第38話 拒絶、1
靴のまま廊下へと駆けこみ、珪介は視線を彷徨わせた。
(……どこだ)
体の奥底から嫌な予感が焦りと共に込み上げてくる。
校舎内に入ったというのに、祠の前にいたときに感じた瀬谷の力を、うまく感じ取ることができなかったからだ。
珪介は歯噛みし、保健室に向かって走り出した。
力いっぱい戸を開ければ、修治、裕治、唯の三人が同時に珪介へと顔を向ける。
「紗矢は?」
修治は何事かと開きかけた口を閉じ、室内を見回した。
裕治と唯も同じように視線を巡らせたのち、問いかけるように互いの顔を見た。
「あ?……あれ?」
「トイレかな?」
明確な返答が得られなかったことに、珪介は舌打ちをし、苛立ちのままに戸を閉めた。
廊下の最奥に手洗い場がある。使用するならそこだろうと見当をつけ、珪介は再び走りだした。
しかし……下駄箱横を通りすぎ、階段下に差し掛かったところで、足が止まる。階段には誰もいない。何の気配もないのに、なぜか足が止まってしまったのだ。
ドクリと心臓が嫌な音を立てた。悪寒が走り、全身が総毛立ち、平常心が拭き飛びそうになる。
「紗矢!」
珪介はたまらず、声を振り絞るように、名を呼んだ。けれど、階上からも、トイレの方向からも、なんの音も返ってこなかった。
しんと静まり返った廊下にひとり佇み、珪介は拳を握りしめる。
「……瀬谷」
ギリっと歯を噛みしめると同時に、ゆらりと赤い光が体から立ち上る。彼の内側を表すように、瞳が朱に染まっていった。
+ + +
寒さに身を丸めながら、紗矢はゆっくりと目を開けた。
「……ここは……」
横たわっていたベッドに手をつき、紗矢は身を起こした。
薄暗い部屋は見覚えがなく、おまけに室内はとても寒かった。心細さと肌寒さで身を震わせていると、後ろからパタパタと布の翻る音が聞こえてきた。
振り返れば、ガラス戸が開いていた。バルコニーから吹きこんでくる冷たい風が、カーテンをはためかせている。
ここはどこなのか……改めてそう考え、紗矢はぞくりと身を震わせた。学校での出来事を思い出したからだ。
瀬谷篤彦と菊田志穂。その二人と相対していたとき、後ろから腕を掴まれた。振り向きざま、腹部に一撃をくらい、気を失ってしまったのだ。そして意識を手放す前に見えたのは、峰岸卓人だった。
(ここはどこ? 瀬谷? それとも……)
嫌な予感がつま先から体を駆け上っていく。焦る気持ちを必死に抑え込みながら、紗矢はベッドから降りようと動き出す。
(逃げよう)
上手くいくかは分からないが……ここが瀬谷の家だとしても、峰岸の家だとしても、ベッドの上でぼんやりしている場合ではない。
(きっと……珪介君が私を探してくれている)
外も暗く、既に夜になってしまっている。気絶してから、結構な時間が経っているはずだ。あの珪介が異変に気付かぬわけがない。
絨毯の上を静かに歩きながら胸元に触れ、紗矢はあっと小さな声を発する。下げていたはずの守護珠のネックレスがなかったのだ。
慌ててベッドへと視線を戻す。しかし、それらしき輝きは見当たらなかった。珪介との繋がりが切れてしまったような気持ちになり、紗矢は瞳に涙を浮かべながら、辺りを探し始めた。
「何を探しているの?」
ベッドの周りを探していると、突然、声をかけられた。知っている声音に、紗矢の視界が揺れる。
「もしかして、これ?」
恐々と顔を上げれば、バルコニーから部屋の中へと、峰岸卓人が入ってきた。にこりと笑みを浮かべ、卓人が己の手を上昇させる。顔の位置で止めたその手には、珪介お手製のネックレスがあった。
「……返して」
震える声で紗矢が要求すれば、卓人の笑みが深くなる。
「はい。どうぞ」
ガラス戸を背に、卓人が紗矢に向かって手を差し出してきた。
『ここまで取りにおいでよ』
彼の意志を読み取り、紗矢は顔を強張らせた。
(峰岸君に近づくのは恐いけど……ネックレスは取り返したい)
紗矢は心の中で珪介の顔を思い浮かべながら、一歩、また一歩と卓人に近づいていく。
彼の前で足を止め、自分のネックレスへと手を伸ばした瞬間、卓人がぽつりと呟いた。
「……どうして僕を選んでくれなかったの?」
紗矢はハッとし、ネックレスから卓人の顔へと視線を上げた。
「あの時も、今も……越河珪介に引けを取っていない自信が、こんなにもあるっていうのに」
寂しそうな瞳で自分をじっと見つめる卓人に、紗矢は言葉を失う。
「高校の入学式で紗矢ちゃんを見つけたその時から、僕はずっと心待ちにしていたんだ」
冷たい風が卓人と紗矢の髪を揺らす。羽音にも似た音を立てながらカーテンが翻る。微動だにせず、薄暗闇の中で見つめ合った後、卓人が口元に笑みを浮かべた。
「君の力が僕のものになる瞬間を」
狂気を含んだ微笑みに、紗矢はぞくりと身を震わせるも、すぐに気持ちを立て直し、ネックレスを奪い返すために彼へと一歩踏み込んだ。
