舞は涙を堪えるように唇を引き結んだ。


「……おそらく、刻印のせいだろ」


 忠実が紗矢の胸元のボタンを一つ外し刻印の状態を確認すると、「うん。やっぱりそうだ」と独り言ちた。刻印は輝きを放っていた。


「早急の回復を、刻印が促しているのだろう。求慈の姫だからこその反応なのだろうが、体への負担は半端ないだろうな」


 舞や菊田志穂の力が弱まった時、刻印は消えかかっていた。しかし紗矢は違う。力の低迷など許されないかのように、刻印は光り輝いている。

 舞は重ねた手に力を込めた。


「私、保健室で眠ってたとき、夢の中で紗矢ちゃんに呼びかけられた気がしたの」


 氷枕を手に室内に入ってきた愛も、舞の言葉を聞きながら静かに紗矢の傍に歩み寄る。


「舞ちゃん頑張ってって、紗矢ちゃんの温かさが体の中に流れ込んでくるような……私の声も届くといいな…………紗矢ちゃん、頑張って!」


 珪介は愛から氷枕を受け取り、身を屈めた。そっと紗矢の頭を持ち上げ枕を交換し、そして顔にかかった髪の毛を取り払う。熱い頬に触れれば、後悔の言葉しか浮かんでこなかった。


「……何か俺に出来ることはありますか」


 自分に出来ることなどないだろう。そう分かっていながら、珪介は聞かずにいられなかった。


「傍にいてやれ」


 忠実の言葉を噛みしめながら、目が覚めるまで傍にいようと珪介は心の中で誓う。


「……あ、いや。俺がしばらく付きっきりで面倒を見よう! 体を拭いたり、ご飯食べさせたり、そういうの得意なんだ」


 満面の笑みでそう言ってのけた忠実に、一斉に剣呑な視線が突き刺さった。あははと乾いた笑い声が続けば、三姉妹がすかさず文句を言う。少しだけ空気が解けた気がして、珪介はふうと息を吐き出し、姿勢を正した。

 ランスの鳴き声が聞こえ、窓に目を向ければ、手すりの向こうを赤い躰が横切ったのが見えた。程なくしてまた、ランスが部屋の窓の前を通りすぎて行く。紗矢を心配しているのは部屋の中にいる面子だけではない。ランスもそして他の鳥獣たちもそうだろう。


「忠実さん、紗矢が落ち着いたら、お願いがあるんですけど――……」


 賑やかになりつつある部屋の中で、珪介は静かに話しを切り出したのだった。





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