第37話 思惑

 図書館から保健室までの距離は、とてももどかしいものだった。


 珪介、裕治と共に廊下を駆け抜け、紗矢は勢いよく保健室の戸を開ける。ベッドを挟むように、修治と唯が立っていた。ふたりともそこに横たわっている舞を心配そうに見つめている。


「舞ちゃん!」


 紗矢は足をもつれさせながら、ベッドへと走り寄った。舞は眠っていた。顔色はとても悪く、全く覇気を感じられなかった。


「打撲……だけなのか?」


 紗矢の隣で同じように舞の様子を見つめながら、珪介が疑問を口にする。

 彼の言葉に、ぞくりと紗矢の身が震えた。不安を募らせながら、唯の傍で歩みを止めた裕治へと顔を向ける。

 図書館を出る前に裕治から聞いたのは、舞が階段から落ちて足を打撲したこと。そして気を失い、今、保健室で休んでいるということだけだ。

 保健室に向かって無言で走り続けている間も心が不安でいっぱいだったが、顔を見てさらに不安が増していく。珪介の言う通り、気を失っているということは、打ったのは足だけではないかもしれないのだ。頭を打ってしまっているかもしれない。


「頭は打ってないと思う」


 答えたのは修治だった。


「峰岸の気配を感じて慌てて部室から出たら、階段の下に座り込んでいる舞がいた。その隣に峰岸んトコの竹内琴美が立ってて……攻撃をくらったみたいだ」


 震える声音でそう言い、修治は悔しそうに唇をかんだ。


「……俺が、もう少し気を張ってれば……もう少し早く気が付いていたら」


 修治の言葉が途切れれば、室内が静かになり、時計の音がやけにはっきり響き渡った。

 紗矢は修治の隣に進み、舞の顔を覗き込んだ。置かれている丸椅子に腰かけて、力の入っていない舞の手を両手でそっと掴み取った。

 竹内琴美から、攻撃をくらった。修治の言葉の意味することを、紗矢は黙って考えていた。以前、紗矢は舞から「私たちは狙われやすいから気をつけた方が良い」と助言を受けた。攻撃と言えども、舞と琴美が五家の男性たちのように、身のうちの力を纏わせた刀を振り回し合ったわけではないだろう。

 眠る舞から感じられる刻印の力は、とても頼りないものだった。それはまるで、力を失いかけている菊田のようである。竹内琴美から、舞は力を喰われてしまったということなのだろうか。


 紗矢は掴んだ手に力を込め、ぎゅっと目を閉じた。意識を舞に集中すれば、その体の奥底で、小さくもしっかりとした力の揺らめきが感じられた。生命を、そして越河の強さを感じられる、揺らめきだ。

 しかし、他方に嫌な余韻も残っている。峰岸の力の余韻だ。ぞくりと背筋が寒くなる。その余韻が、まるで病原体のように思えた。舞は今、体の中で峰岸の力と闘っているのかもしれない。


(越河の力で、舞ちゃんを満たしたい)


 自分の中の力を舞に分け与えれば、回復の手助けになるような気がした。


(早く元気になって)


 そう心の中で強く願えば――……胸元の刻印がチクリと痛み、熱を発した。

 紗矢はハッと瞳を開いた。もう一つ、彼女の中で力の揺らめきを感じたのだ。


(瀬谷の力?)


 真っ先に菊田志穂の顔が思い浮かび、紗矢は室内を見回した。放課後、これまでずっと部活中は修治の傍から離れなかった彼女の姿は、どこにもなかった。

 数時間前、廊下での志穂の態度を思い出す。


『やっぱり、私レベルだと、求慈の姫に触れることもままならないか』


 あの時彼女は、紗矢に触れようと手を伸ばしたのだ。


(なんのために)


 理由を探そうとすれば、心音が重々しく響き出す。


(もしかして竹内さんだけじゃなく……菊田さんも舞ちゃんに……攻撃したの?)


