第32話 夏のはじまり
「よし!」
階段裏の通路奥にある物置部屋に掃除機をしまい、紗矢は汗ばんだ額を手の甲で拭った。
期末テストも梅雨もやっとおわり、昨日学校は夏休みへと突入した。
今、紗矢が暮らす越河の邸宅内に使用人の姿は無い。夏期休暇に入る前、ずっと休み無く働き続けている浜見さんたちに二泊三日旅行のプレゼントをしてはどうだろうかと、愛が提案をした。忠実、蒼一、愛、そして珪介がお金を出し合い、それは実現する運びとなった。
日々忙しなく働き続けていた彼らは今ごろ、比較的涼しい土地で羽を伸ばしていることだろう。
「掃除終わり!」
彼らがいないその間、四兄弟と三姉妹そして紗矢の八人で仕事を分担することになり、紗矢は唯と共に家の掃除を受け持つこととなったのだ。
玄関先に戻れば、制服姿の修治と舞に出くわした。
「行ってらっしゃい! 頑張ってね」
紗矢が声をかければ、「行って来ます」という声音が倍になって返ってきた。夏休みだろうと二人には部活がある。変わらず、毎日学校だ。八月に入れば練習試合も控えている。
修治が獣舎の壁に取り付けられているバスケットゴールでシュートの練習を熱心にしているのを、紗矢は何度も目にしていた。同時に、それを見て「勉強もあれくらい努力してくれないものだろうか」と蒼一が呟くのも、見慣れつつあった。
舞がドアを開けると、修治が紗矢に向かって拝むような仕草を見せた。紗矢は笑み浮かべ頷き返す。言葉を交わしてはいないけれど、修治の気持ちはしっかりと紗矢に届いていた。
『俺の代わりに獣舎の掃除よろしく!』
元々獣舎の掃除は愛がやっていたことなのだが、浜見がいない間は愛が食事を作っているため、その代わりに修治が獣舎の掃除をすることになったのだ。
しかし……昨日はそれを、紗矢がやったのだ。修治に無理やり押しつけられた訳ではない。普段紗矢は獣舎に入り浸っているため、軽い気持ちで代わりに掃除をしてしまったのだ。
その後、ボール片手にのこのこ獣舎に現れた修治にえらく感激され、気を良くした紗矢は、どうせ毎日来るつもりだからと、今日も明日も掃除を代わってあげると約束をしたのだ。
「あ、そうだ。紗矢ちゃん……ちょっとアンタ、何やってるの?」
外へ出ようとしていた舞が、思い出したように紗矢に視線を向けた。同時に、修治の様子に気が付き眉根を寄せる。修治は慌ててあわせていた手の平を離し、「何もしてねぇよ?」と白々しく言いながら頭の後ろで手を組んだ。
「舞ちゃん、忘れ物? 取ってこようか?」
焦り気味に紗矢が舞に言葉をかけた。舞は納得いかないような表情のまま紗矢を見た。
「違う。あのね、やっぱり今日は現地集合にしてって、珪介に言っておいて」
「……現地集合?」
紗矢が小首を傾げると、舞が目を見開いた。
「あれ? 聞いてない?」
「何を?」
「珪介のやつ……紗矢ちゃんに言わないって事は、行く気がないって事かしら」
舞は言おうか言うまいか迷った後、玄関の靴箱の上にある置き時計に視線を止め、軽く手を振った。
「現地集合でお願いって言うついでに、珪介にしっかり今日のこと聞いてね。それで紗矢ちゃんが行く気になってくれると、私は嬉しいんだけど……それじゃあ、時間ないからもう行くね」
修治も紗矢にニヤリと笑いかけてから、舞に続く形で玄関から出て行った。
(今日って何があるんだろ……でも、私……珪介くんに話しかけること出来るかな)
紗矢は渋い顔をしてから、自分の靴を履き、玄関の扉を大きく開いた。眩しさに目を細めれば、空の高いところからバサリと羽音が聞こえてきた。前へと歩き出した紗矢の隣に、赤い大きな躰が護衛をするかのように舞い降りてくる。その滑らかな羽に指先を滑らせてから、紗矢はランスに笑いかけた。
「獣舎の中のお水、新しいのに変えようね」
グルルと低い声が返ってきて、紗矢は笑みを深めた。隣に並ぶランスは、紗矢の身長と変わらないほどに、大きくなっていた。修治を追いかけ越河家から遠ざかっていくソラも、庭の上空を旋回しているスイも、そして獣舎の屋根で羽を休めているライラも、みな同じように大きくなっている。
