第20話 一日の終わり、2
「忠実叔父さん。車に薬は乗せてありますか?」
テーブルの下に置かれていた黒いバックの中身をごそごそとあさりながら、祐治が忠実に問いかけた。
「紗矢さん、結構足首の痛みを我慢してると思います。痛み止めの薬を出してあげた方が良いです」
「あぁ、そうだね。持ってきてると思うから、探してみて」
「はい」
そう言って車のキーを祐治に手渡すと、忠実は表情を改めながら舞の隣へ腰掛けた。
「さて。話を続けましょうか」
忠実は目の前に座る紗矢の父親を、じっと見つめる。普段、紗矢の父親は朗らかで物静かな男であるが、今はその表情をはっきりと強ばらせていた。
これ以上話に乗り遅れないようにと、紗矢も忠実の言葉に耳を傾ける。
「力を持つだけじゃなく刻印を受けたからにはもう、紗矢さんに護衛を付けるのは絶対です」
母も父の隣の椅子に腰を下ろし、深刻げに眉根を歪めた。
「うちの四兄弟の誰かがこちらにお世話になって紗矢さんを守るってことは……もちろん可能です。そうなると一番の適任者は、ここにはいませんが長兄の
ドアの付近に立っていた修治は腕を組み、しかめっ面をした。
「けど彼は今越河の大事な仕事を任されているので、ほとんど家に居ません。ですから高校生の紗矢さんに四六時中つきっきりというのも無理でしょう」
紗矢の傍に立っていた珪介が、窓の近くへと静かに歩み寄っていく。
「なもので、ここにいる珪介と修治の二人を置かせて頂くことになります。紗矢さんの力の強さを考慮すると一人では心許ないので、申し訳ありませんが二人セットになります」
テーブルを挟み真剣な顔を向き合わせている四人と、窓の外をじっと見つめる珪介の背中を、紗矢は交互に目を向けた。
「しかし越河から二人抜けるのは、こちら側には正直厳しいです。越河家には刻印持ちの女の子が他に三人います。こちらの警備が手薄になります」
「あのっ! 残りの三人は、私と、私の姉と妹です」
突然の告白に改めて舞を見れば、彼女はニコリと笑いかけてきた。
「私たちはみな片月さんと同部屋になります。それに私は同い年ですし、片月さんが不安に思うこともしっかりサポートできると思います」
「紗矢さんをこちらで預からせてもらえれば、珪介に修治、祐治、帰宅している時は蒼一の、全ての目が紗矢さんに向けられますし、みなが即座に行動できます。よりよく紗矢さんの身を守れます」
父が短く唸り声を上げて、腕を組んだ。重苦しい雰囲気を気にすることもなく、珪介はカーテンレールの上に飾られている小さな絵をじっと見上げている。
生前、祖母が描いたチョコレートコスモスの絵だ。庭に咲いた花を前にし絵を描いていた祖母と、その周りで遊んでいた幼い自分を思い出した。チョコレートコスモスの花の深い色は、暗闇の中で見た珪介の翼を連想させる。
テーブルで続く真剣な話も気になるが、紗矢は立ち上がり珪介へと歩み寄った。
「越河君、どうしたの?」
「リビングは、ここか」
「……そうです。ここはリビングです」
「違う。そういう意味じゃない」
英語の教科書のような返答をすれば、珪介が腹立たしい様子で眉根を寄せる。
「すみません。ちょっと外が気になるので、先に結界張っても良いですか?」
くるりと身を翻し涼しげな顔の珪介から出た言葉に、父も母も目を瞠った。
「俺たちがお世話になるとしても、紗矢さんが越河に来るにしても、これはやらないといけないことですし」
「そうだな。夜も遅いし、早めに取りかかりなさい」
忠実の言葉に珪介は頷き、絵に手を伸ばした。その陰から慎重に何かを掴み取る。
「駄目だ。完全に割れてる」
彼の手元を覗き込むと、そこには真っ白な球体が乗っていた。
「……これ、お祖母ちゃんの」
疑問と共に見上げれば、珪介が「あぁ」と囁くように呟いた。
「忠実オジ、守護石は?」
「そのバックの中に沢山入れて持ってきたよ」
「へいへい……これか?」
修治は黒のバックからぱんぱんに膨らんだ巾着袋を取り出し中身を確認し、すぐに珪介の元へ向かう。珪介は皆の視線を感じ顔を上げると、綺麗な笑み浮かべた。
「マツノさんの残した結界場所を利用して、俺たちが新たに結界を張ります。すみません、少し家の中を歩かせてもらいますが……宜しいですか?」
「えぇ」
