三章

第22話 すれ違い

 ゆっくりと瞼を持ち上げれば、ぼんやりとした視界の中にクリーム色の天井と、まん丸のシーリングライトが映り込んできた。


(……あれ……私)


 紗矢は自分の周囲にゆるりと目を向け、ハッとする。


(そうだ。越河君たちと一緒に車に乗って……えーっと)


 珪介に寄りかかったまま、寝てしまった。そこまでは覚えている。しかしどうやって車から降りて、どうやってこの部屋に入ったのか、まったく覚えていなかった。

 紗矢は狭い空間の中でベッドに横たわっている。狭いといっても、四方を壁に囲まれた息苦しい空間ではない。壁があるのは頭の上側と体の右側だけであり、その反対側は薄手のカーテンによって仕切られているだけである。

 視界を遮られているため、カーテンの向こうがどうなっているのかは分からない。しかし、恐怖や不安を強く感じることも無かった。目隠しになっているカーテンが、リボン柄の入った可愛らしいものだったからだ。


(私、可愛い場所に寝てる)


 脳天気にそんなことを思いながら、紗矢はゆっくりと上半身を起こし――、


「……っ!」


 見えた姿に声を上げそうになる。自分が横たわっていたベッドを背もたれにし、珪介が眠っていたのだ。

 慌てて口元を手で押さえ、出掛かった声をなんとか飲み込んだ。珪介の規則正しい呼吸も乱れていない。彼を起こさずに済んだことに、紗矢は安堵した。


(越河君)


 どこかから吹き込んできた穏やかな風が仕切りカーテンを大きくはためかせ、珪介の黒髪をも微かになびかせた。


(ずっとそばにいてくれたの?)


 室内の暖かさと珪介の寝顔が、紗矢の気持ちを穏やかにしていく。


(ずっとなわけないじゃない、バカ)


 自分の考えにこそばゆくなり、慌てて心の中で訂正を入れた。

 カーテンを通して入ってくる日差しが、珪介の表情を柔らかく浮かび上がらせる。


(子供みたい)


 いつもよりも温もりがあり、無邪気にさえ見える横顔にそんな感想を抱いた。


(でも越河君の表情って、子供の時も今もあんまり変わってないよね。無表情に近いままっていうか……ってことは、こんな無防備な表情を見られるのって滅多にないことかも)


 貴重かもしれないものを見れた事が嬉しくて、紗矢は小さな笑い声をあげてしまった。


(しまった!)


 珪介がぴくりと反応する。目を薄く開け、ちらっと紗矢を見て、そのまま動きを止めた。


「起きてる」


 眠気など一気に吹き飛んでしまった様子で、珪介が大きく目を見開いた。


「お早う、越河君」


「おはよ」


 珪介はお腹の上に伏せていた本にしおりを挟みパタリと閉じると、ベッドに手をついた。紗矢へぐっと体を近づける。思わず身を引いた紗矢の額に、珪介の大きな手の平が押し当てられた。


「……気分は悪くないか?」


 真剣な眼差しに、真剣な声。自分を気遣ってくれていることが痛いほど伝わってきて、紗矢の心がとくんと跳ねた。


「だ、大丈夫。平気」


 上ずった声音で答えれば、珪介が紗矢と視線を合わせた。近い距離で見つめ合っている状態に、呼吸が止まる。


「ならいい」


 珪介は瞳を細め、パチンと紗矢のおでこを叩いた。


「痛い! 何するのよ! 酷い! 最低!」


「それだけ騒げるなら、全快だな。もう病人扱いしない」


「えっ……今ので頭が痛くなりました。もうちょっとだけ病人扱いして下さい」


 珪介は苦々しい顔を浮かべながら立ち上がる。


「俺の方が病気になりそうだ」


 そして仕切りカーテンを一気に開けた。


「わぁっ、広い」


 部屋は教室のように広かった。部屋の四つ角にはそれぞれベッドが置かれていて、壁側に机や本棚に収納棚がベッドと同じ数だけ並べられている。どれも可愛らしく、お姫様を連想させるようなデザインのものばかりだ。

 部屋の中心にはふわふわの起毛がついた長方形のピンク色のラグがあり、そこにブラウンの丸いローテーブルが、テーブルの上の花瓶にはバラの花が生けられていた。


「すっごく可愛い部屋だね」


「俺は久しぶりに入った部屋がこんな事になってて、むしずが走ったけど」


 眉間にしわを寄せながら部屋の中を見回し、珪介はぶるっと身震いをした。


「珪介、交代するからランスと狩りに――おおっ、姫さん! 良かった! やっとお目覚めになりましたね」


 鼻歌混じりに室内に入ってきた忠実が、紗矢が身を起こしていることに目を止めると、紳士のように恭しく腰を折った。


「やっとって、私、どのくらい寝てたんですか?」


「六日間寝てましたよ」


「む、六日もですか?」


 驚きで珪介を見上げれば、彼も首を縦に振る。


「迷惑かけました。すみません」


「とんでもない! まぁこれで、祐治と唯と珪介は学校をサボる口実を失って残念だろうけどな」


 忠実にニヤニヤ顔で見られ、珪介の眉間の皺が更に深くなった。


「全く残念じゃない。逆にこの部屋から解放されることが、嬉しくてしょうがない」


「素直じゃないねぇ」

「本心だ」


「俺は紗矢ちゃんが起きちゃうと……あ、起きてもらって本当に良かったんだどね。女の子の匂いの詰まったこの部屋に堂々と入れなくなるのかと思うと、悲しくてしょうがないよ」


「変態」


 冷たい目で叔父である忠実を見ている珪介は、寝ていた時のあどけなさなど皆無である。


(さっきの眠っている越河君は、可愛かったなぁ)


 寂しさを覚えた紗矢の顔を、珪介の前に割り込んできた忠実が覗き込んだ。


「どうかい? 痛みはまだ残ってるかな?」


 言われて初めて、紗矢は自分自身を見た。

 身に着けているのは自分のパジャマではなく、ルームウエアのようなものだった。白のスウェット生地に、肩には薄ピンク色の小さなリボンがいくつかついている。この部屋に溶け込みそうなデザインだ。


(舞さんの趣味なのかな。可愛い)


「具合はどうかな?」


「あっ、すみません。えっと」


 紗矢は体よりも洋服の方に気をとられてしまったことを恥ずかしく感じながら、細かい花模様が散りばめられている掛け布団を少々強引に捲った。

 身に纏っていたものはワンピースタイプだったらしい。きわどい所まで上がってしまっていた裾を慌てて直せば、「そのままでも良いのに」と忠実が残念そうに呟いた。

 彼の言葉を聞こえなかったことにし、紗矢は自分の足に目を向ける。毛獣に噛まれた場所は、少しだけ黒ずんでいた。足首を慎重に回し、続けて乱暴に回す。そこにはもう、痛みも違和感もなかった。


「大丈夫です。有り難うございます」


「良かった。やっぱ俺って、腕良いよなぁ。五家一の薬師って言われるだけあるわ」


「自分で言うな」


「だって。誰も褒めてくれないし」


 いじけたように呟きながら、忠実は紗矢の足首に触れる。


「ちょっとは薄くなったかな。傷跡もあまり残らないと良いけどなぁ……紗矢さんの肌は傷がないからねー。どうせなら綺麗なままでいさせてあげたいよね。ちょっと薬の調合頑張ってみっかな」


「すみません。ありが……うっ」


 背中にぞくりと寒気が走った。忠実が紗矢の足首をなで始めたのだ。


「いやー、高校生の肌はすべすべで良いねえ。きめ細やかだし」


「やっ、止めて下さいっ!」


 掛け布団の中に足を隠せば、忠実は紗矢の手を掴み取った。手の甲を撫で始める。


「あ、あの、忠実さん。ちょっと」


「紗矢さんって、ほんと綺麗な肌だねー」


 珪介は気だるく息を吐いてから、忠実の肩に手を置いた。


「おい、何やってんだ。止めろ」


「珪介ー、お前もうここ良いから。紗矢ちゃんに何か飲み物とか持ってきて上げてよ。気が利かないな」


「バカ。この状態で紗矢を置いて行けるか」


 肩に乗せられた珪介の手を払いのけ、忠実は目を眇めた。


「どうせさぁ、お前だって寝てる間にどっか触ったんだろー?」


「はぁっ!?」


 忠実の一言で、一気に珪介の顔が不機嫌になる。怒りで口がへの字になった。


「何言ってんだよ」


「だって珪介、カーテンで締め切っちゃうからさ。カーテンの向こうで姫さんが珪介に襲われてるんじゃないかと想像すると、毎回仕切りを開けるのがドキドキ……いや、恐ろしくて恐ろしくて」


「くっだらない」


 忠実は紗矢の手を両手で包み込み、心の内を探るように目を細めた。


「ちょっと触れるくらい良いよねぇ? 世代は違うけど、俺も一応越河だし」


 もちろん、恋人でもない男にベタベタ触られるのは嫌に決まっている。しかし拒絶する前に、紗矢は忠実の瞳を見てしまった。


(越河君と似てる)


 そう思えばもう、邪険にあしらうことなど出来なかった。

 彼の瞳の奥には、濃緑の揺らめきがあった。赤と緑で、色素は違う。けれどその力の奥底に、珪介に通ずるもの――越河家の力の源を感じ取ってしまったのだ。これが珪介の言っていた、においというものかもしれない。


