四章
第36話 悪戯に上がる熱
教室から出て行くクラスメイトに混ざって、紗矢は廊下へと出た。
ばいばい、また明日、そんな言葉が飛び交う中、一人窓へ歩み寄り、澄み切った空を見上げる。ランスとソラが、地上を警戒する様子で目の前を横切っていくのを見て、紗矢は小さくため息をついた。
夏が終わり、季節は秋になった。
珪介が越河の当主を引き継いだあの夏の夜から、鳥獣の長は紗矢の目の前にその姿をぴたりと見せなくなった。
越河家の裏手にある塔の天辺へと、長たちは産卵をすべく昇っていってしまった。あの塔は入ることも登ることもできないため、今現在どのような状況であるかを確認するすべはない。
けれど、光り輝く鳥獣は卵を産み落とし、大切に温めている。空高い場所で、鳥獣たちは新たな命を芽吹かせることに全力を注いでいる。紗矢はなんとなく、心の中でそう思っていた。
もう一歩窓に近づき、校庭へと視線を落とせば、黒い塊がすばやく横切っていった。校庭脇の木陰には、自然が生み出したものではない影が存在している。
異形を抑圧していた鳥獣の長という存在がいない今、獣たちは目覚めたかのように力を増し、前面へと出てくるようになってしまっていた。
異形の住処となっている学校裏の祠の結界が破られそうになることも、しばしばだ。だから、珪介たちは昼夜問わず、張り詰めた日々が続いている。
紗矢は振り返り、教室の中にいる珪介を見て、笑みを浮かべた。
祠や周辺の様子を見まわっている蒼一から連絡が入るとすぐに、珪介はその姿を消す。授業が終わると同時に教室から出て行ったり、授業途中だと体調不良を理由に出て行ってしまうのだ。ゆったりとした様子で帰り支度をしている彼の姿を見るのは久しぶりである。
(今日は修治君たちの部活が終わるまで、珪介君と図書館でゆっくりお話出来るかな)
甘い期待に胸を膨らませつつ、紗矢は廊下へと視線を戻し、ハッとする。廊下から階段へと続く曲がり角から、こちらを伺っている女の子に気が付いたからだ。
「菊田さん」
呼びかけるように彼女の名前を口にすれば、菊田志穂は廊下の様子を確認しながら紗矢へと近づいてきた。
「二年生、みんな大人っぽくて、なんだか圧倒されてしまいます」
一年の菊田は、二年のクラスが並ぶ三階廊下に居心地の悪さを感じているらしい。ため息交じりにそう嘆いた。
「菊田さんもじゅうぶん大人っぽいから違和感ないよ。ちょっと待ってね、もうすぐみんな揃うと思うから」
紗矢は菊田を探るようにじっと見つめた。
(また少し、力が回復してるような気がする)
すぐに消えると思っていた菊田の刻印は、なかなか消えずにいた。刻印も濃くなったり薄くなったりと、不安定なままである。
これからどのように対処すべきなのかと、珪介や蒼一が話しているのを聞いたこともある。彼女の存在を持て余してはいるけれど、しかし今は異形をのさばらせないことが第一課題らしく、彼らはその答えを出すのを後回しにしている。
光の鳥獣が喰らいに来なくなったため、紗矢は体調を崩すこともなくなった。その分しっかりと四羽平等に力を与えることも出来ている。最近は、体の中で何かが漲っているように思えるほどではある。
しかし、菊田の不安定さを見ていると、自分を見ているような気持ちになり不安が込み上げてくる。
鳥獣の長が新しい命をひきつれてあの塔から降りてきたら、どうなるのだろうか。
異形たちは今のようにのさばり続けることはできなくなり、その分、珪介たちの負担も軽減するだろう。しかし自分は、ひな鳥の餌となった瞬間から、また不安定な毎日を送ることになるのかもしれないのだ。上手く役目を果たすことができるのだろうか。そう考えてしまうと、紗矢の中の憂鬱さが嵩を増した。
まだ菊田が、萎縮している様子で廊下の先を見つめていることに気が付いて、紗矢は自分を落ち着かせるように、小さく息を吐いた。
(役目が果たせるかどうかなんて、その時が来てみないと分からないじゃない……それより)
やっぱり長には、早く塔から降りて来てもらうべきだ。瀬谷の力が菊田の中で揺らめき続けていることが、今後火種になりそうな気もしてならないのだ。
なかなか消えない刻印に、唯と愛は菊田に対する警戒を露わにし始めていた。紗矢はそこまで警戒をしていないし、舞も親密に接することはないものの、彼女を邪険にすることはない。唯とは特に仲が悪い。だからこうして、二年のクラスまでやってくるのだ。
菊田にとっても、越河家は異形に襲われる心配のない安全な場所ではあるものの、居心地の良い場所ではないだろう。
それもこれも長が復活すれば、改善されるのだ。珪介たちの手が空けば、菊田に対する行動も起こしてくれるはずなのだから。
ふわりと、空気の揺らぎを感じた気がして、紗矢は菊田へと視線を戻した。彼女と目が合い、喉元に何かが詰まったような気がした。感情の読めない瞳で、菊田が紗矢をじっと見つめている。そしてゆっくりと手を上昇させ、紗矢の腕を掴もうとした。
(止めて!)
触れて欲しくない――……そう強く思うと同時に、ゾワリと鳥肌が立った。続けて、廊下にパチンと手を叩くような音が響く。菊田は素早く手を引っ込めた。紗矢が直接菊田の手を叩いたわけではない、拒絶の心が紗矢の力を引き出し、菊田の手を払ったのだ。
ドクドクドクと体の中で心臓が重く鳴り響いている。
(今私に、何かしようとした?)
何をと問われれば、上手く答えを出すことはできないが、紗矢の本能がそう感じ取っていた。
瞳を眇め菊田を見つめ返した瞬間、彼女から小さな声が発せられた。
「……痛っ」
「あ、ごっ、ごめん」
俯き唇を噛みしめたことに気が付いて、紗矢はハッと我に還った。
無意識ではあったが、痛みを与えてしまったことに、慌てて謝罪の言葉を述べると、視線をとどめていた菊田の口元が弧を描いた。
「やっぱり、私レベルだと、求慈の姫に触れることもままならないか」
その言葉の響きと、好戦的な瞳を見て、またドクリと紗矢の鼓動が嫌なリズムを刻んだ。
菊田と見つめ合いながら、その場に立ち尽くしていると、後ろでガタリと戸が揺れる。
「おい」
見れば、扉に右手を添えたまま、珪介がじっと紗矢と菊田を見つめていた。
「何してる」
口元に笑みを湛えもせず、穏やかさの欠片も感じない声音に、菊田は戦くように後ずさりをする。
「……別に何も……あっ。修治君たちのクラス、終わったみたいですよ」
少し先の教室の戸が勢いよく開かれ、そこから生徒たちが出てくるのを見て、菊田はいつもの明るい笑みを浮かべた。そのまま修治のクラスに向かって走っていく。
心の中の燻りを感じながら紗矢が珪介を見上げれば、ちょうど珪介も紗矢を見降ろし、視線が重なった。珪介は小さくため息を吐き、紗矢の隣に並ぶように窓へ歩み寄った。
窓の外の様子を確認するように見降ろす珪介の横顔には、疲れが見て取れた。
「珪介君、今日はこれからどうするの? 蒼一さんと合流?」
「兄さんは分からないけど、五時半ごろに、祠を修治と見回る予定……さ、帰るか」
珪介の今の「帰るか」は「紗矢を家に送り、自分はまた学園に戻る」と言う意味でもある。くるりと踵を返し歩き出した珪介の腕を、紗矢は慌てて掴んだ。
「修治君が部活を終える頃にまた学校に来るなら……それまで一緒に、図書館で時間つぶさない?」
珪介が振り返り、再び視線が重なった。しかし互いの距離は、先ほどよりもぐっと縮まっている。
頬が熱くなっていくのを気付かぬふりをし、紗矢は珪介をじっと見つめる。彼の返事を待った。
「紗矢が良いなら、それでも良いけど」
静かな声音と共に、小さな頷きも返ってきた。嬉しさが込み上げてくる。
「やった!」
素直にそう呟けば、珪介が苦笑した。
「行くか」
そっと手と手が繋がれる。ゆっくり歩き出した珪介に続くように、紗矢も幸福感と共に一歩を踏み出したのだった。
+ + +
「図書館、久しぶり」
珪介の声に反応して紗矢は視線を上げる。手にした二冊の本を机の上に置き、珪介が紗矢の隣りの席に腰掛けた。
「良かったね」
戻ってきた珪介に笑みを浮かべてから、紗矢は顔を前に戻し、視線を手元に落とした。
明日、数学の先生こだわりの毎週恒例のミニテストがあるのだ。
図書館三階の自習室に着くとすぐに、珪介は事前に渡されているそのプリント四枚を鞄の中から引っ張り出した。
紗矢も彼に習い、その一枚目に取りかかったのだが、彼はあっという間にそれらを片付け、本を求めて部屋を出て行ってしまった。
本来なら自分も一緒に、本を探しに行きたかったのだが、頭の出来が違うのだから仕方がない。
「二枚目、終わった!」
