第30話 高鳴り、2
図書館内に足を踏み入れた瞬間、妙な安堵感が込み上げて来た。越河の結界内に足を踏み入れたのだと、すぐに頭と体が理解する。
ほっと息を吐いてから、紗矢は足早に珪介のブレザーを掴んだ。
「珪介君」
「な、何?」
両手でブレザーを力一杯掴めば、珪介が少しばかり身を仰け反らせた。
「……お願いだから……突然いなくならないで」
紗矢に神妙な面持ちで見上げられ、珪介の表情が驚きから苦笑へと変わっていく。
「すごい顔」
そっと珪介の指先が紗矢の頬に触れる。
「そんなに寂しかった?」
珪介の口元がからかうような笑みを浮かべたのを目にし、紗矢の頬が熱くなっていく。
「俺がいなくて」
言葉を発することが出来ずに、紗矢が口をパクパクさせると、珪介はくくっと笑い背を向けた。
「俺はお前の護衛の他にもやることがある。だから時々いなくなることもあるけど、その時はランスをお前の傍に置いておくし、何かあったら俺と修治が……あの馬鹿、さっきは来なかったけど……基本すぐに駆けつけるから、絶対にネックレスを外すな」
淡々と言いながら珪介が階段をのぼっていく。しかし紗矢は階段の下で立ち尽くしたまま、黙って珪介を見上げた。
「紗矢?」
珪介は振り返り、固まっている紗矢に眉根を寄せる。紗矢は視線を彷徨わせてから、口を開いた。
「……他にやることって、越河の仕事?」
「あぁ」
すんなり肯定され、紗矢は階段から離れるように一歩後退した。
「……そっか、珪介君……ずっと若葉と一緒だったんだね」
地面に落とすようにぽつりと呟けば、珪介が微かに目を見開いた。
「若葉、まだ上にいるの? いるなら、私そっちで本読んでるから、修治君たち来たら教えて」
若葉と顔を合わせるのは、どうしても気が進まなかった。自分を見て怯えるだろう若葉を優しく宥める珪介も、紗矢は見たくなかった。
回れ右をし進み出せば、手が掴み取られた。紗矢はほんの一瞬、息を止める。
「そんな顔するな」
後ろから聞こえた声音に視界が揺れ、珪介の手の温かさに胸が切なく締め付けられていく。
「……でも」
戸惑いながら紗矢が身を返せば、珪介がふっと笑みを浮かべた。その微笑みに、トクンと紗矢の鼓動が高鳴りだす。
「今日ので彼女への処置は終わったから、すぐに元に戻る。紗矢の知ってる彼女に」
「え?」
珪介は紗矢の手をしっかりと掴み直し、階段を上がっていく。
三階に辿り着くと、昼間と同じように自習室の戸を開け個別に区切られた机と机の狭間を突き進み、そして奥まった場所にある扉に手をかけた。
珪介と一緒に戸をくぐり、紗矢は室内を見回した。辞書のように厚みのある本が並べられた書棚の向こうに、ソファーに横たわり眠っている若葉の姿があった。幾分ぐったりしているようにも見え、紗矢は繋いでいる珪介の手に力を込めたが、彼は意に介した様子もなく若葉を指さした。
「起こしてみれば分かる」
紗矢は珪介の手を離し、ゆっくりと若葉の傍へ歩み寄っていく。両膝を床につき、彼女の顔を覗き込んだ。若葉本人で間違いない。
「……若葉」
声を掛ければ若葉が身じろぎをし、うっすらと瞳を開けた。
しばらくぼんやりとした瞳で天井を見つめていたが、不意にその視線が紗矢へと向けられる。
彼女に怯えられたらと考え、つい口元を引き結んでしまったが、紗矢の心配をよそに、力を取り戻した若葉の目は、親しげに細められていく。確かに、目の前にいる若葉は紗矢を見て怯えていた若葉ではなかった。一年の時の若葉だ。
「……紗矢……あれ。私、なんでここに寝てるの?」
ソファーから身を起こしながら若葉は手で頭を抑え、そして首を傾げた。思い出そうとしているけれど、思い出せないようだ。
続けて辺りを見回しはじめた若葉にどう言葉をかけようかと紗矢が考え出すと、すかさず後ろから声がかけられた。
