第28話 平穏と不穏の狭間
号令がかかり、数学の先生が教室から出て行く。昼休みへと突入した教室内ではクラスメイトたちが思い思いの行動に移り始めた。
鞄からお弁当箱を取り出す者。財布を片手に購買へと向かう者。授業で凝り固まった肩を回しながら、「お腹空いたー」と声を発する者。教室内が賑やかになる中で、紗矢は椅子に腰掛けたまま数学のノートを両手で掴み、そこに書かれている文字をじっと見つめていた。
ノートに書かれているのは、今日の授業の内容でなければ、自分の文字でもない。新学期が始まってから自分が休んでいた分が、しっかりと書き込まれているのだ。数学だけではなく、他の教科のノートにもしっかりと書き込みがされていた。ここまでしてくれる人物で思い当たるのは、珪介か舞のどちらかだ。
紗矢は口元に笑みを浮かべた。角張った文字は男らしく、舞ではないだろうと予想できたからだ。
(珪介くん、だよね……お礼言わなくちゃ)
ノートをパタリと閉じ胸元で抱きかかえてから、紗矢はちらりと後ろを振り返った。
珪介は頬杖をつき、少し険しい目つきで前方を眺めていたが、すぐに紗矢の視線に気が付いた。ばちりと視線が合ったことで緊張を感じながらも、紗矢はお礼を言うべく腰を上げる。
しかしその瞬間、珪介にぷいっとそっぽを向かれてしまった。彼の態度に動きを止め、紗矢はぐっと眉根を寄せた。
(なんか今、俺を見るなって、こっちに来るなって言われたように思えたんですけど!)
お礼なんて後回しだと膨れっ面で座り直せば、前に座っている尾島京香が振り返った。
「なんか疲れたような顔してるけど、大丈夫? 病み上がりだもんね、無理しないで」
「ちょっとだけ気だるいけど、大丈夫。有り難う」
朝、金色の鳥獣に喰われてから、気だるさと眠気に襲われてはいるものの、保健室に駆け込むほどの事では無い。
京香の気遣いに紗矢が頭を下げた途端、心配そうだった京香の顔が一変する。好奇心できらきらと輝き出した。
「ねぇ、休んでる間、卓人君お見舞いに来たりした?」
「ないないない! って、あのね、私と峰岸君は本当にそういう関係じゃないから」
ノートを力一杯握り締めながら紗矢が否定すれば、京香が「またまたぁ」と目を細めた。
前に京香と言葉を交わしたあの時から、自分を取り巻く環境も、峰岸卓人との関係も随分と変化してしまっている。けれど、それをどう説明して良いのか、またどこまで話してしまって良いものなのか全く見当がつかなかった。
口惜しさを感じながら曖昧な笑みを浮かべていると、京香が思い出したようにふふっと笑った。
「そう言えば、今日は卓人君じゃなくて、舞ちゃんと登校してたね。確か、舞ちゃんって徒歩で通学してたと思うけど。家近いの?」
「え? あぁ、うん。ちょっと引っ越しして……」
家族でじゃなくて私だけねと心の中で追加しながら、紗矢は今朝のことを思い返す。
朝、珪介と修治、そして舞と四人で登校したのだが、五之木学園が近くなれば、男二人が自分たちと距離を置き始めたのだ。
さりげなく離れていく二人を不思議に思えば、学校では距離を持って生活してるのだと、舞が教えてくれた。
校門をくぐった時にはもう、二人は遠くに行ってしまい、紗矢と舞が二人で登校したような形となっていたのだ。四人で一緒に来たとは思われなくて当然である。
背後で、「珪介くーん」と女子の黄色い声音が響き渡った。つい振り向けば、珪介は女の子三人に取り囲まれていた。そして彼もまた余所行きの優しい微笑みを浮かべている。
(何か気に入らない……どうせなら、私にも優しくしてくれれば良いのに)
珪介から「無関係だ」というような素っ気ない態度を取られるよりは、あつらえたような優しさでも接してもらえた方がまだ良いと思えた。距離が縮まったと思っても、また遠ざかっていくことに、紗矢の中で寂しさが募っていった。
胸元に手を当てれば、指先が制服の中に隠してあるネックレスの感触に触れる。ちょっとだけ冷静さを取り戻した紗矢の目の前で、京香が机の向きを変え始めた。
「ねぇ、紗矢ちゃん。今日のお昼はお弁当持参? それとも何か買いに行く?」
「あ、えっと……お弁当」
鞄の中には浜見お手製の弁当が入っている。思い描けば、ぐうっとお腹が鳴った。
