第35話 継承
珪介と共に越河家へと戻ると、祭りの余韻も冷めやらぬまま、紗矢は自室に直行した。
「有難う。嬉しいわ」
要望通りに買ってきたリンゴ飴を、愛に袋ごと手渡せば、彼女は微笑を浮かべ大事そうに袋を両手で抱えた。
紗矢は改めるように部屋の中を見回し、机で勉強中の舞の背中で視線をとめる。不穏な空気を感じ、思わず紗矢は眉をひそめた。
「……菊田さんは?」
ポツリと愛に質問を投げかけたが、愛が答えるよりも先に、舞が勢いよく振り返った。
「二階の空き部屋!」
「空き部屋?……そっか。この部屋にはベッド四つしかないし」
「例えベッドが五つあったとしても、彼女はこの部屋には来ないわよ」
舞はしかめっ面をしてから、机と向き合ってしまった。
怒っている舞に困惑し、助けを求めるように愛に顔を向けると、袋の中を覗き込んでいた彼女が視線を上げた。
「舞ね、修治が菊田って子に優しいのが気に入らないみたい」
「違うわよ!」
再び振り返った舞が、肩を怒らせて否定する。けれどすぐに表情を曇らせ、ため息をついた。
「……修治なんて、別にどうでも良い」
戸惑いがちに吐き出された言葉に、紗矢の心が切なく疼き出す。
「舞ちゃん」
(も、もしかして……修治君のこと?)
深刻な表情を浮かべた紗矢に気がついて、舞は表情を柔らかくした。ニコリと笑みを浮かべ、椅子から立ち上がり、紗矢へとにじり寄っていく。
「そんなことより……珪介とふたりで、お祭り楽しかった?」
「えっ?」
「進展した?」
舞に言われ、紗矢の頬が赤く染まっていく。
交わした言葉。繋いだ手の感触。互いの間に生まれた熱。抱いていた想いをしっかり受け止めてもらったことを報告すべきか迷っていると、窓の向こうを赤い姿が横切った。紗矢は窓へと駆け寄っていく。
「ランス!」
窓を開けると、バルコニーの手すりに舞い降りてきたランスが小さく喉を鳴らした。つぶらな瞳が何かを訴えかけているかのように見え、紗矢は少しだけ首を傾げた。遅れてソラも手すりに降りてきた。ギャアと甲高く一鳴きする。
「あぁ。そろそろ餌の時間ね」
背後から聞こえてきた愛の呟きに、紗矢は二匹に向かって頷き返した。
「ちょっと待っててね。着替えたら下に降りるから」
紗矢は窓を閉めると、愛に向かって「餌あげてきます」と言いながら自分のベッドへと戻っていく。ベッドの上には持ち帰ってもらった服が置かれている。それに着替えるべく、紗矢は勢いよく仕切りカーテンを引いた。
「あっ! 紗矢ちゃん、スイも戻ってきたみたいだから、スイの分も持っていってあげて」
「うん。分った」
浴衣を脱ぎながら舞の言葉に答えると、カーテンの向こうで乱暴に扉が開いた音がした。
「もう! 信じられない!」
「唯ちゃん、ちょっと落ち着いて」
続けて聞こえてきたのは、唯と祐治の声だ。
「祐治君はこの部屋で寝てください!」
「えっ。でもそれは、ちょっと……ほら」
「駄目! 私の目の届くところにいて!」
祭り会場では、いつも通りの仲の良い二人だった。しかし、聞こえてくる声音から察するに、それは継続しなかったようだ。
紗矢は慌てて服に着替えると、ふたりの様子を伺うように、ゆっくりと仕切りカーテンを開けた。唯は部屋の中央にあるローテーブル前に座り込り込み、ティッシュで目元を拭いている。祐治はその隣に正座し、大きな身振りを加えながら、唯に優しく言葉をかけていた。
舞がため息をついた。
「ちょっと唯、あんたまだ機嫌悪いままなの?」
「祐治、就寝時間までに唯の機嫌を直してちょうだい。一晩中すすり泣かれるのは嫌よ」
腕を組み呆れた様子の舞と、リンゴ飴を舐めながら要求する愛を交互に見て、祐治は「お騒がせします」と気まずそうに頭を下げた。
「ふたりとも、どうしたの? さっき見たときは仲睦まじかったのに」
窓の外にいる鳥獣たちの様子を気にしながら紗矢が問いかければ、祐治が渋い顔をした。
