第25話 雨の獣舎、1
紗矢は読んでいた小説をパタリと閉じ、若い侍の姿が描かれた表紙をじっと見つめた。
ベッドの下にあった珪介の忘れ物を読み始めてみたものの、何度も思考が物語からそれ、気が付けば違うことを考えてしまっていた。
紗矢は短く息を吐く。越河家当主と祐治の言葉が頭の中で再生され、心がまたざわつき始めたのだ。
ベッドから降り、癒しを求め真っ直ぐに窓へと向かっていく。庭には所々小さなライトが設置されていて、その明かりの中に降り落ちる小雨が浮き上がって見えた。
芝生ではソラとスイがじゃれ合うように遊んでいる。二羽の楽しげな様子を目にし、落ち着きを取り戻せたのはほんの一瞬だった。
今度は、もどかしさが紗矢の中に募っていく。雨が降っていても構わない。庭に降り、もっと二匹の傍に行きたい。あたたかな体に触れたい。そして、獣舎の中にいるだろうランスの様子を見に行きたい。沸き起こってきたそれらの感情が体を縛り上げていく。
紗矢は身動き出来ないまま、二羽を見つめ続けた。
「紗矢ちゃんは、時代小説よりソラとスイの方が面白い?」
ソラたちに向けていた視線をぎこちなく室内に戻せば、机に向かって勉強をしていた舞が苦笑しているのが見えた。
「うん。断然面白い」
自嘲気味に笑い返すと、舞が椅子から立ち上がり歩み寄ってきた。肩を並べれば寒さが和らいだ気がして、紗矢は笑みを浮かべた。
「ソラって、呆れるくらい元気よね」
「動きが面白くて、飽きないね」
「鳥獣たちっていっつも遅くまで遊んでるから、夜中、鳴き声が五月蠅いときあるんだよね。大抵ソラがだけど」
舞の発言を聞いて、紗矢は笑みを引っ込めた。
+ + +
みんなで食事を終え、舞と共にお風呂に入り、そして再び部屋に戻ってきた時、すでに鳥獣たちは庭で遊んでいた。
しかもソラとスイだけでなく、ライラも一緒だったのだ。
それから一時間ほど経った頃、雨が激しく窓を叩き出した。
再び庭に視線を落とせば、舎の屋根部分にある出入り口から中へ戻っていく三匹の姿が見えた。さすがに土砂降りの雨の中で遊ぶ元気はないようだ。
今夜はもう、鳥獣たちは外に出てこないかもしれない。そう考えカーテンに手を伸ばした瞬間、赤い姿が林から獣舎の屋根へと勢いよく舞い昇っていった。ランスだ。同時に、林から家へと駆けてくる珪介の姿も確認できた。
肩から力がすっと抜けていくのを感じ、紗矢は思わずはにかんだ。彼らが帰ってきたことに安堵している自分に気が付いたからだ。
気持ちを隠すように勢いよくカーテンを閉めれば、控えめなノック音が部屋に響き渡った。訪ねて来たのは、蒼一だった。
遊びに来たわけではなく、またこれからすぐ仕事へ出る事になってしまったことを愛に告げに来たのだ。愛は表情を変えることなく出かける準備を始め、蒼一と共に部屋を出て行った。
それが合図となったかのように、唯は欠伸をしながらベッドに横になり、舞は机の上に教科書やノートを広げ始めた。
紗矢も自分のベッドで珪介が忘れていった小説を読み始めたのだが……結局集中することが出来ず、また庭を眺めてしまっていたのだった。
+ + +
「ランス、今日は遊ばないのかな。少し前まで出かけてたし、疲れてるのかな」
ちょっとだけ赤い姿を見せてくれないかと願ってみても、ランスが獣舎から出てくる様子は全く無かった。
「あの子は遊ばないと思う」
「え、何で?」
舞が獣舎の方を見つめながら小首を傾げた。
「ランスが庭で遊んでいるところ、あんまり見かけないから」
「そうなの?」
「主(あるじ)に置き換えてみてよ。庭で、珪介が修治と楽しそうに遊んでいる姿、想像できる?」
「……出来ないかも」
素直に首を振った時、廊下側のベッドから楽しそうな寝言が聞こえてきた。
「……やだっ、祐治くんっ……ふふっ」
良い夢をみていることが丸わかりな唯の声音に、舞と紗矢は揃って苦笑いをする。
「ごめんね」
「ううん。夢の中でも仲が良くて、羨ましいな」
祐治の唯に対する溺愛っぷりは、しばらく食事をするのを忘れてしまうほどのもだった。「可愛いね」「大好きだよ」「キスして良い?」と、祐治は人目をはばからず唯への愛の言葉を囁くのだ。二人の世界にのめり込めばのめり込むほど、二人は舞と蒼一によって、テーブルの隅の席へと追いやられていった。
「……本当に、気になってない? 祐治君の事」
確認するように、舞が紗矢へ問いかけた。強ばった声につられて、紗矢も表情を硬くする。
「それって、私が祐治君を好きかどうかってことを聞いてる?」
「うん」
言葉を濁すことなく肯定され、紗矢はゆっくりと首を振った。もちろん横にだ。
「私にとって祐治君は、好きとかそういう対象じゃない」
「そっか。良かった……ほら。祐治が言ってたじゃない。紗矢ちゃんが峰岸卓人よりも越河の誰かの方が強いって見抜いたから選んだのかもって。もしそれが祐治だったら、唯が悲しむだろうなって」
舞が二羽に目を向け、穏やかな顔をした。
「鳥獣の縛りがあるから、私たちはその力を身に宿してる男しか好きにならないし、向こうも刻印を持ってる女しか好きになれない……世の中には星の数ほど人間がいるっていうのにさ、私達には選択肢が少なすぎよね」
ため息交じりに囁く彼女の横顔に向かって、紗矢は躊躇いがちに呟いた。
「舞ちゃんは、誰に心が反応してるの?」
「……教えなーい」
不満げに口を尖らせれば、舞がふふっと笑った。
「だって紗矢ちゃんは越河の当主になる人と結婚して、その人の子供を産まなくちゃいけないんだよ?」
舞の言葉に紗矢はハッとさせられる。
「もし、私が好きだって言った人とそういう関係にならなくちゃいけなくなったら、気まずくなるじゃない。私達はずっと、この力がなくなったりしない限り一緒に暮らすんだし」
ちくりと心が痛んだ気がして、紗矢は足下へと視線を落とした。
「だから、知らない方がいい。今まで、私と愛姉さんもそういう話をあえてしないようにしてたし」
予告なく舞の可愛らしい顔に覗き込まれ、紗矢は大きく目を見開いた。
「でも! 紗矢ちゃんは隠す必要ないんだよ? 越河家当主と結ばれるのは紗矢ちゃんで確定してるんだから。言っちゃいなよ。三人のうち誰に惹かれてるかって――いたっ」
好奇心に満ち溢れていた表情が突然歪む。今度は紗矢が舞を覗き込んだ。
「舞ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
手首を押さえ、歯を食いしばりながら、舞は二度ほど頷いた。
「舞ちゃん!」
「だ、大丈夫。ほら、喰われると時々痛くなるじゃない? それだから」
「喰われる」
峰岸卓人に喰われた記憶が脳裏を過ぎった。つい復唱すれば、感心するような顔つきで舞が言葉を続けた。
「想像してた以上に珪介の食べ方が上手で、驚いちゃった。痛みもすごく楽だし」
「け、珪介くん?」
「そう珪介。流石よね。修治にホント見習って欲しい」
幼い頃から越河四兄弟と生きてきた舞にとって、喰われるという行為にそれほど抵抗を感じないのかもしれないが、この世界に踏み込んだばかりの紗矢にとっては、やはり意味合いが違っていた。
喰らうというのは、唇を重ねて行われることだ。
「キスしたってこと、だよね?」
「え?」
自分の中の動揺を押し隠す事が出来ずに、紗矢は少しばかり上ずった声を発してしまった。
束の間、紗矢を見つめ返したのち、舞はおもむろに腕まくりをした。紗矢は目を瞠った。彼女に似つかわしくない傷跡が、左腕にいくつも残されていたからだ。
けれど当の本人はそれらに気にする様子もなく、左手首にある真新しい痣を指さした。
「珪介に喰われた跡がこれ」
「へ?」
一オクターブ高い声音を発した紗矢に笑いながら、舞は説明口調になった。
「口から喰らう場合は、跡も痛みも残らないから体への負担が一番少なくて楽なんだけど……でもね、顔を近づけるだけで良いんだよ。唇まで重ねる必要なんて全くないの。腕でも足でもどこからでも、奴らは喰らうことが出来るってことを、よーく覚えといた方が良いかもね」
「そ、そうなんだ。有り難う。覚えとく」
舞のベッド脇にあるサイドテーブル上の小さな時計が、ピッと鳴った。時刻は午前零時である。
「もうこんな時間。寝よっと……紗矢ちゃんは、眠れなさそう?」
「まだ眠れないかも。ほら私、寝過ぎたから」
「確かに。六日間寝てたもんね」
舞は欠伸をしながら窓際を離れたが、紗矢はその場を動くことなく再び庭へと視線を戻した。遊んでいた二羽が夜空に舞い上がっていく。そして大きく円を描いた後、獣舎の屋根へと降り立った。
「……獣舎を覗いてきても良いかな?」
「へっ!?」
ベッドに身を横たえようとしていた舞が、唖然とした表情で紗矢を見た。
「今から?」
「ちょっとランスの様子が気になって。まだ傷が癒えきってないんでしょ? 浜見さんに聞いたよ」
「そうみたいだけど。本当に鳥獣が怖くないんだね。求慈の姫って、すごい」
舞は部屋の中で視線を彷徨わせてから、改めて紗矢を見た。
「言うのを忘れてた。紗矢ちゃん、獣舎の向こうに林が広がってるでしょ? それに添って、ライトが設置されてるんだけど」
言われた通り、小さな明かりが林に添うように列になって並んでいた。
「あのライトね、越河家の二つの邸宅を取り囲むように設置されてるの。私達はその明かりのラインを越えなければ、敷地内を好き勝手に動いて良い事になってる」
「境界線って思えば良いのかな」
「そう。あの明かりに重なるように越河が結界を張ってるから、勝手にその向こうへ行くなってこと」
納得し頷けば、背後でまた唯の甘い寝言が発せられた。苦笑しつつ、舞の説明は続く。
「それさえ守れば、紗矢ちゃんは誰の許可を得ることなく動き回って良いんだよ。もちろん獣舎に行っても良い……私は眠いし寒いし雨も降ってるし、それにちょっと鳥獣怖いから付き合ってあげられないけど。ごめんね」
「ううん。平気……行って大丈夫なら、ちょっとだけ見てこようかな」
「気をつけて」
「有り難う、行ってくるね」
紗矢がパジャマの上にコートを羽織れば、舞は軽く手を振りながら掛け布団の中に潜り込んでいった。
(行くだけ行ってみよう)
その思いに突き動かされ、紗矢は静かに歩き出した。
出来るだけ音を立てないように扉を開け閉めし廊下へ出ると、階下の気配を探りながら階段まで進んでいく。
二階廊下の明かりはついていた。しかし、人の動く気配はなく静寂に包まれている。
(早速、お肉を持って行ってみようかな。何事も、試してみないと分からないし)
しかし階段を降り始めてすぐに、自分とは違う足音が一階からのぼってきた。咄嗟に紗矢は足を止め息を殺し、ちょっぴり後悔する。
(悪いことをしている訳じゃないのに、堂々と出来ない……あっ)
一階から上がってきたのは珪介だった。
先ほどまでとは違う身軽な白地のトレーニングウェアを上下に纏い、髪の毛をタオルで拭いているその姿は湯上がりのようにも見えた。
二階廊下を奥へと進んで行く後ろ姿を黙って見つめていると、不意にその足が停止する。肩越しに、彼が紗矢へと顔を向けた。珪介の瞳が迷うことなく自分を捉えたことに、紗矢はごくりと唾を飲み込んだ。
「こんな真夜中に、そんなとこで何してんの?」
「べ、別に」
紗矢は努めて明るい笑顔を浮かべ「何でもない」という事をアピールしたが、珪介は自分の部屋ではなく、階段下へと歩み寄ってきた。
「別に?」
訝しがるような顔でじっと見上げられてしまい、紗矢は手すりにしがみついた。
「本当に何でもないの。もう十二時過ぎてるよ、早く寝なよ!」
「ホームシック? 泣くほどお子様なら、家に連れてってやるけど?」
「ちっ、違うわよっ! のっ、喉が渇いたから、水を飲みに行きたいの! 私の目的地はすぐ下なので、珪介君に連れて行ってもらわなくて結構です!」
「……あっそう。わかった。お休み」
じろりと睨み付ければ、珪介はあっさりと紗矢から目をそらした。
興味を失ったかのようにのろりと踵を返すと、そのまま彼は自分の部屋に向かって歩き出す。
彼の部屋の戸が閉まる音を耳で確認してから、紗矢は長く息を吐き出した。一階まで降りそっと炊事場へと忍び込むと、浜見さんから教えてもらった冷蔵庫を開ける。
肉の入った小さなタッパーを取り出せば、自然と表情が引き締まっていく。
(すぐには食べてくれないかもしれない……けど、いつかきっとって思いながら続けることが、大事だよね)
瞳を閉じれば、ランスの赤い羽根が見えた気がして、紗矢は正方形のタッパーを両手で強く掴んだ。
自分を奮い立たせるように、少しだけ荒い足取りで炊事場から玄関へと移動する。靴箱の戸を開けれれば、容易に自分の靴が見つかった。それを履き、一気に玄関の戸を押し開け、外にでる。
雨は小雨であり、獣舎はすぐそこだ。走ればそんなに濡れないだろうと考え、紗矢は煉瓦道を走り始めた。
獣舎の戸の前に辿り着くやいなや、すぐに引き戸に手を掛けた。
「うっ……開かない!」
鍵はかかっていないが戸の滑りが悪かった。そのため、紗矢は自分が通り抜けるほどの隙間すら開くことが出来なかった。
「もうっ!」
諦めきれずに奮闘していると、不意に紗矢の手元に陰りが出来た。視線を上げれば、視界に鮮やかな緋色の和傘が飛び込んできた。
「お前、どこの水を飲むつもりだ」
聞こえてきた声音が信じられないまま、肩越しに背後を確認する。
「……珪介君」
背後に立っていたのは、間違いなく珪介だった。彼の肩を、雨粒がしっとりと濡らしていく。彼は、彼自身ではなく紗矢を雨から守るように、傘をさしていたのだ。
先ほど見た彼が湯上がりだったことを思い出し、紗矢は慌てて息を吸い込んだ。
「珪介くん、お風呂入ったばっ――……んんっ!」
「響くから叫ぶな。静かにしろ」
傘の柄を持ってない方の手で珪介に口を塞がれ、紗矢は懸命に頷き続けた。彼の気遣いと手の温かさに、少しだけ心が和らいだ気がした。
「何、それ」
彼に自分の手元をじろりと見られ、すぐさま紗矢はお肉入りのタッパーを後ろ手に隠した。
「こんな時間に、しかも獣舎の中で、何か食べるつもり?」
答えろとでも言うように珪介の手が口から離れ、紗矢は何度か躊躇った後、くぐもった声音で要求する。
「この扉を開けて下さい」
珪介は呆れたように肩を落とし、傘を持つ手を紗矢に近づけた。
「開けるから、持ってて」
「う、うんっ!」
紗矢は珪介から傘を受け取り、場所を入れ替わる。
ついさっきまで彼が自分にしてくれていたように、紗矢は珪介を雨から守るべく、背伸びをしながら傘の柄を掴む手を上昇させる。
あれほど重く固かった扉は、珪介の手によって難なく開かれた。
「傘は、戸の所にでも立てかけといて」
「分かった」
珪介は慣れた様子で、暗闇の獣舎内へと足を踏み入れていく。
傘を閉じ邪魔にならなさそうな場所に立てると、紗矢はタッパーを持ち直し、薄ぼんやりとした明かりが灯された舎の内側へと一歩を踏み出した。
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