第39話 拒絶、2

 猛獣のような瞳で琴美に見つめられ、嫌な汗が背中を伝い落ちていく。

 仄暗い室内には、紗矢を入れて四人。味方は一人もいない。逃げなくてはと頭では分かっている。しかし、卓人に強い力で体を抑えられているうえ、心の中は不安や恐怖でいっぱいになっていく。抗う気力が阻害されていく。

 にじり寄ってきた琴美に粗雑に手を掴み上げられ、紗矢は息をのんだ。手首の内側、付け根部分へと、琴美が唇を寄せていく。唇が触れ、次の瞬間、手首から心臓めがけて痛みが走った。

 紗矢の口からくぐもった悲鳴があがる。もがくように身をよじるが、体を掴む卓人の力は弱まらなかった。自分の中の力が、琴美に吸い取られていく。


 ここ最近、紗矢は主に越河の四羽相手に力を分け与えていた。

 ヒナが産まれれば紗矢がそちらに手一杯になることを見越して、珪介は自分よりも鳥獣たちを優先に考えていたからだ。

 珪介からは、時々、少しだけ唇から喰らわれるだけだった。もちろんそこに痛みなどない。ましてやこのように痛みとあざの残る方法である、肌から喰らわれることなどこれまで一度もなかったのだ。


 想像以上の痛みに、紗矢は歯を食いしばった。抗う方法や逃げるチャンスが見当たらない今、ひたすら耐えるしかなかった。

 このまますべてを吸い尽くされたら、彼女に求慈の姫の座を奪われることになってしまうのだろうか。痛みで麻痺していく意識の中、紗矢はそんな事を考えた。


 自分の浅はかさのせいで峰岸に捕まり、もし越河の上に峰岸が立つことになってしまえば、確実に珪介に迷惑がかかってしまう。立場も危うくなってしまうかもしれない。


(越河当主としての彼を支え続けるためにも、そして産まれてくる新たな鳥獣の長のためにも、私は求慈の姫でいなくてはいけない)


「私に――……」


 紗矢の刻印が熱を帯び、強い意志が恐怖と痛みを飲み込んでいく。


「私に触らないで!」


 次の瞬間、琴美は紗矢の手を顔から遠ざけ、苦しげな呻き声をあげた。よろめき後退しながら、彼女は顔を歪め、胸元の刻印のあたりを必死に掻き毟る。


「大丈夫か?」


 尋常じゃない様子に戸惑いながら伊月が琴美の両肩を支えれば、卓人は小さなため息をついた。


「大丈夫じゃないみたいだね。薬師の所に連れて行って。早く処置しないと使い物にならなくなりそうだから」


 膝から崩れ落ちた琴美を見て、卓人が抑揚のない声音でそう要求した。伊月は小さく頷き、琴美を肩に担ぎあげ部屋を出て行く。足音が遠ざかれば、部屋の中に響くのは紗矢の荒い呼吸だけになる。卓人に後ろから体を押さえつけられた体勢のまま、紗矢は必死に呼吸を整えた。


「辛そうだね」


 耳元で愉快げに囁かれ、紗矢はありったけの力を込めてその体を突き飛ばした。しかし、突き飛ばしたはずなのに、大きく後退した紗矢の方だった。

 琴美に喰われた上に、今の感情の高まり。それらが負担となり紗矢の体を蝕んでいた。それでも、弱くなりそうな気持ちを見抜かれないよう、紗矢は卓人をしっかりと見据えた。


「やっぱり、求慈の姫は紗矢ちゃんなんだね」


 卓人は考え事をするように顎に手を添えた。


「片月紗矢という器じゃなくちゃ力を保てないというなら、しょうがないか」


 浮かべていた薄ら笑いが消えると同時に、彼の体から闇色の力の光が立ち上りだした。


「まぁいいや。僕が直接手を下せば済むこと。君が力を失えば、長は次の姫を選ばざるを得なくなる」


 卓人が紗矢へと一歩進めば、窓を躰で押し開けるように、灰色の鳥獣がバルコニーから室内へと入ってきた。


「さて。次はどっちが選ばれるのか。琴美かな。萩野舞かな……でもまぁ、萩野舞を琴美が喰らってるから優劣はハッキリしてるし、普通に考えたら琴美だよね」


 徐々に解放されていく卓人の力に、肌がピリピリと痛みを増していく。卓人と鳥獣。二つの巨大な魔物を目の前にし、力の濃さに怖くて仕方がなくなっていく。

 しかし、気圧されてばかりはいられない。


『力で弾き飛ばせ』


 前に校舎裏で珪介に言われた言葉を思い出し、紗矢は拳を握りしめた。覚えたてのような攻撃で、目の前の強大な力に太刀打ちできる自信などないが、このまま何の抵抗もしないまま、力を奪われる訳にはいかない。


 張りつめた部屋の中へと一際強い風が吹き込んできた。バタバタとカーテンが揺れ、鳥獣がピクリと顔を上げ低い唸り声を上げる。窓を見つめている卓人の横顔が、険しさを帯びていく。


