第21話 一日の終わり、3


「越河君のブレザー、返すの忘れると嫌だから」


「……何だ、まだ残ってたのか。とっくに峰岸に捨てられてると思った」


「そんなことさせるわけないじゃない」


 紗矢は今一度珪介のブレザーを広げ見て、笑みを浮かべた。


「良かった、これ越河君ので合ってたんだ……あのじゃあ、私のブレザーは」


「俺が持ってる」


 そっけなく返答し、珪介は窓から外の様子を確認する。


「ランス、外を頼む」


 ランスは珪介の言葉に素直に従い、部屋から飛び立っていった。珪介が窓を閉めれば、部屋の中が静かになる。


(越河君が私の部屋にいる……な、何か変な感じ……しかも緊張する)


 数時間前に卓人を部屋へ入れたときは、早く家を出ることで頭がいっぱいだった。だからそんな余計な感情はわき起こらなかったのだが、今は少し違う。紗矢は落ち着かなくなり、そわそわと部屋の中を歩き出した。


「そ、そうだ。上着返すね。有り難う。凄く温かかった」


「あぁ」


 パジャマの上に羽織っていた珪介のライダースジャケットを脱ぎ、彼に手渡した。


「何か羽織れよ、視界に入るだけで薄ら寒い」


「……は、はい」


 珪介の目線が自分のパジャマをなぞった。早まった鼓動と熱くなった頬に焦りを感じ、急いで彼に背を向ける。

 机の上にブレザーを置き、そしてクローゼットで上着を探しながら……紗矢は横目で珪介を見た。彼はジャケットを羽織りながら、部屋の中に視線を彷徨わせている。結界の場所を探しているのだと分かってはいるのだが、見られていることに対する恥ずかしさは拭い去れなかった。


「あっ、あんまり見ないで!」


「しょうがないだろ。結界場所を見落とすわけにはいかない……って、なんだよ。見られたらマズいモノでもあるのか?」


「別にない……あっ!」


 見られたくない物はある。鏡に付けている写真だ。一見すれば紗矢と若葉なのだが、珪介ならその後ろに自分が映り込んでいることを気付くように思えた。

 紗矢は一歩を踏み出す。しかし足首に差し込んだ痛みに、ぐらりと身が傾いた。珪介の腕が、前のめりに倒れそうだった紗矢の体をすぐさますくい上げる。


「冗談で言ったのに、その反応。何かあるんだな」


「ないっ! ないってば!」


 珪介の視線がまた彷徨い出した。彼の目が写真にとまり、紗矢は息を止める。しかしそこに触れることなく、再び珪介の目線は移動しはじめた。


「ここか」


 呼吸を再開した紗矢を離し、珪介は机の方へ歩いて行った。


「……これは何の絵だ。雪男か?」


 机の上の壁に、紗矢が小学校の頃描いた絵が飾られている。


「家族画よ! その白い服はお父さん!」


「へたくそ」


「放っといて!」


 父の日に描いた絵だ。この絵は父のお気に入りとなり、簡素な額縁に入れずっと飾られてあったのだ。額縁と壁の隙間から、珪介が割れた球体を取り出した。


「こんな所にも」


「マツノさんに感謝するんだな」


「うん……少し遅いけど」


 紗矢はクローゼットから真っ白なコートを引っ張り出し袖を通すと、しみじみと自分の部屋を見回した。


(ちょっと寂しいな)


 峰岸家と越河家。場所は違えども、やっぱり自分は家を出る事になったのだ。


「洋服とか、全部持って行った方が良いの?」


「いや。今は上着だけで良い。必要だと思う物は、また日を改めて取りに来れば良い……その時は蒼一兄さんか、俺か、修治と一緒の行動になるけど」


 落ち着いた声音に沈みかけていた気持ちが持ち上げられていく。


「お前が望めばいつでもここに帰ってこられるんだ。だからそんな顔するな」


「……うん。有り難う」


 励まされたことに嬉しくなり紗矢が微笑めば、珪介も微かに笑みを浮かべた。珪介はすぐに表情を戻し、手の中にある割れた球体に視線を落とした。


(越河君)


 その名前を唱えるだけで、心が甘く疼く。机の上から彼のブレザーを掴み取り胸元で抱き締めた時、先ほどと同じように珪介の体から赤い光があふれ出した。


「……あっ」


 腕の中にあるブレザーからも、彼の光が立ち上ったような気がした。自分の力を石に閉じ込めた後、珪介はぽつりと呟いた。


「どうした?」


「さっき祐治君に、私の力の余韻がお母さんに移ったから、私がいなくなった後でも、この家にあの生き物が呼び寄せられたって話をされたんだけど……これにも残ってる? 越河君の余韻」