「自習室内で倒れたんだよ。貧血かな」
珪介だ。もちろん、人の良さそうな微笑みを顔に貼り付けている。
若葉は珪介を見て、一瞬キョトンとした顔を浮かべた。しかし徐々に気さくな笑みに変わっていく。
「そうだったんだ……えーっと、越河君がここに運んでくれたの?」
「あぁ。保健室に運ぶべきか迷ったんだけど……大丈夫?」
歩み寄ってきた珪介も身を屈めて、紗矢の肩越しから心配そうな眼差しを若葉に向ける。
すぐ傍で発せられた低く優しげな声音が、紗矢の鼓膜を揺らす。近付いた距離に、そして何気なく自分の背に添えられた珪介の手に、鼓動が忙しなく反応してしまう。
「大丈夫だと思う。有り難う!」
元気よく感謝の言葉を述べた若葉に、珪介は笑みを返した。
「そっか。良かった……それじゃ」
それだけ言うと、珪介は背筋を正し狭い室内から出て行ってしまった。一瞬だけ静寂が訪れる。
「きゃー、ちょっと! 私、本当に越河君に運んでもらったの!? お姫様抱っこ?」
「う、うーん……た、ぶん。そうじゃないかな」
「学園トップクラスのイケメンに、お姫様抱っこされたっていうのに、なんで気を失っちゃうのよ! 私のバカバカバカ!」
若葉にバシバシと腕を叩かれたが、紗矢は身動きも取らずじっと若葉を見つめ続けた。
「紗矢、どうしたの?」
「……私の事、恐くない?」
少しだけ赤らんでいる顔のまま、若葉は不思議そうに紗矢を見つめ返した。
「こ、恐くない、けど?」
少し緊張気味に紗矢が問いかければ、若葉が笑みを浮かべ、そして「何言ってんの」と付け加え前髪をかき上げた。その手首に痣があるのを見て取り、思わず紗矢は若葉の手を掴んだ。
「あっ、やだ。ぶつけたみたい」
紗矢が眉根を寄せれば、若葉も痣をみて顔をしかめた。以前、舞の腕にあった痣よりはだいぶ薄い。しかし、ぶつけたのではなく喰われた跡だと予想がついた。
「ね、久しぶりに一緒に帰ろ。ついでに何か食べて帰らない?……あれ?……久しぶり?」
若葉は自分の提案に首を傾げたが、「私も何言ってんだろ」と笑いながらソファーから立ち上がった。紗矢も鞄を抱え持ちながら、ゆっくりと立ち上がる。続くように狭い書庫内から出ると、目に付きやすい扉近くの机の上に自分の鞄が置いてあることに気づいた若葉が小走りになる。
「どこ行こうか」
「……あ、の」
全て忘れてしまっているかもしれない。それでも、若葉には色々と聞きたかった。どこまで覚えているのかを知りたかった。だから一緒に帰りたいとは思うのだが、自分の好き勝手に行動するのも気が引けた。
珪介に聞いてみようと室内を見回したが、その姿は見付けられなかった。自習室から出て軽い足取りで階段を降りていく若葉を追いながら必死に彼の姿を探すが、どこにも見当たらない。
一階に降りれば、開け放たれた図書館の扉から、生徒がぞろぞろと館内に入ってくるのが見えた。その流れが途切れるのを待つように戸口前で立ち止まった若葉の腕を紗矢は掴んだ。
「ねぇ、ちょっとまって若葉……っ!」
突然、炎が上がった。最後に館内へ入ろうとした男子生徒の足下で炎が揺らめき、彼は苦しそうに出入り口から後退していく。
炎は容赦なく彼の体を包み込んでいく。俯き加減で歯を食い縛っている男子生徒の足下に伸びていた影が、意思を持ったかのように立ち上がった。影は紗矢に向かって手を伸ばし、ゆらりゆらりと向かってくる。
小さな悲鳴を発すると同時に、紗矢の視界を赤い躰が素早く横切っていく。次の瞬間、影も炎も消え失せていた。その場にぺたりと尻餅をついた男子生徒へ、近くにいた人々が集まっていく。
「新学期で、みんな疲れてるのかもねー」
若葉は小さくため息をついて、図書館の外へと一歩踏み出した。
「待って、若葉!」
叫べばすぐに、若葉は足を止め振り返った。紗矢は外を伺うようにしながら、戸口に近付いて行く。