 嫌な予感が紗矢の体にまとわりついてくる。波立ち始めた感情を収めるべく、紗矢は再び舞の手を力いっぱい包み込み、瞳を閉じた。


 再び保健室が静寂に包まれ数刻後、カラリと戸が開いた。紗矢は閉じていた目を開き、握りしめていた手を離す。入ってきたのは蒼一と愛だった。祐治が珪介を呼びにくる最中、連絡を入れたのだ。

 ふたりは表情を強張らせながら、素早く舞の元へと歩み寄り……ほっと息をついた。


「良かった。そんなに顔色も悪くないし、すぐに回復しそうね」


 愛が淡々とそう言った。焦りも感じられない、いつもの口調である。驚き舞へと目を向ければ、確かに、先ほどよりも顔色が戻ってきていた。紗矢の顔にも笑みが戻っていく。


「あぁ。大丈夫そうだ」


 珪介が小さく頷けば、紗矢の隣で、安堵のため息が盛大に吐き出された。修治は力が抜けてしまったかのように、その場にしゃがみ込んでいる。


「忠実叔父さんに、家に戻り次第こちらに車で向かってもらえるように言伝を頼んである。それを待つ間……」


 蒼一が珪介を見た。その視線を受け止め、珪介は首を縦に振る。


「祠のあたりがやけに賑やかになってきた。帰る前に結界を張り直しておくべきだろうな」


 行動に移すべくすぐさま歩き出した二人を見て、修治も立ち上がる。しかし珪介はゆるりと振り返り、ベッドを指差した。


「お前はここにいろ」


「えっ」


 修治は一瞬不満顔になったが、舞をちらりと見降ろし「あぁ」と了承する。


「代わりに私が手伝うわ……舞のこと、よろしくね」


 愛は薄く笑みを浮かべて、珪介たちの後を追う。三人を見送った後、唯は「よし」と呟き、舞に手を伸ばした。


「二人とも、ちょっと違うとこ見てて下さい」


 唯が裕治と修治を順番に見れば、男二人はすぐにその言葉の意味を察し、天井や窓の外へと顔を向ける。

 舞のブラウスのボタンを二つほど外した所で、唯は「良かった」と囁き、そしてボタンを閉じていく様子を見守っていた紗矢に微笑みかけた。


「お姉ちゃんも、菊田さんみたいに刻印が薄くなってたんです。でも顔色と同じで刻印の色艶も戻ってきてるから、きっとすぐ目が覚めると思います」


 天井を睨みつけるように見つめていた修治からも笑みがこぼれた。


「ホント良かった。このまま刻印が消えちまったらどうしようかって、俺ずっと……」


 その先の言葉は彼から出てこなかった。心の中が安堵と喜びでごちゃ混ぜになってしまっているのだろう。涙を堪えるように、修治は唇を引き結び、ずっと上を見つめている。


「修治君。ここに座って」


「あ?……なんでだよ」


「良いからいいから」


 紗矢は椅子から立ち上がり、強引に修治を座らせると、今まで自分がしていたように、舞の手を修治に掴ませる。「えっ」と固まった修治をその場に残し、紗矢は窓に近づき外を眺めた。


 日暮れにはまだ少し早い。しかし空は、雨でも降るのか、薄暗い雲が広がっている。見える範囲にランスの姿もない。主と一緒に校舎裏へと行ってしまったのだろうか。

 そんなことを考えながら視線を落とせば、とある人物の姿が目についた。菊田志穂だ。

 途端、苛立たしさが込み上げてきた。先ほど舞の中に、彼女のだと思われる瀬谷の力を感じ取った。確信は持てないが、彼女が舞の今の状況に加担しているように思えてならないのだ。

 しかし、志穂の表情に気が付き、紗矢は眉根を寄せた。彼女は苦しそうな面持ちで、そして胸元を抑えながら昇降口へと向かっていく。その姿に、加担したわけではなく、舞と共に竹内琴美から攻撃を受けたのかもしれないでという考えが頭に浮かんだ。何らかの理由で舞からはぐれてしまい、今、越河の誰かに助けを求めるべく、必死に自分たちを探しているのかもしれない。


 紗矢は扉へと移動しゆっくり開けると、昇降口の方を伺った。程なくして、志穂が廊下に姿を現した。

 辛そうな足取りで進み、階段へと続く角を曲がろうとした瞬間、志穂は壁へと手を付いた。今にでも崩れ落ちそうだったその身をなんとか立て直し、彼女は再び歩き出す。


 肩越しに室内を振り返れば、和やかな空気の中で、三人が笑っている。唯も志穂も嫌がるかもしれないが、辛いならば保健室に連れて来て、舞と共に越河へ連れて帰った方が良い。弱った彼女を放置するわけにはいかない。