 珪介は紗矢の腕の中にある自分のブレザーをちらりと見た。


「あぁ、残ってるだろうな。だからよく峰岸は捨てなかったなって。もし俺の手元にアイツのニオイがついてるモノがあったら、速攻処分する。イライラするから」


「あはは、なるほど。峰岸君も言ってたよ。越河臭いからブレザー脱いでって」


 珪介は赤く染まった石を絵の陰に慎重に押し込むと、紗矢へと振り返った。涼しげだった口元にふふっと笑みが浮かぶ。


「お前、俺のブレザー着てたのか」


「えっ……あの。寒かったから。その」


 珪介は静かに歩み寄り、紗矢の髪の毛を摘まみ取った。そして、くるりと自分の指に絡める。


「お前もちょっとイライラする。峰岸のニオイがするから……抱き締められただろ」


 忘れかけていたが、卓人には何度か抱き締められている。思い出した記憶につい渋面になれば、珪介の指先が毛先から離れていった。


「喰われてもいる」


 長い指先が、紗矢の唇をなぞっていく。今朝卓人に唇を重ねられ、喰われたことを思い出せば、自然と瞳が揺れた。

 珪介はムッとしたように目を細めた。


「顔に出すぎだ。腹立つ」


「……じゃあ、越河君は私のこと処分する?」


「馬鹿」


 見下ろされる瞳に、体の内側がカッと熱くなった。恥ずかしさに耐えられなくなり、その手から、その距離から逃げだそうとした瞬間、珪介の指先に力がこもった。

 彼の瞳に赤が生じる。現れ出た彼の色が、紗矢の動きを封じた。


「逃げんなよ。峰岸がもう触れたくならないように、俺のにおいで満たしてやるから」


 額に、頬に、珪介の唇が優しく触れる。言葉とは真逆な唇の優しさに身を震わせれば、珪介の口角が満足げに上がっていく。

 形の良い唇がもう一つの柔らかな感触を求めるように、ゆっくり近付いてくる。紗矢はゆっくりと瞳を閉じた。珪介の唇が微かに触れた――……その瞬間、窓の向こうでブーイングが起きた。