「あ、じゃあ私たちと一緒に食べない? 色々聞きたいし。ね、良いよね。憲二」
京香と向き合うように机を動かしていた憲二が顔を上げ、にこりと笑う。しかし紗矢は、通学中に「お昼ご飯も一緒だからね!」と舞に言われていたことを思い出し、慌てて口を挟んだ。
「ゴメンね。お昼食べる約束しちゃってるんだ」
「卓人君と?」
「違うって!」
力一杯否定した後、紗矢は憲二の手に目を止めた。大きな絆創膏が貼られている。
「……怪我? 大丈夫?」
「これ? 平気平気。一昨日、部活中に転んじゃってさ、擦りむいただけなんだけど、やっぱ大げさだよな」
憲二はにこやかに笑いながら、手を軽くふってみせた。
「部活何やってるの?」
「バスケ」
「へぇ……っ!」
大きな絆創膏をじっと見つめていると、不意に紗矢の視界がぼやけた。目を眇めれば、傷にまとわりつくように黒い影が現れ始めた。
紗矢はぞくりと背を震わせる。嫌な予感に心を支配されながら、ゆっくりと顔を上げていく。憲二の手の傷から肩にかけて黒い影がまとわりついている。
それを目で辿り……紗矢は悲鳴をのみ込んだ。肩越しからこちらを覗き込むような影の中にピンボールくらいの半透明の球体があり、まるで目と目が合ったかのように、鈍く光ったのだ。
人の形にも見える影が、紗矢の体を恐怖感で満たしていく。
(これも……異形の獣)
紗矢が顔を強ばらせれば、それにつられたかのように憲二から笑みが消え、虚ろな表情へと変わっていく。
憲二が歪な笑みを浮かべ、紗矢に向かって一歩踏み出した瞬間、熱風が吹き抜けていった。後ろから飛んできた刀が憲二の体を掠め、そして人の形をした影と共に黒板にザクリと突き刺さった。
振り返れば、刀の鞘を持った珪介が、厳しい表情で憲二を睨み付けていた。
「憲二、どうしたの?」
京香の声に、紗矢はハッとし、憲二に視線を戻した。
「なんかちょっとくらっとした」
「大丈夫?」
憲二は、目眩を堪えるように額を手で押さえている。その手にはもう、黒い影はまとわりついていなかった。
紗矢は身動きが取れなくなり、救いを求めるように珪介を再び見たが、彼は既に優しげな顔に戻っていた。去り行く女の子たちに、手を降っている。
紗矢はため息を吐き出した。教室内には昼下がりの和やか時間が流れているが、教室の前にはそれに似つかわしくない黒い体が、刀に貼り付けにされ力なく垂れ下がっている。恐怖に身を竦ませているのは紗矢だけである。
再び服の上から三つの石に触れれば、勢いよく教室のドアが開かれた。豪快な音と共に現れた修治を見て、クラスメイトたちから「修治だ」という声が次々に上がっていく。
注目を浴びている当の本人は、真っ先に紗矢を見てから、ちらりと珪介の刀に縫い止められている影を見た。ふうっと息を吐き出してから、ズンズンと紗矢に向かって近付いてきた。
「よー、修治!」
「よー、憲二」
憲二は修治に親密さを感じられる挨拶を送ったが、修治は剣呑な表情で、怪我をしている憲二の手をびしっと指さした。
「お前、その怪我、速攻治せ。気合いで今日中に治せ」
「無茶言うなよ」
紗矢は憲二ではなく、自分の横で立ち止まった修治に囁きかける。
「仲良し?」
「そ。同じ部活」
「ってことは……修治君、バスケ部なんだ」
ボールを追いかけて走り回る修治の姿が容易に想像できて、紗矢はうんうんと頷いた。
「これでもバスケ部のエースだっつーの……あ、決めた。片月お前今日からバスケ部のマネージャーやれ」
「えっ……マネージャー?」
思いも寄らぬ修治の指図に困惑し、つい紗矢は珪介の方に顔をむけようとしたのだが、それよりも早く修治が紗矢の顎を掴み、引きつった笑みを浮かべた。
「おーい。今誰かに助けを求めようとしたダロ?」
ブルブルと首を振れば、修治がしかめっ面になった。
「じゃあ、誰かに聞かないと決めらんねーのか? だったら俺が決めてやる。マネージャー、やれ。はいと頷け」
「修治。そんな態度じゃ、片月さんの迷惑にしかならないよ」
はあっと嘆かわしげなため息が聞こえてきた。珪介が優等生の顔をして、いつの間にか斜め後ろに立っていた。
「ごめんね、従兄弟が乱暴で……でも、根は良いヤツだから」
(い、従兄弟!? 兄弟でしょ!?)
抱いた疑問を口に出そうとすれば、珪介が紗矢に対してふわりと微笑んだ。頬が熱くなり何も言えなくなってしまった紗矢を、一瞬涼しげな目で見てから、珪介は二人の横を通り過ぎ、ベランダに通じるガラス戸を開けた。
すぐに、バサバサと羽音が聞こえてきた。教室内にランスが飛び込んできたのだ。ランスに近寄ろうとしたが、修治に素早く腕を掴み取られてしまったため、紗矢はその場から動くことが出来なかった。
「片月、早く弁当持てって」
「……う、うん」
修治にまた指図され、鞄からお弁当袋を渋々取り出した紗矢を見て、憲二が「えっ」と声を上げた。
「先約は修治だったのかよ!? お前らこそ、仲良しか!」
待ってましたとばかりに、修治がにやりと笑みを浮かべた。紗矢をヘッドロックするかのように、肩に手を伸ばす。
「俺、片月狙ってんだよねー。だから仲良しになろうとしてるとこ。これからもちょくちょく来る予定だから、よろしくー」
「しゅっ! 修治君!?」
教室中に聞こえるだろう大声で発言され、紗矢は修治の腕をバシバシ叩いた。
「片月さんモテモテじゃん! 卓人君と修治君に取り合いされてるなんて」
「ちがっ! これは……苦しいって、修治君!」
「しかもどっちもイケメンだし、なんかちょっと羨ましい」
京香は言葉通り羨ましそうな顔を紗矢に向けたが、すぐに白け顔をした憲二に「冗談よ」とフォローの言葉を入れた。
主張するかのように、ランスが「クワッ」と一鳴きする。そして刃物に突き刺さっている影を嘴で挟み、そのまま屋外へと飛び立っていった。
赤い姿を見つめながら、紗矢は瞬きを繰り返した。夜中に見たときより、ランスの体が一回り大きくなったように思えたのだ。
「何か……大きくなった?」
紗矢がポツリと呟けば、憲二が顔を赤くさせ、包帯の巻かれた痛々しい手を修治にむけた。
「修治、盛んなよっ!」
「俺、勃ってねーけど?」
恥ずかしげもなく修治が言った言葉に、紗矢は頬を赤らめた。修治の手から逃れるべく、もがき出す。
「たっ!? ち、ちがうってば! そうじゃなくて、ランス――むぐっ」
ランスという単語を抑え込むように、修治が紗矢の口を手の平で塞いだ。
涙を浮かべながら珪介を見れば、彼はカラリと戸を閉め、そしてクラスメイトの目が紗矢たちに向いていることを良いことに、黒板に刺さっている己の刀を堂々と引き抜いた。
そして彼は我関せずを決め込んだかのように、二人に構うこともなく机の上に置いてあった弁当の包みを掴み取り、颯爽と廊下へ出て行った。
修治は珪介が教室から出て行ったことに気付けば、紗矢の口から手を離し、そのまま腕を掴んだ。
「いや。俺もう我慢出来ねー。ひとけの無いとこ連れてくわ……っつーことで、皆の衆、さらば」
びしっと片手を上げてから、修治は紗矢を引っ張り、歩き出した。廊下に出れば、お腹を抱え笑い出す。
「おもしれー。憲二の顔見たか!? 真っ赤すぎだっつーの」
紗矢はイライラをぶつけるように、修治の背中をばちんと叩いた。修治が紗矢の手を離し、「いでっ!」と叫ぶ。
「修治君、ちょっと自由すぎない!? 私、これから一年間あのクラスで過ごさなくちゃいけないんだけど!」
「細かいこと気にすんな」
「修治君は気にしないだろうけど、私は気にするの!」
修治が肩越しに紗矢を見て、ニヤリと笑った。