半分終わったと両こぶしを握りしめ、自分を鼓舞した紗矢へと、珪介の辛辣な一言が突き刺さった。
「……まだ二枚目?」
紗矢が横に座る珪介をジロリと見れば、珪介も本から視線を上げ紗矢に呆れたような瞳線を向ける。
「もう三枚目!」
ちょっとだけ声を荒げ、紗矢は慌てて周囲を見回した。幸いにも自習室には今、自分たちの姿しかなかった。紗矢はほっと息を吐き、三枚目のプリントを机に広げた。
のんびりやろう。そう思いながら、問題と向き合った。数字をかき込んでいた手を止め、考えていると、大きな左手がそっと机に乗せられた。
「え?」
後ろを振り返り……すぐに、紗矢は顔を前に戻す。いつの間にか後ろに珪介が立っていたのだ。
身を屈め覆いかぶさるような格好で、珪介が紗矢の肩越しからプリントを覗き込んでいる。すぐ近くに珪介の顔があることに、紗矢の鼓動が早くなっていく。
「これは」
耳元で発せられる低い声音に、体が硬直する。
そっと背中に彼の胸元が押し付けられ、紗矢の肩がびくりと揺れる。同時に、ペンを持つ紗矢の右手を包み込むように、大きな手が添えられた。
珪介が軽く力を込めて、紗矢の右手を動かしていく。淡々とした説明の言葉と共に、問題が解かれていく。
頬だけでなく、体全体が熱くなっていく。こんな状態では、彼の解説が頭に入るはずがない。
「そう言えば、聞いた?」
「……な、何を?」
突然問いかけれ、紗矢は視線を手元にとどめたまま、ぎこちなく問い返した。
「お披露目、今月の末に行うことになったらしい」
「お披露目?」
「あぁ。越河家新当主の俺と、求慈の姫のお前の」
俺とお前。セットで並べられ、ドクリと鼓動が跳ねた。さらに頬の熱が上がる。
「どうせならキスの一つでも披露しようか?」
「えっ!?」
思わず珪介へと顔を向ければ、唇に柔らかいものが押し付けられた。
温かな余韻を残し離れていった唇に視線を止めれば、ふっと面白がるように、珪介が笑みを浮かべた。
「顔真っ赤」
珪介の体を両手で押そうとするも、紗矢の力では距離を空けることもままならい。
「だ、だって、それは珪介君が!……あぁ、もう! からかわないでよ!」
「からかってない。俺たち、遅かれ早かれ、みんなの見てる前で誓いのキスするんだし」
紗矢が目を瞬かせれば、珪介がため息をついた。
「なんで今更、分かってない顔するの?」
珪介は紗矢の手首を掴み取り、そっと口づけを落とした。
「だったら今、しっかり理解して。紗矢はいずれ、当主の俺と結婚するって」
もちろん分かっていなかった訳ではない。蒼一ではなく珪介が当主になったのだから、縁を結ぶ相手も珪介ということになる。
頭では理解していたはずなのに、面と向かって本人からハッキリ告げられると、恥ずかしさでこの場から逃げ出したなってしまう。
そっと目と目を合わせれば、珪介の瞳に無邪気さが宿った。
「で、俺の子供を産まなくちゃいけないんだってことも」
固まった紗矢の耳元に、珪介はゆっくりと口を近づけた。
「俺の子、ね」
からかい交じりに強調され、紗矢はくらりと眩暈を感じた。
珪介は紗矢の様子に苦笑していたが――突然体を離し、自習室の扉へと顔を向けた。バタバタという足音が聞こえたと思えば、勢いよく扉が開かれる。現れたのは裕治だった。
室内を見回したのち、珪介に気づいた裕治は、まっすぐ小走りに近づいてきた。
「兄さん!」
「どうした?」
「大変です。舞さんが」
紗矢はハッとし顔を上げる。
「階段から落ちて、怪我を」
顔にこもっていた熱が、一気に冷めていった。
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