「祭りから帰って来て……部屋に入ったら修治兄さんと菊田さんがいて」
「はぁ!?」
大きく口を開けた舞を横目で見ながら、愛がふふふっと愉快そうに笑った。
「組んず解れつ? 越河の兄弟で一番子供だと思ってたけど、修治もやっぱり男なのね」
「お姉ちゃん!!」
肩を揺らす愛を、舞がじろりと睨みつけた。
「いえ、確かに、もつれ合ってました」
祐治が歯切れ悪くそう続ければ、舞の眉間のしわが深くなっていく。唯は祐治の浴衣の袖をぎゅっと掴んだ。
「祐治君! 誤解を招くようなこと言わないで!」
「え? あ……す、すみません。修治兄さんは部屋から追い出そうとしてるけど、菊田さんは一人っきりが怖いみたいで、一緒にいたいって……で、今夜は、僕たちの部屋で眠らせてくれって」
「私が怒ってるのは、そこなの!」
「大丈夫だよ。兄さんだって追い出そうとしてたでしょ? 一緒の部屋で寝たりなんてしないから! ね? ね?」
祐治は、再び頬を膨らませ自分から視線をそらした唯を抱き寄せると、優しく言葉を並べながら、愛おしそうに彼女の頭を撫でた。
紗矢は部屋を見回し、小首をかしげる。
「菊田さん、この部屋で寝れば良いのに。そのテーブルを移動したら、布団の一枚くらい余裕で敷けると思うけど……私、布団、運ぼうか?」
唯と祐治が座っているあたりを見つめながらぽつりと述べれば、愛が肩を小さく竦めた。
「それは嫌。例え力が消えかかってるとしても、彼女が刻印持ちであることに変わりない。襲ってくる可能性のある人と同じ部屋でなんて寝られない」
愛の言葉を聞いて、紗矢は越河家に一度戻ってきたときに聞いた舞の言葉を思い出した。
舞は考えを巡らせているように、視線をゆっくり移動させたあと、祐治を見て腕を組み、笑みを浮かべた。
「そうよね。菊田さんを修治に見張らせて、祐治をこの部屋の番犬代わりにすれば、ゆっくり眠れるわ。祐治、しばらくこの部屋で寝泊りして」
「えっ、番犬……で、でも……いえ。はい」
“イエス”と言わざるを得ない様子で、祐治は頭を縦に振った。
唯が「やったぁ!」と嬉しそうに両手の平を合わせると、窓の外でソラが泣き声をあげた。紗矢はハッとし、急いで戸口に向かう。
「私、餌あげてくるね」
舎の掃除をしていなかったことも思い出せば、心の中に焦りが生じる。
「紗矢ちゃん! ちょっと待って」
ドアノブを掴むと同時に、舞が紗矢を呼び止めた。
「……私も、一緒に餌をあげに行っても良い?」
鳥獣を怖がり傍に近寄りたがらない舞からそんな言葉が飛び出し、紗矢は一瞬目を大きくした。
「もちろんだよ。一緒に行こう」
紗矢が笑みを浮かべると、舞は窓の外にいるソラとランスを振り返り見てから、緊張気味に歩き出した。
共に廊下へ出れば、すぐに階下の騒ぎ声が聞こえてきた。
並んで階段を降り、二階の廊下を覗き込むと、奥の部屋の前に、修治と菊田志穂の姿があった。
「大丈夫! 舞たちも片月も、お前に乱暴なことするような人間じゃねーっつーの!」
「でも、私、不安で」
「不安なら、舞たちを煽らず、部屋で大人しくしてろ! 鍵閉めて早く寝ろ!」
修治は菊田にあてがったらしい部屋に、半ば無理やり彼女を押し込め、バタリと戸を閉じた。そして疲労困憊のため息を発し、その場から離れるべく体の向きを変え、大きく目を見開いた。舞と紗矢がいることに、気が付いたらからだ。
しかしすぐに彼は我に還り、急ぎ足で近寄ってきた。
「片月、お前急いだ方が良いんじゃねーの?」
「え?」
すれ違いざまにそんな言葉をかけられ、修治が手にしている刀をぼんやり見つめていた紗矢はハッと顔を上げる。
くせっ毛を揺らしながらリズミカルに階段を降りていく修治を、紗矢と舞は追いかけた。
「急いだ方が良いって、餌のこと? それとも、私まだ獣舎の掃除終わってないから、なんか言われちゃった?」