 紗矢は小さく頷いて、そっと廊下に出た。

 足早に廊下を進み、志穂が曲がった場所、階段へと近づけば、苦しそうな息遣いが聞こえてきた。

 慌てて階段下へ走り込むと、丁度、志穂が階段を上り終え、踊り場に到着したところだった。

 菊田さん――……と、呼びかける前に、志穂が声を発した。


「返り討ちに遭っちゃった」


 彼女が上の階に向けてそう言えば、キュッキュッと上履きを鳴らしながら、誰かが階段を降りてくる音が聞こえてきた。


「志穂、大丈夫?」


 降りてきた男性がそっと手を差し伸べれば、志穂は躊躇うことなく飛び込んでいく。


「大丈夫じゃ無いか。つけられていることも、分からないくらいだから」


 瀬谷篤彦が眼鏡を指先で押し上げ、紗矢を見降ろす。菊田志穂も勢いよく階下を見た。驚きの眼差しで紗矢を見つめた後、ため息と共に力を抜き、諦めたように篤彦に体を預けた。


「まあ、いいわ。萩野舞を喰らい切る前に越河修治に気づかれたから、そのうちあの子が回復し目覚めれば、私の悪行もばれるもん。どちらにしてももう越河には戻れないわ」


 志穂は篤彦の背中に手を回しぎゅっとしがみつくと、紗矢に向かってニコリと笑う。


「それに私も、そろそろ愛する篤彦の元へ戻りたかったし……でもまぁ、五家トップの男、越河珪介は魅力的だったけど」


「志穂」


 篤彦が窘めるように腕の中を見降ろせば、彼女は悪戯っぽく瀬谷の次期当主を見上げた。


「……菊田さん」


 紗矢は拳を握りしめた。


「舞ちゃんになんてことしてくれたの」


 震える声音で問いかければ、篤彦がフフッと笑う。


「君が越河を選んだ時点で、瀬谷はトップには立てない。だからせめて、二番手に瀬谷を位置付けたいと思いまして」


 篤彦と志穂の後ろにある踊り場の窓を、雨がポツポツと打ち始めた。

 不敵な笑みをそのままに顎をそらした篤彦の眼鏡が、蛍光灯の明かりを反射する。


「峰岸よりも上に立つためには、俺が峰岸卓人に勝つよりも、竹内琴美を潰す方が手っ取り早いんですよ。それを叶えるために、萩野舞の力が欲しかった」


 衰弱した様子でベッドに眠っていた舞や、今まで過ごしてきた彼女との思い出が、紗矢の脳裏をかすめていく。

 怒りが体の奥底から込み上げれば、胸元に下げているネックレスの石たちが、呼応するように熱を帯び――……志穂の制服や、篤彦の頬に亀裂が走った。

 踊り場に立つ二人も、紗矢に対し攻撃態勢へ移行するかのように、その表情に厳しさを纏っていく。

 しかし突然、篤彦は大きく目を見開き、怯えたように右足を後退させた。


「あーぁ」


 篤彦が呟くと共に、紗矢の腕が後ろから掴まれた。瞬時に紗矢は身を強張らせた。振り返ると同時に、腹部に鈍い痛みを与えられ、そのまま廊下に崩れ落ちる。


 消えていく視界の中で、峰岸卓人が笑ったのが見えた。



+ + +



 珪介は弾かれたように、校舎へと目を向ける。


「……雨が降ってきたな」


 祠の前で守護珠に力を込めている蒼一も顔を上げ、そう呟いた。しかし珪介はそれには答えず、探るように校舎をじっと見つめた。

 今、紗矢の気持ちの高ぶりが、彼女の身に着けている守護珠から伝わってきた気がしたのだ。

 けれどそれは、ほんの一瞬で消えてしまった。彼女の近くには修治と祐治がいる。何かあれば、二人の力を強く感じ取れるはずだ。しかし、それもない。


 珪介は目を閉じた。


(これは……瀬谷篤彦?)


「兄さん、俺、ちょっと校舎に戻ります」


 僅かに嗅ぎ取った力の断片に嫌な予感を覚えながら、珪介は走りだした。






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