母が戸惑い、そして頬を染めて返事をしたとき、祐治が慌てた様子でリビングに戻ってきた。
「外に集まってきています。今はまだ鳥たちが追い払える程度ですけど、急いだ方が良いかもしれません」
祐治の言葉を聞いて、紗矢は窓際へと向かう。車の屋根に鳥たちの姿はなかった。そっと瞳を閉じ意識を研ぎ澄ませば、瞼の裏に禍々しい揺らめきが見えた。慌てて目を開き、紗矢は身を震わせた。
「大丈夫だ、任せとけ」
そっと珪介の手が紗矢の肩に乗せられる。紗矢は小さく頷き返した。
「義理の母を思い出しました」
珪介に信頼の眼差しを向けている娘を見つめながら、紗矢の父は腕を解き切なそうに言葉を紡いだ。
「
紗矢の母が寂しそうに相づちを打つ。
「母さんが普通と違うことは私にも分かっていました。そして妻も娘もまた少しだけ」
沈んだ音で言葉を繋げる父を見て、紗矢は思わず珪介の腕を掴んだ。
「娘を手元に置いておきたい。そう強く思います。けれど……今日のことで身に染みました。残念ですが、私たちには娘を守るだけの力がない」
紗矢の母が洋服の上から自分の腕をさすれば、父は労るようにその手に触れる。
「貴方がたの傍にいるのが、より安全だと言うのならば……娘を宜しくお願い致します」
父が忠実に頭を下げれば、忠実が「顔を上げてください」と慌てふためいた。それを見つめていた珪介の面持ちが、より真剣なものに変わっていく。
「修治」
「ほらよ」
珪介が手を出せば、修治が袋の中身を掴み取った。透明な小石が手の平へと乗せられる。球体に意識を集中させるように、珪介は瞳を閉じた。体からふわりと赤い光が舞い上がり、その光が球体へと吸い込まれていく。
(やっぱり、綺麗)
鼓動を高鳴らせ、紗矢はうっとりとした表情で珪介を見た。光が収まったその時にはもう、彼の手に乗っていた球体は赤色に染まっていた。父と母が、驚きの表情を浮かべた。
「これが割れると俺が気付きます。その時は飛んで来ますので」
「よし。俺は一階、珪介二階」
「了解」
修治と珪介が揃ってリビングを出て行こうとする。紗矢もつい後を追うが、気付いた珪介に制止される。
「ソファーに大人しく座ってろ」
びしっとソファーを指さされ、紗矢は頬を膨らませた。
「でも、気になる」
「駄目です。紗矢さん、座ってください。ガーゼを取り替えますから」
祐治にもそう言われ、紗矢は「わかりました」と大人しくソファーに腰を下ろした。珪介達をのみ込んだ戸口をじっと見つめていると、祐治がふふっと笑みをこぼした。
「何?」
「いいえ、なんでも。ちょっと触れますね」
「はい」
珪介と同じような手つきで、祐治が紗矢の足首に触れる。感じた容赦ない痛みに、紗矢はうっと目を細めた。
「忠実おじさん。持ってきた薬はここに入ってます」
「あいよ。それじゃ、奥さんにもいくつか薬を置いておきますね。ちゃんと塗ってください」
忠実は立ち上がり、黒い鞄から塗り薬の容器をいくつか取り出しテーブルへと置いた。祐治の傍に無造作に置かれている手提げバックの中から半透明の小さなケースを取り出し、忠実は直接母に手渡した。
「こっちは錠剤。痛み止めです。異形に噛まれると数日は痛みます。我慢できないときは飲んでください」
告げられた言葉に顔を上げれば、母が腕を摩りながら「はい」と呟いた。
「お母さん、腕噛まれた――っ、いたっ!」
「すみませんっ。珪介兄さんにみたいに、出来るだけ丁寧を心がけますから」
「へ、平気。それに越河君の手当ては全く優しくなかったよ。どちらかと言えば荒療治みたいな」
「えっ……求慈の姫の器を前にして、緊張で繕うことができなくなった……訳ありませんよね、珪介兄さんなら、尚更」
(求慈の姫、か)
ぼんやりと光の鳥獣を思い描き、刻印があるだろう場所を触れれば、祐治が声を潜めて問いかけてきた。
「ちょっと聞いても良いですか?」
目の前の彼はちらりと忠実を見やった。気にしているようだ。
「何?」
「紗矢さんは、去年珪介兄さんと違うクラスだったんですよね?」
「うん」
つられて紗矢も小声になった。
「何度か話しました?」
「ううん。一言も」
「接触無しですか?」
「……一度だけ思いっきり睨まれた」
「……その割には、仲良いですよね」
あまりにも祐治の顔が真剣すぎて、紗矢は苦笑する。
「仲が良いかはよく分からないけど、私たち子供の頃一度会ってるから」