しかし指先が届くその寸前で、卓人が守護珠を握りつぶした。
+ + +
一時間ほど前に雨は止んだが、寒さは厳しさを増していた。
そんな中、瀬谷家の門扉に背中を預け、ぼんやりと明かりの灯るその下で、瀬谷篤彦は腕を組み俯いていた。
黙って虫の鳴き声を聞いていると、突然それがピタリとやんだ。カサリと葉音がし、はっと顔を上げた瞬間、篤彦に衝撃が襲う。突然現れた珪介に身構える暇もなく、胸元を掴み上げられた。
「紗矢を返せ」
低く唸るような声に足が竦み、篤彦はすぐに答えられなかった。
「どこにいる」
力いっぱい扉へと体を押し付け、珪介が鋭利な視線を篤彦に向ける。珪介の怒気が辺りに満ちていくのを感じ、篤彦はごくりと唾をのんだ。
「……ここには、いない……連れていかれた」
「連れていかれた? 誰に!? ――……っ!」
疑うように篤彦を睨みつけていたが、珪介は弾かれたように、視線を上げた。
(今、俺の守護珠が壊された)
その瞬間、伝わってきた力に珪介は唇を噛みしめた。怒りが更に募っていく。
「……峰岸」
「あぁ。あっという間に連れて行かれてしまった」
掴まれていた胸倉が解放された時にはもう、珪介の姿は目の前から消えていた。
篤彦が緊張を解くように大きく息を吐き出せば、また虫の鳴き声がその場に戻ってきた。
+ + +
「やめて!」
パラパラと床に落ちていく守護珠に紗矢は声を上げる。
卓人は愉快そうに笑みを浮かべるだけで、ネックレスだったものをぽいと床に投げ捨てた。落とされたそれを拾い上げようと、紗矢は身を屈め手を伸ばす。しかしその手は、卓人に掴みとられてしまった。
「君は越河珪介を選んだんでしょ? だったらその力は、越河だけじゃなくて、峰岸にだって持つ権利がある。そう思わない?」
「……何を言ってるの」
そのまま紗矢に視線を合わせるように卓人も身を屈め、互いの顔を近づけると、にやりと笑った。
「だってあの男の母親は、もともとうちの……峰岸の刻印持ちだから」
珪介の母親に何か事情があることは知っている。
「あれ? 何も聞かされてないの?」
卓人の言葉に胸がちくりと痛んだ。確かに、珪介自身から母親のことを、ましてや峰岸家の刻印持ちだったという事実を聞かされたことはなかったのだ。
動揺を隠せずにいる紗矢を見て、卓人は口の端をゆるりと上げた。
「越河珪介は、本当は生まれるはずのない人間だったんだよ。だって、あいつの母親は僕の父と結婚を誓った仲だったんだから」
卓人が手に力を込めた。圧迫の痛みを与えられ、紗矢は顔を歪めた。
「峰岸の名の元に刻印を授かったくせに峰岸を裏切り逃げ出した母親と、越河家前当主の父親との間に生まれたアイツは、越河と峰岸、どちらの力も中途半端に継いでいるできそこないの――……」
「やめて!」
嫌悪感をぶつけるように声を荒げた瞬間、紗矢の力が卓人の手を弾いた。
「珪介くんは出来そこないじゃない。今では誰も、峰岸君だって珪介君には勝てない」
卓人は紗矢から突きつけられた事実に、小さな唸り声を上げた。
「それは君の力をアイツが得ているから……求慈の姫が君じゃなければ……」
大きく息を吸い込み、紗矢を見据えた。
「その力、ちょうだい」
ぎらりと、その目が妖しく輝き、紗矢は後ずさりをする。
バサバサと、本物の鳥の羽音が聞こえてきた。バルコニーに降り立ったのは卓人のあの灰色の鳥獣である。今は夜だからか、その体がより一層暗く見えた。
キイッと軋みを上げながら、背後で部屋の戸が開いた。伊月と琴美が静かに室内へと入ってくる。
以前見かけた時よりも、琴美の力は強大になっていた。それに気付けば、怒りが込み上げてくる。舞のことを思い出したからだ。
「苦戦してたみたいだけど、ちゃんと残さず喰らうことができたみたいだね……阿弥さんを」
「たいして力は得られなかったけど……でも最後に、私の役に立つことが出来て良かったんじゃないかしら?」
卓人と琴美の間で何気ない口ぶりで交わされた言葉に、紗矢は息を詰めた。
阿弥とは、峰岸家の外れに住んでいた、紗矢の前の代の求慈の姫である。彼女の顔は見たことが無い。しかし、紗矢がこれから五十年間、求慈の姫として成し遂げて行かねばならぬことを、しっかりとやり遂げた女性だということは分かる。そんな女性を喰らった挙句……琴美は「最後に」と口にした。
拳を握りしめた紗矢を、琴美はじろりと見て――……、
「私が、求慈の姫の座を奪ってあげる」
高圧的な笑みを浮かべた。
卓人が紗矢を後ろから抱え込む。恐怖で身を震わせた紗矢をあざ笑うかのように、バルコニーから鳥獣の鳴き声が響き渡った。
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