風の吹き抜けていく音に混じって、キンッと刃と刃がぶつかり合う音が響き渡った。庭の真ん中で、現当主の和哉と珪介が刀で競り合っている。
その光景に紗矢が思わず足を止めれば、遠巻きに稽古を見ていた蒼一と祐治が歩み寄ってきた。
「出てきたと言うことは、また獣舎に引きこもるんだな」
蒼一にズバリ言われて、紗矢は苦笑いをした。
「鳥獣たちを見ているとすごく楽しいんです」
「楽しすぎて、獣舎で寝ちゃうとか……そういうのは止めた方が良いですよ。ちゃんとベッドで寝ないと疲れもとれませんし」
祐治に心配そうに見つめられ、紗矢は「ごめんなさい」と顔を俯かせると、ランスが祐治に向かってグワッと鳴き声を発した。紗矢を庇うランスの態度に、祐治は吹き出し笑いをする。
「もういい。珪介下がりなさい」
「……有り難うございました」
庭の中央から聞こえていた音が鳴り止んだ。
微かに呼吸を乱しながら和哉が厳かに言うと、珪介は父親の顔を見ることもなく一礼し踵を返した。
「次、祐治!」
和哉が声を張り上げる。
苛立ちの混ざっている声音に祐治はびくりと体を揺らし、小さな呻き声を上げた。
この稽古は、祐治が和哉を「父さん、待ってください。異議ありです」と呼び止めたあの翌日からはじめられたものだ。祐治の思惑を知る由もない和哉は、稽古の参加は息子全員だと言い放った。そのため、剣技を得意としない祐治にはこの時間が苦痛となっていた。
気乗りしない様子でゆっくり父親へ近付いて行く祐治とは逆に、珪介は無表情のまま父から離れていく。
蒼一と紗矢をちらりと見てから、珪介は進んでいた軌道をさりげなく変え、二人から離れた場所で足を止めた。
「……全く珪介は」
弟を見つめながら、蒼一は渋い顔をする。紗矢も、つい口元を引き結んでしまった。珪介がどうしてそんな行動を取ったのか、分かったからだ。
今紗矢は、蒼一と二人っきりで並んで立っている。だから珪介はここに来なかったのだ。
珪介は「越河の次期当主は長兄の蒼一。だから求慈の姫の夫となるのも蒼一」だという意見を全く崩さなかった。
学園内ではいつも通り接してくれてはいるが、雨の中、珪介に抱きかかえられ帰ったあの日以来、特に蒼一がいるところでは、珪介は全く自分と接触を持ってくれなくなったのだ。
話しかけ、そして通常以上に素っ気ない態度を取られ、紗矢が涙目になることも一度や二度ではない。
獣舎に向かうつもりで外に出てきたのだが、珪介に舎と自分の間に立たれてしまったため、紗矢はその場に止まったまま、剣を振るう祐治を見つめ続けることを余儀なくされた。
スイが優雅に青空を飛んでいく。芝生に落ちた影も、よどみなく流れていく。自分の隣にいるランスに触れれば、謳うような鳴き声が聞こえてきた。静かに耳を傾ければ、心が徐々に落ち着いていく。
ランスが誘うような鳴き声を発し、その場に身を下ろした。紗矢も同じように芝生の上に座り込み、温かな赤い躰にもたれかかった。
今朝方、金色の鳥獣に呼び起こされ、紗矢はベランダへと出て自分の力を捧げたのだ。
彼女の腹部に宿った命の存在感は、確実に大きくなっている。もうそろそろ産まれるのではないだろうかと、紗矢はそんな予感を抱いていた。
『長に動きが出た時点で次期当主は確定させる』
和哉のかつての声音が脳裏に響く。このままだと……次期当主は蒼一になるだろうとも容易に予想がついた。体全体に気だるさを感じながら、紗矢はただ黙って稽古の様子を瞳に映し続けた。
和哉は祐治の刃を払い流しながら、顔を伏せている珪介を横目で見た後、不満そうに首を横に振った。
「父さんも気付いたようだな」
蒼一がポツリと呟いた。紗矢が隣に立つ彼を見上げたとき、祐治の刀が父親に弾き飛ばされた。
「も……もう……限界、です……ま、まい、り……ました」
祐治はその場に尻餅をついた。口を開いた状態で苦しそうな呼吸を繰り返し、苦しそうに肩を上下させている。
末の息子ほどではないが、和哉も呼吸を乱していた。また和哉は珪介をちらりと見た。珪介は変わらず俯いている。和哉は深く眉根を寄せ、今度は紗矢とその隣にいるランスを見た。
思わず紗矢が萎縮すれば、和哉は大きなため息を吐き、刀を鞘におさめた。
「珪介! 後で私の部屋に来なさい」