「ごめん。私やっぱり止めとく……若葉も今日は家で大人しくしてたほうが良いよ。倒れたんだし」
若葉の後ろで黒い影が動いた気がして、紗矢は身震いをした。
「そっか、そうだよね。今日は真っ直ぐ帰って寝ることにする」
「私、本借りてから帰るね……あの、気をつけて」
「うん、分かった。じゃあまた明日ね」
若葉は紗矢に向かって軽く手を振ると、踵を返し歩き出した。じっと目を凝らしても、若葉を狙うような異形の気配は見当たらない。紗矢はほっと胸を撫で下ろしてから、珪介を探すべく辺りを見回し……すぐに口を尖らせた。
珪介は壁に背中を預けて、涼しげな瞳でこちらを見ている。
「神出鬼没! さっきそこにいなかったじゃない!」
「当たり前だ。女のお喋りに付き合いたくない」
珪介は僅かに肩をすくめてから、階段を登り始めた。
「気付いてると思うけど、図書館に結界張ったから館内なら好きに動き回っていい。俺は二階にいる」
ちょっと待ってと紗矢は呼びかけようとしたが、上から降りてきた女子生徒にすれ違い様話しかけられた珪介が、朗らかな表情で対応したのを見て、ぴくりと眉を動かした。
そのまま珪介は視界から消えていった。紗矢は小さなため息をつく。
(……本当に、本を借りてこうかな)
廊下に出ている館内案内図の前に立ち、それをぼんやり眺めた後、紗矢はゆっくりと歩き出した。
一階の図書スペースに入らず階段をのぼり、そして沢山の本棚が並んだ室内へと入った。棚と棚の間に視線を走らせながら、奥へ奥へと進んでいく。
(私、珪介君の傍にいたい)
奥から二番目の列に、探していた姿はあった。
珪介は遠慮がちに近付いてきた紗矢を見て、小さな笑い声を発したのち、手にしていた本に視線を落とした。
珪介の向こう側にある壁には縦長の窓がついていて、紗矢はそこから入ってくる自然光が珪介を優しく包みもうとしているように見えた。
清閑な空間の中で、珪介が僅かに身動きをする。黒の髪がさらりと揺れ、光が跳ねた。静かな面持ちで、文面を見つめているに横顔に、紗矢の鼓動が早まっていく。
(……やっぱり、珪介君は格好いい)
早鐘のように鳴り響く鼓動を身の内に隠しながら、紗矢は極力足音を立てないようにして珪介の傍へと歩み寄っていく。
隣に立っても、珪介の表情に変化はなかった。長い指先がページをぱらりと捲る。
(良かった……一人が良いから、あっち行けって言われなくて)
紗矢はホッとしつつ、目の前に並んだ本の背を流し見た。どれも、紗矢のベッドの下に忘れていった時代小説と同じ雰囲気を放つタイトルばかりだ。
手に取るのを躊躇っていると、また珪介が小さく笑う。
「ここの図書館に絵本はない。児童文学なら一階にあるけど」
「わ、私だって歴史物読むもん!」
「嘘つけ」
紗矢はムッとしながら身を屈め、作家名を指先でなぞっていく。
「もう五月蠅いなぁ……あっ」
知っている作家名にぶつかり、紗矢はぱっと表情を明るくさせた。
「その作家、児童文学も結構書いてるよな」
「えっ……」
珪介にさらりと言われ、紗矢は渋い顔になる。子供の頃読んだことのある作家の名前だったから指を止めたのだ。また馬鹿にされると思いながらも、紗矢は素直に言葉を返した。
「……こ、この人のなら、ちょっと内容が小難しくても読めるかもしれない。私小学生の頃、この人の作品好きで、結構読んでたんだ」
「俺も好きだった」
返ってきた言葉にハッとし顔を上げると、珪介がそっと目を細め口元に笑みをたたえた。
またドキッと胸が高鳴っていく。頬を熱くさせながら、紗矢は珪介に笑みを返した。
「そうだ……俺、紗矢の所に本忘れたんだけど」
言いにくそうに、珪介が話を切り出してきた。あの時、珪介に言われた事を頭の中から追い出しながら、紗矢は持っていた鞄を開けた。
「実は、持ってきてます」
「良かった。そろそろ貸し出し期限が切れるから」
紗矢が鞄から取り出した本を見て、珪介は持っていた本を棚にしまうと、紗矢からそれを受け取り、またぱらりとページを捲り出した。
「……紗矢」
「何?」
「……蒼一兄さんと、会ったんだろ?」
鞄を閉じようとしていた紗矢の手が止まる。
(その話は、したくない)
また冷たい一言を放たれるような気がして、紗矢は何か言おうとしている珪介から勢いよく視線を逸らした。
縦長の窓の向こうを赤と青の体が横切ったのを見て、紗矢は珪介から逃げるように窓へ向かう。
「ランスがいる。ソラも一緒だ」
窓に顔を寄せ、紗矢は体育館の屋根に舞い降りた二匹をじっと見つめた。
「やっぱり、ランスの躰大きくなったよね? 並んだら、私の腰よりきっと高いと思う」
「俺がお前を喰ったからな……けど鳥獣は、人が乗れるくらい大きくなれるから、まだまだ小さい方だろ」
「嘘! 乗れるの!?……の、乗りたい!」
ちらりと紗矢が後ろを振り返り見れば、今度は珪介が顔を逸らした。
「もっと大きくなったら、ランスは私のこと乗せてくれるかな」
「乗るならライラにしろ。俺たちは必要に迫られない限り、お前を喰らったりしない」
本に視線を向けたまま、珪介に淡々と言葉を返され、紗矢はしかめっ面で体育館の屋根へと視線を戻した。羽を広げ落ち着きのないソラから距離を置いて、ランスは毛繕いをしている。
「私、ライラもソラもスイもランスも、みんな可愛いって思ってるよ」
窓ガラスに手をつけば、ランスが毛繕いを止め紗矢の方へ顔を向けた。
「だから私のやるべき事が、この体の中にある力を鳥獣に分け与えることだって言うのなら……四匹平等に与えたいと思ってる」
強く言い切りながらも、心は急速に悲しくなっていく。紗矢は窓についていた手を握り締めた。
「……だけど、乗るならランスが良いの! 珪介君が駄目って言っても、絶対乗るから。空飛ぶんだから!」
「紗矢」
駄々を捏ねるように言えば、珪介が苦々しく紗矢の名前を口にした。
「珪介君は舞ちゃんとか若葉が良いんでしょ。好きに喰らえばいいじゃ――……」
ばさりと本が床に落ちた。同時に腕を掴まれ、紗矢の体は後ろへと引っ張られていく。背中が軽く書棚にぶつかり、慌てて顔を上げれば、紗矢の頬に指先が触れた。
「だから、そんな顔するなって」
手を伸ばせば簡単に届く距離に、珪介の顔がある。
「……頼むから、俺の覚悟を乱すな」
彼はぎゅっと瞳を閉じ、深く息を吐いた。
「珪介君」
辛そうな顔に呼応するように、紗矢の胸も切なく軋む。
思わず胸元の石に手を当てれば、珪介がゆっくりと瞳を開け、真っ直ぐに紗矢を見た。
そっと書棚に手をつき、珪介は紗矢との距離を縮めていく。
「……く、喰らわないって言ったじゃない!」
「違う」
紗矢は珪介を押し返そうとしたが、無駄だった。互いの顔はどんどん近付いていく。
「キスしたい」
懇願するように囁きかけられ、くすぐられるような感覚が紗矢の体を駆け巡る。
「紗矢」
甘い響きを伴った声を発したその口が、紗矢の唇に触れる。大切なものを慈しむように、何度も何度も唇が重ねられる。
「紗矢の隣に誰がいても関係ない」
珪介は紗矢の頬を両手で包み込み、真摯な声音を発した。
「命が尽きるその日まで、俺はお前を守る」
彼の瞳が、言葉に込めた思いを強く紗矢に伝える。
「……命が尽きても、マツノさんのように紗矢を守り続けるよ」
喜びと切なさが、紗矢の体の中を駆け巡る。
「珪介君」
頬に触れている彼の右手に、紗矢は自分の手を重ねた。互いの体温がそれぞれの身体の中へと浸透していく。
「紗矢」
珪介に力強く抱き締められ、紗矢は自分の身を預けるように、彼の胸へ頬を押しつけた。
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