一階へと到着すれば、舞が修治の腕をガシッと掴み取った。
「獣舎の掃除って修治の当番でしょ? まさか紗矢ちゃんに押し付けてた訳じゃないでしょうね」
振り向いた修治の口元は引きつっている。
「い、いや……ええっと、それはだなぁ」
「舞ちゃん、待って。違うの。あのね」
慌てて舞に手を伸ばした――……その瞬間、紗矢は身震いをした。感じるままに玄関の戸へと目を向け、ごくりと唾を飲み込む。扉の向こうに、いくつか気配を感じる。
「……珪介君?」
その中でも一番強く感じる力に、紗矢の指先が小刻みに震え出す。靴を履いた修治がゆっくりと振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「始まったみたいだぜ、話し合い」
慌てて靴を履く紗矢を少しだけ待って、修治が勢いよく戸を開けた。
玄関から飛び出し見えた光景に、鼓動がトクリと跳ねた。暗い庭の真ん中に、珪介が立っている。Tシャツにジーパンといったラフな格好だが、その手には刀が、背には赤い翼が現れ出ていた。
そして彼と向き合うように、彼の父親であり、越河家現当主の和哉が立っている。昼間見たような立ち位置ではあるが、二人の表情は……特に、珪介の表情は全く違うものだった。挑むように、じっと父親の瞳を見据えている。
和哉の十メートルほど後ろには、和哉の弟である則正と忠実がいた。
則正は庭いじりが趣味で、紗矢はこれまでに何度もその姿を見かけていた。首にタオルをかけ、日に焼けたその顔でニコリと笑いかけてきてくれ、何度も足を止め、会話に花を咲かせることもあった。しかし、すっと背筋を伸ばし、珪介を見つめるその顔には気安さなど感じられなかった。見慣れぬ弓矢を手にしているため、紗矢にはなおさらそう思えてしまう。
則正だけではない。忠実も、先ほどとは面持ちが違っている。
「さーてと、珪介のバックアップすっかな」
修治が右腕をグルグル回しながら珪介に向かって歩き出すと、和哉がちらりと目を向け、刀を抜き去った。
「一対一でなく、修治が加わるというのなら、後ろの二人も動かざるを得なくなるが」
「想定内」
呼応するように、珪介も刀を抜く。
刀の切っ先を向け合った二人を見て、忠実がため息をつき、頭をガシガシとかいた。
「あーあ。俺、剣術苦手なんだけどなぁ」
そう言い捨ててから刀を抜けば、忠実の背中から濃緑の翼が力強く現れ出た。
「仕方ないだろ。修治が参加する気満々の顔で割り込んで来ちゃったんだから、相手してやらなきゃ」
弓矢を掴み直しながら、苦笑気味に答えた則正の背中にも、こげ茶色の翼が広がる。
紗矢は舞と共に玄関前で立ち尽くしていた。
複数の羽音が聞こえ、勢いよく視線を上げれば、緑、茶、そして和哉の持つ色である橙、三つの色彩を纏う鳥獣たちが夜空を舞っているのを目にする。
この三羽は、ランスたちが住まうものとは別の獣舎で生活している。紗矢が世話をしているのはランスたちだけであり、滅多に外へと出てこないこの三羽とは、接触することがなかった。三羽を物珍しい気持ちで見上げていると、舞が紗矢の腕をぎゅっと掴んだ。
「上の代の鳥獣って、迫力あって怖い」
紗矢は、微かに震えている舞の手に、自分の手を重ねた。
ランスたちも躰は大きくなったけれど、上の代の三羽はそれよりも一回り大きく、雄々しいのだ。
貫禄を漂わせている鳥獣たちの羽ばたく様を見つめていると、橙色の鳥獣と目があった。
その瞬間、大きな体が方向転換する。軌道が自分たちに定められたことに気が付き、紗矢は総毛立った。
「舞ちゃん、伏せて!」
舞を覆うように抱きつき、紗矢はその場にしゃがみ込む。
「え、何?……きゃぁっ!」
修治の方に顔を向けていた舞は、紗矢の力によろめき、尻餅をついた。上空に目を向けるやいなや、舞の表情が戸惑いから、恐怖へと変わっていく。
(ぶつかる!)