少々乱暴に投げつけられた言葉に、珪介はほんの一瞬顔を強ばらせ……そして、静かに「はい」と返事をした。
「……何を言われるんだろう」
「活を入れられるのだろう……お前もそう思うだろ? ランス」
身を屈めた蒼一に頭を撫でられ、ランスは嬉しそうに目を細めた。
(ランスは蒼一さんには、すごく懐いてる)
ランスが己の躰を触らせる人間は、蒼一と紗矢しかいない。
「お前はとっくに腹をくくっている。だから他の三匹もスムーズに連携を取れていると言うのに……珪介が現当主から活を入れられ変化するのか、それともしないのか。見物だ」
蒼一が微かな笑みを唇に乗せ、もう一度ランスの頭部を撫でれば、祐治が刀を杖代わりにし、おぼつかない足取りで二人の元に戻って来た。
「……酷い目に遭いました。珪介兄さんの小芝居が気に食わないからって、何も僕に八つ当たりしなくたって」
祐治が大の字になって仰向けに寝転べば、伸びてきた祐治の手を避けるようにランスが立ち上がった。
「小芝居?」
つられて立ち上がった紗矢に、祐治は高揚している顔を向け、小声で囁いてきた。
「珪介兄さんは力を加減して父と向き合ってました。きっと最終的には、蒼一兄さんより自分が劣っていると父が思うようにと計算しながら、稽古してたんだと思います」
「だが甘い……息一つ乱してないのだから、気付かれて当然だ」
蒼一は腕を組むと、静かな面持ちで空を見つめている珪介の横顔に目を向けた。確かに珪介は、グッタリしている祐治とはまるで様子が違っている。
「ランスは他の三匹同様、君の力を喰らっている。いつまでもその力を隠し通すことなどできないだろう……しかしそれでも、珪介が白を切るようならば」
温かな風が吹き抜け、木立が揺れた。葉の擦れる音に混じって、蒼一が動いた音も聞こえてきた。
「紗矢。この際ハッキリ言っておこう」
彼が姿勢を正し紗矢と向き合えば、寝転がっていた祐治はゆっくりと身を起こした。
「俺は、越河のトップに立つ覚悟も、この地を五十年守り続ける覚悟も出来ている」
真っ直ぐで力のある瞳にじっと見つめられ、思わず紗矢はランスに縋るように手を添えた。
「君という存在を背負う覚悟も……そして、珪介を想う君を受け入れる覚悟もだ」
「……蒼一さん」
蒼一は紗矢の頬に触れてから、ランスに目を向けた。先ほどとは違って、厳しい視線だった。
「当主を決めるその時になっても、珪介が動かず影に徹するというならば、俺は遠慮無く紗矢を嫁にもらおうと思っている」
ランスの躰の中から、囀るような声が響いてきた。寂しそうな音色に、紗矢の心は重苦しくなっていく。
「だが、お前はそのままで良い。ライラでは力不足だ。ランスが四羽のリーダーとして紗矢を守れ」
蒼一の力強い声音に、ランスは少しだけ躊躇うように瞳を伏せた。それが珪介の表情と重なって見え、紗矢の心で寂しさが膨らんでいく。
(傍にいて欲しい)
願いを込めて、紗矢はランスの逞しく成長した躰を撫でた。
「紗矢。準備があるので、これで失礼する。また夕方に会おう」
蒼一は紗矢に向かって一礼すると、邸宅に向かって颯爽と歩き出した。
「……私、そんなに分かりやすい? 珪介くんを好きだって、気付いちゃう?」
芝生の上に座っている祐治にポツリと問いかければ、小さな笑い声が返ってきた。
「はい。分かり易いと思います……珪介兄さんを目で追いすぎてますし、兄さんがいないと不安そうですし、逆に近くにいるとリラックスしているように見えますから」
祐治は立ち上がると、紗矢に笑いかけた。
「でもこのままだと次期当主は、覚悟のある蒼一兄さんで決まってしまうかもしれません……珪介兄さんをその気にさせることが出来そうにないのなら、酷なこと言いますけど……紗矢さんも蒼一兄さんのお嫁さんになる覚悟をした方が良いと思います」
切なさや遣り切れなさ、そして歯がゆさが入り交じった笑みを祐治から向けられ、紗矢は言葉を返す事が出来なかった。
場の重々しい雰囲気を払拭するように、祐治はいつもの笑みを浮かべ、服についた草を払った。
「もうそろそろ時間ですよね。僕は唯ちゃんの様子を見てきます。それじゃ、また!」
その場に取り残され、紗矢はちらりとランスを見た。