「ゆっくりしすぎちゃったかな」


 獰猛な色を宿した瞳を紗矢へ向け、卓人が距離を詰めてくる。

 自分を捕まえようと伸ばされた手、そして揺らめく灰色の光から逃れようと、紗矢は後ずさった。


「止めて!」


 なおも向かってくる彼の手元で、爆ぜるような音が鳴り響いた。卓人は手を引っ込め、僅かに動きを止めた。

 紗矢は卓人の動きに神経を尖らせながらも、バルコニーと伊月が琴美を抱えながら出て行った扉の位置を、目で確認する。


(逃げるなら……きっと扉)


 踵を返し走り出す。しかし、ドアノブを掴むその直前で腕を掴まれ、強引な力で引き寄せられた。


「どこに行くの? 紗矢ちゃんは今から、僕の力の糧になるんだよ」


 放り出され、紗矢の体がベッドの上で微かに跳ねた。すぐさま起きようとしたが、出来なかった。

 目の前には大きな影から伸びた足が、紗矢の右肩を押さえつけている。卓人の鳥獣が羽を広げ、太い鳴き声を発する。


 紗矢は恐怖で目を見開いた。嘴で胸元を、刻印のあたりを突っつかれ、紗矢の全身が一気に粟立った。


(違う……いや……)


 強引に力を持ち出すと、紗矢の中に痛みと峰岸の余韻を残していく。体の中に侵入してくる越河とは異質な力に、不快感が込み上げてくる。


(触らないで……喰らわないで……峰岸の力は嫌……)


 くらりと揺れる視界の中で、鳥獣が興奮気味に声を上げる。冷やりとした手が肌に触れ、紗矢はゾクリと身を震わせた。卓人に掴まれた手が、彼の口元へと引き上げられていく。唇が触れた個所から灰色の靄が現れ、紗矢の腕を包み込むように広がっていく。


「いやっ!……やめて! 離してっ!」


 峰岸卓人の力に飲み込まれていく錯覚に陥り、紗矢は悲鳴のような声を上げた。


「……越河の味がする」


 空いている手で鳥獣を押し退けると、卓人は紗矢の上に移動し、手からそっと口を離した。


「この気持ち悪さ……懐かしい」


 卓人が嘲笑った。


「越河珪介の母親も最後はこんな味がした」


 ドクリと、一際大きく鼓動が響いた。


「裏切ったあの女はね、僕たちが喰らい尽くしたんだ」


 思わず紗矢は、卓人と鳥獣の顔を交互に見た。


「そのまま異形の獣の巣に放り投げようと思ったのに、途中で君のお祖母さんに見つかっちゃって出来なかったんだよね」


 紗矢は言葉を失った。


「ほんと、マツノさんは厄介な人だったよね。僕の要求を呑んで紗矢ちゃんをすんなり差し出せば、もっと長生きできたのに」


 余計なことなど考えられないくらい、心が怒りで満ちていく。平然と言ってのける卓人が憎くて仕方がなくなっていく。


 心のバランスが崩れ――……力が弾けた。


 部屋の中が光で包まれた瞬間、紗矢の目の前にいた卓人と、ベッド脇にいた鳥獣が大きく吹き飛んだ。

 壁にはいくつもの亀裂が走り、窓ガラスが激しく砕け散った。


 紗矢は息も絶え絶えに身を起こす。体が重く、そして熱い。胸も苦しく、頭の奥はぼうっとする。


(彼から逃げなくちゃ……逃げ延びなくちゃ……私は元気に珪介の元へと戻らなくてはいけない……生きなくてはいけない……珪介君のためにも、お祖母ちゃんのためにも)


 その思いに突き動かされ、紗矢は懸命に歩きだした。扉の前に戸棚が倒れてしまっているため、紗矢はバルコニーを目指し進み出す。

 荒い呼吸を繰り返していると、床に伏していた卓人から微かな呻き声が上がった。


「……逃がさない」


 両腕を突き、上半身を起こし、卓人が紗矢を見た。

 紗矢は拒絶の言葉も吐き出すことは出来ないまま、肩で大きく上下させながら、バルコニーへと向かう。

 部屋を出ようとした瞬間、チリっと足の裏に痛みが走った。足元には割れたガラス。痛みで顔を歪めはしたけれど、立ち止まることはできない。


 湿っぽい夜の空気の中、懸命に前へと進み、紗矢はバルコニーの手すりに手を乗せた。

 下を覗き込み、その高さに眉根を寄せる。伝って降りれそうな箇所はないかと視線を走らせていると、ふいに遠くで鳴き声が聞こえた。

 紗矢はすがるように夜空を見渡した。ランスの声に似ている気がしたからだ。


 ガシャリと背後で音が鳴った。

 慌てて振り返れば、半壊になった戸に手を付く形で卓人が立っていた。瞳を怒りで曇らせながら、ジリジリと近づいてくる。


 紗矢はもう一度空を見上げ、そして焦りながら庭へと視線を落とし、手すりに乗せた手に力を込めた。見えた姿に涙が込み上げてくる。

 後ろで音が鳴った。卓人はすぐそこまで来ていることを感じ取ると、紗矢は手すりへとよじ登り、肩越しに後ろを見た。


「……私の力は……峰岸のものじゃない。私は貴方の糧になどならない」


 片足を引きずりながら手を伸ばした卓人へとその言葉を残し、紗矢は躊躇うことなく虚空へと足を踏み出した。








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