「えっ?」
「迷子になった時、越河君があの気味の悪い獣に襲われそうになった私を助けて……」
祐治は表情を固まらせたまま、己の唇に人差し指を押しあてた。それ以上は言うなということだと理解し、紗矢は口を閉じた。もう一度、祐治は忠実を振り返り見た。
リビングのテーブルを取り囲む四人は盛り上がっていた。忠実の指は、あのねっとりとした薬品らしきものが入った小瓶を摘まんでいる。
「これね、良いんですよ! ぜひ、奥さんに塗ってあげてください! 寝室か、お風呂場で」
興奮し力説する忠実に、舞がこっそりと蹴りを入れる。その様子に少しだけ息を吐いて、祐治は紗矢の足下に視線を落とした。
「あの、紗矢さん。それ誰かに言いました?」
「言ってないよ」
「だったら、口外しないでください。越河の上にそのことが知れたら、珪介兄さんきっと怒られますから。お願いします」
「う、うん」
祐治は顔を上げないまま薬を塗り、新しいガーゼを当て直す。ぴりぴりとした痛みが足から体全体へと広がった。
「痛いっ!」と母が叫んだ。袖を捲り上げたその下に、真っ白な包帯が巻かれていた。
「お母さん、あの時噛まれてたんだ……私、一杯いっぱいで気づけなかった」
卓人に言えば、薬くらい置いていってくれただろう。自分の気が回らなかったことを紗矢は悔やんだ。
「いえ……紗矢さんが峰岸に連れて行かれた後、また異形の襲撃にあったんですよ」
祐治は壊れ物を扱うように足首に持ち上げ、包帯を巻き始めた。
「そんな……私が離れれば、いなくなると思ったのに」
「殆どは一緒に移動したと思いますけど、紗矢さんの残り香につられて戻って来たのもいます」
「残り香?」
「ぎゅって抱き合ったでしょ? それで多少は移るんです。紗矢さんニオイというか、力の余韻が」
卓人の声音を思い出す。
『お別れのハグでもしたら?』
彼は確かにそう言った。そして自分はその言葉通りに行動してしまったのだ。紗矢は思わず唇を噛んだ。
「でも大丈夫です! そこまで酷い傷にはなってないですよ。異形の獣はスイが追い払いましたから」
「スイ? あの水色の鳥獣のこと?」
「そうです。あの水色の鳥獣は僕の鳥です。名前は、修治兄さんが子供の頃付けてくれたんですけど、水色だからスイ。修治兄さんも自分の鳥獣を空みたいに青いからソラって付けて。ネーミングセンスゼロですよね」
祐治は紗矢と一緒に笑いながら、包帯をきゅっと結んだ。
「よし。後は……痛み止め、飲んでおきますか? 傷だけじゃなくて、刻印もチクチク痛みますよね」
紗矢は胸元を抑えた。確かにチクチク痛い。
祐治は台所で薬を飲んでいる紗矢の母の元へ行き、「紗矢さんにもお水を」と要求する。すぐに母がグラスに水を注ぎ始めた。
祐治が持ってきた真っ白な錠剤と水をごくりと飲み込めば、二階からゴトリと物音が聞こえた。紗矢は視線を天井に向ける。
「そうだ……越河君に制服のブレザーを返したいから、私も上に行って良いかな」
「ブレザーですか? 分かりました。走ったりしないで、出来るだけゆっくり歩いてくださいね」
祐治の柔らかい笑顔に癒やされつつ、紗矢はゆっくりと立ち上がった。テーブルでは、まだ舞と忠実と父親が談笑している。
そっとリビングを出て階段を登れば、物置になっている二階の奥の部屋に人の気配があった。紗矢は自分の部屋へ真っ直ぐ進んでいく。扉を開け、真っ暗だった室内に明かりを灯した。
ハンガーに掛けてあったブレザーを手に取り、本人に返せることに胸を撫で下ろした時、窓の向こうの木に赤い鳥獣が舞い降りてきた。
「ランス!」
紗矢は走りそうになるのをなんとか堪えながら、窓に歩み寄る。カラリと開ければすぐに、ランスが部屋の中に飛び込んできた。
「翼、大丈夫?」
紗矢が手を伸ばせば、赤い躰が足下にすり寄ってきた。心配そうに何度も何度も。
(柔らかい、温かい、大好き)
躰を撫でれば、グルルと甘え声を発する。
「やっぱり可愛いっ!」
ぎゅっと抱きつけば、後ろからため息が聞こえてきた。
「お前なぁ、下にいろって言っただろ? 鈍いにも程があるぞ」
文句を口にしながら珪介が紗矢の部屋へと入ってきた。
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