「みんな、またねって。何があるの?」
つぶらな瞳をじっと見つめれば、ランスがじゃれつくように、紗矢の頬に頭部を擦りつけてきた。
「くすぐったい!……早く、獣舎の掃除しに行こっか!」
紗矢は意を決し、獣舎に――珪介の立つ方向へ歩き出した。
「お疲れ様」
珪介の横を通り過ぎた時にそっと言葉をかければ、「どうも」と素っ気ない言葉が返ってきた。紗矢は足を止め、伺うように珪介を見上げた。
舞の伝言もある。彼に伝えねばと思ったのだが……俯いたまま何かを考えている珪介に、言葉をかけるのは難しかった。
紗矢は小さく肩を落とすと、話しかけるのを諦めて獣舎へと向かう。獣舎横の花壇に水をまいていた愛が振り返り、紗矢に薄く笑いかけてきた。
「紗矢さん……私、りんご飴が食べたいわ」
突然の要求に、紗矢は瞬きをくり返した。
「私、人混み嫌いだから、毎年不参加なの。だから、りんご飴を三つよろしくね」
愛は淡々とした口調でそれだけ言うと、空になったジョウロを抱え持ち、獣舎裏の物置へと向かっていった。
「り、りんご飴?」
その場に取り残された紗矢も、止まっていた足を再び動かし、獣舎の中へと入っていく。
「りんご飴かぁ……お祭りとかで売ってるヤツだよね?」
ランスに喋りかけながら、水桶の前に紗矢がしゃがみ込めば、水面に二つの姿が映り込んだ。
クルルと甘えるような声を出しながら、ランスは嘴を手の甲に近づけてきた。紗矢も、そんなランスの仕草に気が付き、躊躇いもなく手を差し出した。
鋭い嘴が甲を突っついた。痛みはない。しかし体から力が抜け、紗矢の視界が歪んだ。気遣うようにランスは嘴を紗矢から離した。そして、まるで自分にもたれかかれとでも言うように、ランスは紗矢に寄り添い身を下ろした。
ソラは紗矢の力をかき込むように喰らい、スイやライラは少しずつ、しかし満足いくまで喰らい続ける。しかしランスは今のように紗矢の具合に気を配りながら、ほんの少しだけ喰らっていく。
その度に紗矢は、ランスの優しさを実感していた。
(……大好き)
紗矢がランスの首に両腕を絡め抱きついた時、静かな獣舎内に低いため息が響き渡った。
まさかと思いながら戸口へ顔を向ければ、そこに珪介が立っていた。ゆっくりと近付いてくる。
「ランス、お前……」
苛立たしげな瞳をランスに向けながら歩み寄ってくる珪介を見て、紗矢は慌てて言葉をかけた。
「あ、あのね! 舞ちゃんが、今日は現地集合にしてだって。どっ、どこか行くの?」
珪介はランスから紗矢へと目線を移し、再び息をついた。
気持ちを少しばかり落ち着かせたかのように、珪介はいつも通りの面持ちで紗矢と向き合いなおした。
「今夜は夏祭り。その話だろうな。蒼一兄さんと、舞と唯、修治に祐治は毎年行ってる。けど俺は、今年も行く気は――」
「お祭りなの!?」
気だるげに答えていた珪介の顔が、段々と目を輝かせていく紗矢を見て、苦々しく変化していく。
「……何その顔……もしかして、行きたかったりする?」
紗矢は立ち上がり、大きく頷いた。
「行きたい! お祭り行ったことないから、すごく行きたい!」
「……ない?」
片月家は極力外出しない家族だったため、紗矢は家族でテーマパークに遊びに行ったことも、旅行をしたこともなかった。
紗矢は珪介の右手を両手で掴み、ぎゅっと力を込めた。
「行ったことない。だからお願い、連れてって」
「俺が?」
ほんの僅か視線を彷徨わせた後、珪介は紗矢で目を止めた。そっと瞳を細め、紗矢に小さく頷き返す。
「蒼一兄さんは紗矢を連れて歩くの無理だろうし、俺しかいないか……分かった」
「やった!」
紗矢は喜びを弾けさせるようにバンザイをした。珪介は呆れたように笑って見せてから、踵を返す。
獣舎から出て行こうとするその背中を見て、紗矢は思わず走り出していた。
「珪介君。有り難う」
珪介のグレーのTシャツの裾をぎゅっと掴めば、彼の足が止まる。
「結構、人でごった返してる。迷子になるなよ」
「……うん……絶対に離れない」
紗矢は誓うように大きく頷き、肩越しに自分を見下ろした珪介に笑いかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます