第34話 手を繋ぎ歩く道、2

 夜の闇に覆われつつある林道を抜け、越河家邸宅の庭へ入るとすぐに車がブレーキ音を奏でた。

 黒のワンボックスカーから珪介と修治が降りれば、二人を追いかけるように菊田が車を後にする。


「ここが越河家」


 肩ほどの黒髪を揺らし物珍しそうに辺りを見回しながら、彼女は並んで立っている珪介と修治の間へと歩を進めていく。

 そんな後ろ姿を眺めながら、紗矢は先ほどの話を思い返していた。




 車での移動中、舞が忠実さんへの相談も兼ねるように、事の経緯を話し始めた。


 部活を終え、そして着替えも終えた舞は、いつもと同じように修治との待ち合わせ場所へと向かった。それは、校門を抜け坂を下った先にある赤い橋なのだが、今日はそこに珍しく先客がいた。瀬谷篤彦と菊田志穂だった。

 修治がいない今、越河以外の五家の人間の傍に行くのは正直恐かった。だから舞は、その場で足を止めた。

 瀬谷篤彦にちらりと見られたことに気が付き思わず身構えたが、幸いにも、瀬谷が自分に対して何かを仕掛けてくる素振りを見せることはなかった。警戒を解くことも、それ以上先に進むこともせず、舞はそのまま修治が来るのを待つことにした。

 距離を保ちつつも、ちらちらと動向を伺えば、二人が何やら言い争いをしていることに気が付いた。瀬谷篤彦はすがりつく彼女の手を冷たく振り払うと、その場から立ち去ってしまった。

 しばらく菊田志穂は一人ぽつんと立ち尽くしていたが、やがて項垂れたまま歩き出し、舞の視界から消えたのだった。


 ようやく姿を現した修治にその話をし、祭り会場へ向かおうとした矢先、異形の気配をあの林から感じ取り、そこで異形に襲われている菊田を発見し助けたのだと、舞が事の流れを口早に説明した。そして、刻印を受けたがすぐに消えてしまい、自分は瀬谷に捨てられたのだと、菊田自身も言葉を付け加えた。


 ハンドルを握っている忠実が「瀬谷篤彦、か」と不満げに呟いた。

 なんでも刻印は、乱暴に喰らったりしない限り、そう簡単に消えるものではないらしい。しかし現に、菊田という少女の刻印は消えかかっており、そんな彼女を瀬谷は置き去りにしたのだ。

 納得いかないように忠実は首を振り、真ん中のシートで菊田を挟み座っている珪介と修治も厳しい表情を浮かべていた。


 珪介が以前言っていた「元の状態に戻るまで保護する」という行為を、紗矢は五家共通のものだと考えていた。

 けれど、そうではないことを知れば、優しさをしっかり持ち合わせている越河家を選んだ自分がちょっぴり誇らしく思えた。




「姫さんも、降りてくれるか? 俺も車置いたら、早速兄さんに話してくるわ」


「あ。はい! すみません」


 運転席からこちらを見ている忠実に慌てて返事をし、紗矢は車を降りた。

 エンジン音を響かせ駐車スペースへ向かっていく車を見送っていると、その場に残っていた舞がため息をついた。


「裕治、うまく唯を宥めてくれるといいけど」


「……そうだね」


 舞は菊田をじっと見つめながらそう言った。


 忠実の車が到着するまでの間、菊田は珪介や修治、そして裕治に一生懸命話しかけていた。不安から解放され饒舌になってしまっていたようだった。

 そう頭では分かってはいるのだが、彼女が好意のこもった眼差しを兄弟に向けるたび、紗矢は心にチクチクとした痛みを感じていた。兄弟をとられてしまうような……そんな不安に襲われてしまったのだ。


 そして、そう感じたのは、紗矢だけではなかった。忠実の車が到着すれば唯が祐治の袖をぎゅっと掴んだ。その場から動こうしない妹を見て、舞が「お祭り、二人で行っといで」と笑いかけたのだった。

 だから今、ここに裕治と唯はいない。


「保護するだけで済めば良いけど」


 舞の言葉に、遠ざかる三人をぼんやりと見つめていた紗矢はハッとする。


「どういうこと?」


「……あの子、刻印持ちとして越河の保護下に入りたいとか言い出しそうな雰囲気じゃない?」


 舞の曖昧な微笑みは、ため息へと変わっていった。


「そうなったら、仲良く出来るかな……少なくとも唯は避けそうだし、私も何か言っちゃいそう」


「舞ちゃん」


(私と同じように舞ちゃんも今の状況に不安を感じているんだ)


 返す言葉も見つからず、紗矢が黙り込めば、舞はふっと笑みを浮かべ、表情を明るくさせた。


「でもまぁ、菊田さん自身も力が消えるまでって言ってたし、要らない心配かもね」




 車中で、男三人は議論を交わしていた。

 菊田を保護下に入れた瀬谷が、彼女に宿った力が尽きるその時まで保護するべきだという考えは一致しているようだった。

 瀬谷がどんな考えなのか、一度話をしてみた方が良いと忠実が言えば、菊田は「瀬谷に戻るのも、篤彦さんと会うのも怖いです」と涙を流し始めた。修治は「話は、俺がし行くから、大丈夫だって! 泣くな!」と慌てふためき、珪介は「瀬谷から良い反応がなければ、俺たちが力を貸すから」と菊田を安心させるように優等生の微笑みを繰り出し、そこで話し合いが閉じたのだ。




 優しく菊田に触れる珪介を想像し俯いた紗矢の肩を、舞がポンッと叩いた。


「そうよね! 紗矢ちゃん、ここで待ってて。出来ればそのまま俯いてて」


 満面の笑みで言い終えるなり、舞は身を翻し走り出す。「珪介!」と舞が呼べば、三人が振り返った。その中から珪介だけを引っ張り出し、こそこそと何やら話しかけている。

 不意に珪介の視線が紗矢を捕らえた。紗矢は反射的に視線をそらし、結果、舞の思惑通り俯いていると、程なくして下駄の音が聞こえてきた。

 驚きと共に顔を上げれば、珪介が足早に歩み寄ってくる。


「行くぞ」


「珪介君?」


「行きたいだろ? 祭り」


 すれ違いざま、珪介が紗矢の手を掴んだ。そのまま立ち止まることなく突き進んでいく。


「舞ちゃんに、何て言われたの?」


「浴衣にまで着替えたのに、祭りに行けないなんて可哀想」


「え? そんなことを?」


 手を引かれながら振り返ると、軽やかに手を振っている舞と、顎をそらしニヤリと笑う修治が見えた。

 修治の斜め後ろからじっと見つめてくる菊田と視線を合わせた瞬間、どくっと鼓動が反応した。


「紗矢、前を向け、転ぶぞ」


「……うん」


 歯切れ悪く返事をした紗矢を、珪介が肩ごしにちらりと確認した。




 林を抜けると徐々に珪介の進むスピードがゆっくりになっていった。

 何も言葉を交わさず、珪介に先導されるまま、ゆったりとした足取りで住宅街を十分も歩けば、道の先にぽつりぽつりと提灯の赤が現れだした。

 先ほどまで感じていた漠然とした不安が段々と薄れ、期待で胸が高鳴っていく。


「楽しそう」


「迷子になるなよ」


 繋いだ手に力を込められ、紗矢の鼓動がトクリと跳ねた。




 隣接する公園と神社を使い、祭りは行われていた。公園内に屋台がいくつか並んでいる。その中の列に、祐治と唯の姿を見つけ、紗矢は一人笑みを浮かべた。寄り添うその姿はいつもの彼らである。舞が心配するほどの喧嘩にはならなかったようだ。