(越河の力が、私を怖いものから守ってくれる。この人達がいなければ、私は……)


 忠実は掴んでいた紗矢の手を己の口元に引き寄せた。


「紗矢さん可愛いし、求慈の姫なんて喰ったことないし、誰かのものになる前にちょっとだけお裾分けしてもらおうかな」


(……いや……恐い……早く助けて)


 紗矢はきゅっと唇を引き結んだ。


「止めろ、そのくらいにしとけ」


 珪介が再び忠実の肩に手を乗せたのを見て、紗矢は詰めていた息を吐き出した。忠実はそんな紗矢を見つめながら愉快そうに笑みを浮かべた。


「紗矢ちゃん食べてみたいなぁ。たぶん我慢できなくなって、抱いちゃいそうだけどね……今から、三人でどう? 珪介も入れてあげるよ?」


 ぐっと、珪介の手に力がこもった。痛みで忠実が小さく叫ぶ。


「珪介痛いよ――……っ!?」


 ゆらりと珪介から赤い光が立ち上った。


「わーー! ストップストップ! 悪かった。悪ふざけが過ぎたよ。ごめんって! 俺は、お前らの代の刻印持ちに手を出したりしないって! そっ、それじゃあ、俺が姫さんにジュースでも持ってこようかな。あはは。ちょっと待っててねぇ」


 忠実は急いで紗矢から手を離すと、飛ぶように部屋を出て行った。

 紗矢は自分の手を見た。忠実に掴まれていた左手は、微かに震えていた。今さらながら恐怖が込み上げてくる。

 深く息を吸い込みながら珪介を見上げ、紗矢は目を大きくする。彼から放たれる赤が、酷く薄かったからだ。背中で揺らめいているものも、あの見事な翼にはほど遠い。それどころか、図書館で見た光よりもぼんやりとしている。


(越河君、どうしたんだろう。疲れてる、とか?)


 聞くべきなのかどうか迷っていると、珪介が強い瞳で紗矢を見下ろしてきた。


「紗矢は、早く蒼一兄さんに惚れた方が良い」


 苛立ちと共に放たれた言葉が、心に深く突き刺さってきた。


「……なにそれ」


 紗矢は身動きもとれず、ただじっと珪介を見つめる。珪介も紗矢を見つめ返す。しかしすぐに視線を外すと、口を開いた。


「五家の男達は、身に宿した鳥獣の力を利用して、紗矢のように力を持つ女の心を抑え込む事が出来る」


 彼の淡々とした声音に、紗矢の心が重苦しくなった。


「忠実や俺がお前にしたように」


 自嘲を含んだ笑みを珪介は浮かべた。


「俺たちは越河である以上、この力を使えば簡単に、お前の気持ちなんて無視して好きなように出来るってことだ」


(……やだ……そんな風に言わないで)


 刻印を受けたあの夜、俺はお前に遊び半分で触れたのだと言われている気がして、虚しさが沸き起こる。


「でも、それは今のお前だから」


 俯いている珪介の表情が、一層冷ややかになった。


「お前が誰かに惚れてるなら、こっちだってそう簡単に心の中につけ込むことは出来ない。しっかり拒絶されるからな」


 珪介が紗矢に目を戻した。視線がぶつかり、今度は紗矢が瞳を伏せる番となる。


「でもお前は今、簡単につけ込まれた。それは俺たち三人に、心が反応してないから」


 紗矢は手で胸元を抑え――、


(それは……きっと違う)


 ぎゅっと拳に力を込めた。

 廊下から賑やかな声音が聞こえてきて、珪介は息を吐いた。


「良いか紗矢。オモチャにされたくないなら、越河の上の世代の奴らと二人っきりになるな。嫌な予感がしたら、修治と祐治の傍を離れるな。あの二人は安全だから」


 それだけ言って、珪介は歩き出した。


(待って)


 無意識に動いた指先が、珪介の服を掠める。


(行かないで)


 珪介は振り返らない。彼の手によって扉が開かれれば、修治や舞の楽しそうな声が一段と大きくなった。


「越河君」


 やっとの思いで絞り出した声も、彼には届かない。バタンと戸が閉まる。寂しさで体が震えた。


(忠実さんの手を振り払えなかったのは事実だけど……でも私、止めてくれるって)


 紗矢は宙に浮いたままの手をぎゅっと握りしめた。


(きっと越河君が止めてくれるって、越河君が私を助けてくれるって思ってた)


 窓から差し込んでいた日差しは、いつの間にか鳴りを潜め、広々とした部屋が薄ら寒い場所へと姿を変えていく。

 紗矢は膝を抱えた。


「……私、越河君のこと」


 そして、行き場のない愛しさと涙の流れ落ちる顔を隠すように、額を膝に押しつけた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る