 揃って顔を向ければ、青い鳥がギャーギャーと騒いでいる。珪介は紗矢から顔を離すと、イライラと前髪をかき上げた。


「下に降りるぞ」


「……う、うん」


 熱のこもった頬を手の平で抑えながら部屋の電気を落とし、紗矢は珪介に次いで部屋を出た。

 しわになっている珪介のブレザーを震える手で抱え持ち、ぎこちなく階段を降りれば、既に玄関には忠実、舞、祐治に修治の姿があった。


「封印、無事済んだか?」


 あっけらかんとした声で問いかけてきた修治を、珪介はじろりと睨み付た。


「なっ、何だよ! 何、睨んでんだよ!」


「別に」


「別にって顔じゃねーだろ、どう考えたって! 不機嫌をまき散らすな、この野郎!」


 珪介の態度に憤慨する修治を、舞と祐治が「五月蠅い!」と一括する。


「珪介、しっかり張れたのか?」


「あぁ。問題無い」


 素っ気ない返答を聞いてから、忠実は紗矢に目を向けた。


「紗矢さんも疲れているでしょうし、今夜は長居せずに行きますよ」


「はい」


 祐治と修治と舞が「お邪魔しました」と声を揃え、一足先に外へ出た。


「気を付けて」


 靴を履いていると、母が後ろから小さな声を掛けてきた。紗矢はくるりと身を返し、ニコリと微笑んだ。


「行ってきます」


 父も母も、精一杯の笑みを返してくる。だから紗矢も、寂しさを押し殺し笑顔を向けた。


「お邪魔しました」


「些細な事でも良いので、何かあったらまた電話してください。力になります……それではまた」


 珪介と忠実と共に、紗矢は家を出た。冷たい風が頬にあたり、熱を冷ましていく。

 車の上を旋回していた三羽の鳥獣が、警戒するような鳴き声を発した。ブレザーを持つ手に力を込めれば、舞が足早に走り寄ってきた。


「片月さん、そのコート可愛い!……って、何持ってきたの?」


「制服のブレザーだよ。越河君に借りてたんだ」


「越河って……」


 疑問符の浮かんでいるような顔をされ、紗矢は慌てた。ここにいる男性はみな越河なのだ。


「祐治? それとも珪介? どっち?」


「おい、舞! なんで俺の名前を入れない!」


「どう考えたってアンタなわけないじゃない」


「ってめ! 俺かもしれねぇだろ」


「ないない。絶対ない……それより、片月さん」


 修治と舞のやり取りに苦笑いを浮かべていたが、また舞の興味が自分に戻って来たことに気付いて、紗矢は背筋を伸ばした。


「何?」


「もう刻印も、求慈の姫仕様になってるの? 見せて」


「求慈の姫仕様って? わわっ、ちょっ」


 舞は遠慮なく紗矢の胸元に手を伸ばし、パジャマの襟元に指を引っかけると、中を覗き込んだ。


「どれどれ」


 舞に胸を見られたことに硬直している紗矢へと、修治はついでのよう手を伸ばした。


「ふざけんな」


「変態」


 がしかし、修治の指先は珪介に思い切り握られ、頬には舞の平手打ちが炸裂する。


「まだ私たちと同じなんだね。これから変わるのかな」


「かもな」


 淡々と意見を述べ合う珪介と舞の隣で、修治は悶絶する。


「いってぇな。ちょっとふざけただけだろ!」


「修治」


「何だよ、珪介っ!」


「お前、いちいち五月蠅いんだよ」


 修治を冷たい目線で一突きし、珪介は車に向かって進んでいく。


「なんだよさっきからぁ! お前、何怒ってんだよ!」


「別に」


「二回も別には有り得ねぇ! 言え! ちくしょう!」


 珪介は口を開くことなく、そのまま車へ乗り込んだ。後を追いかけ車の中を覗き込んだ瞬間、紗矢は手を掴まれた。珪介に後列のシートへと引っ張り込まれた。

 落ち着かないまま彼の隣に座り窓の外に顔を向ければ、父と母が頭を下げ、忠実が慌てふためいているのが見えた。

 黒い鞄を抱え持った祐治が助手席のドアを開ければ、舞も修治が車へと乗り込んでくる。二人が真ん中の座席に身を投げ出すように座れば、車が少しだけ揺れた。

 舞は背もたれに両手をついて、紗矢に顔を向けてきた。


「でも本当に良かった、片月さん無事で。私心配でさ、いても立ってもいられなくて、ここまでついて着ちゃったんだ」


「有り難う、萩野さん」


「舞でいいよ。これから宜しくね! 紗矢ちゃん!」


 舞の飾らない物言いに感激していると、運転席からバタリと扉の閉まる音が聞こえてきた。忠実が乗り込んだらしい。

 紗矢は車の外にいる両親に向かって手を振った。父は組んでいる腕を解かなかったが、母は寂しさのこもった笑み浮かべながら手を振り返してくれた。

 静かにゆっくりと車が進み出す。遠ざかっていく二人を見つめていると、一番前の座席からしっとりした声が聞こえてきた。


「いきなり娘を持って行かれたら、寂しいでしょうね」


 祐治だ。


「寂しいだろうな……でもまぁ、いきなりではないと思うぞ。あの二人は覚悟していたと思う。マツノさんが亡くなったあの日から」


 しみじみとした口調で忠実が呟き、ハンドルを切った。


「一番覚悟出来ていなかったのは、紗矢ちゃんでしょ? 突然見知らぬ家に住むことになって。何でも言ってね!」


 また舞が振り返った。紗矢は「有り難う」と言葉を返した。


「育った場所だから、四兄弟も私たちも気兼ねすることなく過ごしてきたけど、紗矢ちゃんは違うんだからね、気を遣って上げなさいよ、特にアンタ――っ!?」


 舞が修治を覗き見て、固まった。程なくして小さなイビキが聞こえてきた。


「ちょっ、修治!? もう寝てるとか信じられない! なにそれ!」


「兄さん、幻滅です」


 祐治が苦々しい声を発すれば、忠実がハハッと笑い、珪介が額に手を当てた。紗矢も笑みを浮かべたが、気持ち良さそうな寝息を聞いているうちに、次第に眠気が込み上げてくた。

 欠伸をすれば、珪介の手が伸びてきた。


「お前も寝ろ」


 肩を掴まれ、そのまま引き寄せられる。紗矢の体は珪介にもたれかかる形となった。


「……眠りたくない」


「頑なだな。何で?」


 不思議そうな瞳を見つめ返しながら、紗矢は珪介の腕を掴んだ。


「起きたら、いなくなってた」


 珪介に手当てされ心地よさに眠ってしまった昼。目が覚めたら、そこには卓人がいた。


「……もう絶対いなくなったりしない」


 そっと頭を撫でられる。


「だから、寝ろ」


 珪介の言葉が紗矢の瞼を重くする。カタリカタリと車が揺れる。

 遠くで、祐治と舞と忠実がぽつぽつと言葉を交わしているのが聞こえた。明るく楽しげな声音。和やかな雰囲気。自分がこの場にいられることの嬉しさが込み上げてくる。

 体が沈んでいくような感覚に陥れば、足首の痛みと胸元の痛みが主張を始めた。

 卓人の言葉を思い出す。君は刻印を授かり求慈の姫になる、のだと。


(求慈の姫に私がなることを、越河君たちも期待してるんだよね)


 心の中に渦が巻き始める。


(私はちゃんと求慈の姫になれる?)


 刻印が焼けるように痛くなっていく。


(越河君たちにここまでしてもらって……もしなれなかったら)


 ガタッと車がはね、紗矢はびくりと体を揺らした。薄く瞳を薄く開ければ、彼の指先がそっと自分の指先に絡んだのが見えた。少しだけ身じろぎして珪介を見れば、その口元がちょっとだけ緩やかになった。


「おやすみ」


 珪介の声が心の中に染みこんでくる。

 一瞬、脳裏に若葉の顔がちらついた。けれど紗矢は振り切るように瞳を閉じた。


(この手を……)


 繋がっている手を、きゅっと握りしめた。


(私は、この手を離したくない)


 彼の温もりを心に抱いたまま、紗矢は深い眠りの底に落ちていった。











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