覚悟とともに歯を食いしばったその瞬間、ソラが橙色の鳥獣に体当たりした。そのまま二羽は、もつれ合いながら、夜空に舞い上がっていった。
(ソラが助けてくれた)
舞と共に安堵の息を付けば、視界の端で輝きをとらえた。
「血気盛んだこと」
「褒めんなよ。照れるっつーの!」
紗矢が目を向けると同時に、修治が大きく跳躍する。振りかぶった刀が忠実に向かって振り下ろされた。忠実は修治の一太刀を己の刀で受け止め、「褒めてないんだけどな」と苦笑いした。
修治と忠実。その約三十メートル先、庭の中央では珪介と和哉。刃と刃のぶつかる音が、双方途切れることなく続いていく。それぞれの本気が、はっきり伝わってくるほどに、越河の力を惜しみなく使った戦いが、紗矢の目の前で起きていた。
強く脈打つ鼓動を感じながら、息をのんでその光景をじっと見つめていると、突然、すぐ傍で炎が上がった。
紗矢が小さな悲鳴を上げ、舞へ身を寄せると、炎の中から焦げた矢がぽとりと落下した。目を見張る紗矢の前に、ランスが舞い降りてくる。すぐさま唸り声を上げた。
「威力まで落とすか」
遠くで則正が愉快そうに笑った。弓を射るような体勢の彼を見て、紗矢はこの矢が則正の放ったものだと、そして同時に自分たちが狙われたということも理解する。ぞくりと背筋が寒くなった。
上空で甲高い鳴き声が響いた。ソラがバランスを崩せば、橙の鳥獣が機敏に方向転換した。そして他の二匹を両脇に伴い、ランスに向かって滑降し始めた。
ランスはぶるりと身震いをしてから、三匹に向かって咆哮をあげた。咄嗟に紗矢は胸元を抑えた。ランスの声音に刻印が反応し、熱くなっていく。鼓動が高鳴っていく。
地上に向かって突き進んでいた三羽が、突然グラリと統制を崩した。ふらりふらりと、それぞれが地上に降りてくる。微かな痙攣に襲われ、地に伏せながらも、橙色の鳥獣だけは立ち上がった。威嚇を続けるランスをじっと見つめている。
おもむろに、陽彩の頭が、ランスに向かって恭しく伏せられていった。なんとか立ちあがった他の二羽も、習うように頭を下げていく。そして三羽は、ゆっくりと舞い上がり、まるで戦線を退くかのように、その場を離れて行った。
ランスの隣にソラが舞い降りてくる。ソラがギャアギャアと声を上げれば、ランスがそっぽを向いた。すっかりいつも通りの二羽に戻ってしまっていたけれど、紗矢は今まで以上に頼もしさを感じていた。
心が温かくなり、紗矢は笑みを浮かべた。隣にいる舞を見れば、彼女も同じように笑みを浮かべている。
「ランスもソラも、頼もしいよ」
そっと話しかければ、すぐに舞が頷き返した。やはり自分と同じ気持ちだったと分かり、紗矢は笑みを深めた。
「お二人とも、大丈夫ですか?」
上空から、佑治の声が落ちてきた。
見上げれば裕治だけでなく、愛と唯も三階ベランダの手すりから少し身を乗り出すように、こちらを見降ろしている。
「うん! 大丈夫!」
手すりにはスイも乗っている。
鋭い瞳が庭へ向けられているのを見て取って、紗矢も庭へと――……珪介の元に、視線を戻した。
大きな音を立てながら、刀がぶつかり合った。そして二人は、互いに後ろへと下がり、距離を置いた。珪介も和哉も、大きく肩で息をしている。
「あっちは難なく世代交代が済んだようだな……お前も私を納得させてみろ」
珪介は何も答えなかった。けれど、父親の言葉を受け、瞳の輝きが強くなっていく。
一つ大きな気呼吸を挟んで、珪介は刀の柄を持ちなおすと、地を蹴った。同時に、その背にある翼の赤も濃さを増していく。
素早く懐に飛び込み、下から上にと振り上げた刃先が、父親の鼻先を掠めていく。避けてすぐに攻撃に転じた和哉の刃を避けるように、珪介も身を翻す。そして大きく後方に飛び、自分へ向かって放たれた則正の矢を避けると、芝生に手を付いた。