 神社の方にはやぐらがあり、その頂には太鼓を打つ蒼一の姿があった。


「蒼一さんだ!」


「あぁ。兄さんは毎年叩いてる……俺は見るの久しぶりだけど」


「わぁ。すごい!」


 やぐらをぐるりと取り囲む人たちは、楽しげに舞い踊っている。

 そんな皆とタイミングを合わせ楽しそうに、そして凛々しく皮面に桴(ばち)を打ち込む姿をじっと見上げていると、突然、珪介に手を引っ張られた。

 何か言いたげな表情に紗矢が小首を傾げると、そっと珪介は躊躇いがちに視線を外す。


「珪介君?」


「……俺たちも何か食べるか?」


「う、うん」


 こくりと頷けば、珪介は再び紗矢の手を引き、ゆっくりと歩き出した。

 自分だけが感じる彼の手の温かさ。力強さ。そして自分たちだけに流れているのんびりとした時間。紗矢にはすべてが特別に思えた。


(……幸せ)


 湧き上がってくる感情を言葉に変化させれば、紗矢の頬が熱くなっていく。


(こうやって手を繋いでくれているのは、私がはぐれないためだってわかってるのに)


 幸福感に、心がキュッと苦しくなる。


(ずっとこのままでいたいって、願ってしまう)


 この賑やかで楽しい時間が過ぎれば、珪介には距離を置かれてしまう。


『当主を決めるその時になっても、珪介が動かず影に徹するというならば、――……』


 昼間かけられた言葉を思いだし、紗矢は顔を上げ、やぐらの上で太鼓を叩く蒼一を見た。


『俺は遠慮無く紗矢を嫁にもらおうと思っている』


 思わず珪介の手を握り締めれば、微かに力が返ってきた。たったそれだけなのに、心をきゅっと掴まれた気がした。


「珪介くん」


 愛しさが湧き上がり、紗矢の口からこぼれた。


「私、珪介君が好きだよ」


 ドンッと一際大きく太鼓が打ち鳴らされる。珪介の足は止まらない。反応もない。周囲の音にかき消され、この声は届いていない。そうわかっても、紗矢の言葉は止まらなかった。


「誰と結婚することになっても、私は珪介君が好き」


 蒼一と夫婦という関係になっても、気持ちが珪介から離れることはないだろう。


「これからも、ずっと」


 珪介の背中が涙で滲む。雑踏の中で告げた思いは、一粒の涙と共に地面へと落ちていった。紗矢が俯き、鼻をぐすりと鳴らしたとき、そっと珪介が立ち止まった。すっと、賑やかさが遠ざかっていく。


「……俺も」


 前方を向いたまま、珪介がぽつりと呟いた。囁くように返ってきた言葉に、紗矢は息をのんだ。


「当主になりたくない。だから紗矢を諦めなくちゃいけないのに……」


 珪介が振り返った。


「兄さんとお前が二人でいることに、お前が親しげに兄さんを見つめることに、俺は平気でいられなくなる」


 寂しげな眼差しを受け止め、紗矢の唇が震える。


「俺でも良いか?」


 涙が零れ落ちていく。


「いっ、良いに、決まってる、じゃない」


 泣きじゃくり、目元を擦りながら紗矢が何度も頷いたその時、鳥の羽ばたく音が頭上に響き渡った。

 見上げれば、月明かりを遮るように、鳥獣の長が夜の空を飛んで行く。


「……長」


 珪介がポツリとその名を呟けば、長が一鳴きした。

 大気を震るわせ、優雅に旋回すれば、暗い空にポッと陽が生まれる。しかし、光の鳥獣が姿を見せたのはほんの一瞬だった。長の体に絡みつくように、原型が崩れていく。真っ白な体躯が、夜空に光の残像を残しながら飛び去っていった。


「喰らいに来たわけじゃなさそうだな」


「うん。最近は喰らいに来るときしか姿を見せないのに、珍しいね」


 繋いでいた手を珪介に持ち上げられ、紗矢は夜空から彼へと視線を落とした。


「……俺の覚悟を見極めに来たのかもな」


 珪介の真剣な瞳に、紗矢の心が囚われていく。


「長の目にも紗矢の目にも、俺は頼りなく映っているだろうけど」


 鼓動が高鳴り、頬が、体が熱くなっていく。


「誓うよ」


 指の先が珪介の唇に触れ、紗矢は甘い熱に体を震わせた。


「俺はお前のためにもっと強くなる」


 真摯な声音が紗矢の中へ染み込めば、また目に涙が浮かび出す。それを見て珪介は苦笑し、紗矢をそっと抱き締めた。





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