「これからは珪介と連携取ってかなくちゃいけないんだぜ? 俺が惚れてるって事にしとけば、俺がお前の周りウロウロしてても、別におかしくねーだろ?」
学園内にいる時は、出来るだけ珪介や修治と行動を共にするように、越河の現当主から言われている。
いざって時に自分が自由に動けるようにしたくて、修治はあんな事を言ったのだろうが、修治の性格から考えれば、周りに友人とだけ言っておくだけでも、自由に入り込めるような気がして、紗矢はいまいち納得できなかった。
しかも、珪介の姿は廊下になかった。
(まさか本当に……二人っきりで食べる訳じゃないよね)
彼と二人っきりでお昼ご飯となると、食べた気がしないまま終わってしまうだろう。紗矢は急に不安になって、前を行く修治に小声で問いかけた。
「あのー……ど、どこで食べるの?」
「図書館。あそこ、放課後以外は鍵閉まってるけど、実は越河が建てたもので、管理もしてるから、俺らも合い鍵持ってんだよね……俺は図書館なんて滅多に行かねぇから、自分の部屋に置きっ放しだったけど」
紗矢は苦笑いを浮かべてから、彼の身軽さに気が付いた。
「修治君、お弁当は?」
「弁当は舞が持ってった」
「そうなんだ……舞ちゃんもいるんだね。良かった、二人っきりじゃなくて」
本音を漏らせば、修治が「あぁ?」と濁った声音を発し、紗矢を不機嫌な目で見た。
修治から「何でもない」と顔を逸らしながら、俯き加減で廊下の角を曲がると、階段の踊り場に珪介が立っていた。
腕を組み立っている珪介の背中を見て、安堵に笑み浮かべれば、彼がおもむろに振り返った。
珪介が修治をじろりと睨み付けた。冷たい視線を向けられ、修治も足を止める。そして珪介がこちらに歩み寄ってくるのを見て、修治は腰にある刀の柄に手を乗せた。
「ど、どうしたの?」
刀を引き抜こうとする修治におろおろすれば、珪介が踵を返し、紗矢と修治に背を向けた。
次の瞬間、紗矢の背中に悪寒が走った。ドクドクと鼓動が強く鳴り、体全体が強ばっていく。階段をのぼってくる足音が聞こえ、恐々と視線を向ければ、峰岸卓人の姿が見えた。卓人の後ろには伊月と琴美がいた。
伊月は紗矢と珪介と修治を見て、たじろいだ様子を見せたが、琴美は刃向かうように、紗矢を鋭く見据えてきた。
卓人はほんの数秒足を止め、また階段をのぼりはじめる。そして三人と並んだ瞬間、卓人が紗矢を見た。少しだけ寂しそうな目をした後、恨みを思い出したかのようにじろりと見つめる。
身震いしながら、紗矢が目の前に立つ珪介の制服を縋るように掴めば、卓人は紗矢から珪介へと視線を上げ……嘲笑った。
「せいぜい神様に祈っておくと良いよ。紗矢ちゃんが自分の母親と同じ目に遭いませんようにってね」
瞬時に珪介の拳に力が入る。去って行く卓人を睨み付け、赤い光を体からゆらりと立ちのぼらせた。珪介から激しい怒りが伝わってきて、思わず紗矢は珪介の腕を掴んだ。
「珪介君」
幾ばくかの静寂を挟み、躊躇いがちに呼びかければ、珪介が長く息を吐いた。
「……行くか」
紗矢と修治を交互に見た彼の表情は、いつもの冷静さを取り戻していた。
きゅっと紗矢の心が締め付けられる。珪介の腕を離さぬよう指先に力を込め、紗矢は彼に続いて階段を降り始めたのだった。
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