遠目に、彼のTシャツの袖が切れていることに気が付けば、舞を掴んでいた紗矢の手に力がこもっていく。
「あー、無理無理。降参。俺、離脱します!」
忠実から声が上がった。彼の足元には刀が落ちている。本人は修治に笑いかけながら、両手を上げている。
「修治も……強くなったね」
今度は舞が、得意げに笑っている修治を見つめながら、ぽつりと気持ちを述べた。紗矢は同意の笑みを返した。
少しだけ空気が和んだかにも思えたが、そうではなかった。
珪介が勢いよく駆け出したことに気が付き、その向かう先へと視線を移動させ……紗矢は息をのむ。
また則正が、自分たちに向かって弓矢を構えていた。しかし、則正の口元に笑みを浮かべ、狙う的が紗矢から珪介へと移動させた。
瞬時に、珪介が急停止する。表情をこわばらせた。自分の背後に迫りくる父の大きな影を察知したからだ。
珪介が体勢を立て直そうとするほんのわずかな一瞬を、和哉が見逃すわけがなかった。息子に向かって刃が振りおろされ――……その場に、鈍い金属音が響き渡った。
珪介の瞳には、交差する刀が映っている。
「珪介の覚悟を支える人間がもう一人いることを、忘れてもらっては困る」
父の刃を刃で受け止めている蒼一の背中を見て、珪介は僅かに目を細め、そして口角を上げた。
「修治!」
珪介が要求するように、名を呼んだ。
「はいはい。分かってるっつーの」
答えたそこで、刃が鈍く反射する。矢を構えようとする則正の腕に、修治が刃先を付きつけていた。
鍔迫り合いをし、蒼一に力で押し返された和哉が、流れるように身を翻した。そして嬉しそうに、口元に笑みを浮かべた。
「やられたら、やり返すか?」
先ほど自分がそうしたように、いつの間にか背後に回り込んでいた珪介が、渾身の一撃を振り降ろしてきた。
力を受け止めきれずに体勢を崩した父の手から、珪介は刀を弾き飛ばす。そして振り下ろした刃先を、父親の鼻先でぴたりと停止させた。
冷たさの奥底に真剣な熱を宿した息子の瞳を見つめ返しながら、和哉は豪快に笑いだした。
「お前はどうして今まで、その顔を隠していた」
「……見せる必要がないと思っていたから」
そっと刃を引き、自分の真上をどいた珪介に、和哉が右手を伸ばす。珪介はその手を掴み取り、父の体をぐいと引き起こした。
向き合った二人から、「戦いの意思」は消えていた。珪介を見る和哉の瞳は、先ほどまでの厳しいものとは違い、優しげに輝いている。父親の目である。
「我らも、退こう。珪介、お前に越河家当主の座を――……」
「ちょっと待ってよ! 和哉さん!」
幕引きを思わせる和也の言葉を遮るように、怒りの声が上がった。
「あの母親の血を引いているこの子を越河の当主にするのは反対よ! 越河を裏切ったらどうするのよ!」
息巻きながら、和哉と珪介の元へ突き進んでいく美春の姿を視界にとらえた瞬間、紗矢の足は前へと動き出した。
「止めなさい、美春」
「この子が峰岸と繋がってる可能性だってゼロじゃない!」
和哉の言葉など耳に入れず、美春は攻撃的な眼差しを珪介に向ける。珪介はピクリと眉根を寄せた。
「だいたい、おかしいじゃない! あんなに簡単に峰岸卓人から求慈の姫を奪えたのも、それ以来、あの峰岸が行動を起こして――……っ!?」
珪介と美春の間に、紗矢は勢いよく割り込むと、美春へと体を向けた。
「なっ、なによ! どきなさいよ!」
声を荒げられ、紗矢は唇を引き結んだ。その場から動かず、ただ首を横に振る。
「……紗矢」
背後から珪介の声が聞こえてきた。困惑や切なさの入り混じった声音に胸が痛むのを感じながら、紗矢は珪介をかばうように両手を横に伸ばした。
(避けたかった道を、珪介君は選んでくれた)
負けないように、紗矢は美春をしっかりと見つめ返す。
(修治君も蒼一さんも、珪介君を支える気持ちでいる。私だって……私だって同じ。彼を支えたい!)
気持ちの強さに呼応するように、一気に、紗矢の胸元が熱くなっていく。刻印が光を纏っていく。威圧されたように美春が一歩後退すると、和哉がそっと紗矢の横に進み出てきた。
「次の代の決定は、現当主の俺だけの意志ではない。鳥獣の長にも、己の子孫を託せられる人物だと認められなくてはいけない」
和哉は腕を組み、屋敷の方へ目を向けた。
紗矢たちの住まう屋敷と、和哉たち上の世代が住まう屋敷の間に、いつの間にか、鳥獣の長がいた。珪介をじっと見つめている。
突然、美春の後ろで光が生まれる。金色の鳥獣は優しい風を伴いながら、紗矢の周りを一回転し、そして同じように珪介を軸にぐるりと回った。その姿が見えなくても、珪介は何かを感じたのだろう。驚き、そして警戒の表情で辺りを見回している。
やがて、光の鳥獣が眩く点滅しながら長の元へ戻ると、長は地鳴りのような鳴き声を発した後、力強く羽ばたいた。屋敷の裏手にそびえ立つ塔に沿って、天高く昇っていった。
「ついに、産卵の準備に入ったか」
和哉の呟きで、紗矢は物事が動き出したことを知る。
不安を覚え、紗矢が珪介を振り返り見れば、塔を見上げていた彼の視線が落ちてきた。
(これから……どうなっていくんだろう)
不安に駆られていた紗矢へと、珪介が力強く頷いた。
『大丈夫だ』
そう言われたような気がして、紗矢も小さく頷き返した。だんだんと不安が和らいでいく。
美春が踵を返しその場から離れると、珪介の肩にそっと和哉の手が乗せられる。
「今ここで、当主の座を珪介に譲る」
静まり返った庭に、確固たる宣言が響き渡った。
+ + + +
真っ暗な部屋の中。彼女は窓からその光景を、じっと見降ろしていた。
耳に押しあてられている携帯電話からは、呼び出し音が流れている。音がふつりと途切れた瞬間、彼女は笑みを浮かべた。
「たった今、越河の当主が次の世代へと引き継がれたわ」
『誰だった?』
電話の向こうで、男が愉快そうに笑うのを聞いて、菊田志穂も嬉しそうに目を細めた。
「貴方の予想通りよ。越河珪介が継いだわ」
『やっぱりね』
菊田は窓際から離れ、ベッドに腰を下ろすと、そっと胸元に指先を寄せ、己の刻印を爪で引っ掻いた。
「早速、長が塔に昇って行ったわ」
『越河と共に、長も次の代へと命を繋ぐ、か。巨大な抑圧から解放され、これからしばらく地上は無法地帯と化す……これを機に、もしかしたら峰岸が動き出すかもね』
菊田は上半身をベッドに横たえ、妖しく微笑んだ。
「私も、ね」
その胸元にある刻印は、消えるどころか、昼間よりも形状と濃さを取り戻していた。
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