第19話 一日の終わり、1
坂をくだり赤い橋を渡れば、慌ただしかった珪介の足音が、落ち着いたリズムに戻っていく。
紗矢は珪介の肩を掴んで、今来た道をじっと見つめた。
駆けゆく風に翻弄されるように、木々がザワザワと葉を揺らしている。視線の高さが違うからか、それとも自分を取り巻く環境が変わりつつあるからか、学校へと続く坂道が全く違う景色に見えた。
眠けに飲み込まれそうになるのを堪えながら指先に力を込めると、今朝見た光景がふっと脳裏を過ぎった。目映い朝日の差すこの坂を、並んで登って行く二つの背中。珪介と若葉。
「越河君」
「何?」
「……大丈夫。私、降りる。学校までだって走って来れたんだから、ちゃんと一人で歩けると思う」
「お前、走ってきたのか」
珪介の腕の上で身じろぎをすれば、大仰なため息が発せられた。
「降ろさない」
「でも、私重いし」
「お前は鈍いんだから、このまま黙って抱えられてろ」
「鈍くない!」
「黙れ。そして寝ろ」
「ねっ、寝るのは、ぜぇったいに嫌っ!」
「近距離で叫ぶな、耳が痛い」
ふと珪介の足が止まる。
「何だよ」
訝しげな視線を辿れば、少し前を歩いていたはずの修治がこちらを見ていた。腕組みをし、そして難しそうな顔を浮かべている。
「何だよって言葉、そのままそっくり投げ返す!」
「は?」
「珪介、お前なんで片月紗矢に素なんだ! いつもの善人ぶりはどうした!」
「あっ、修治兄さんも気がつきましたね。さっき僕も、二人のやり取りを見て違和感というかなんというか」
「素? 善人?」
紗矢は疑問混じりに修治の言葉を繰り返した。珪介は面倒くさそうに紗矢から視線をそらす。
「あ、えーっと。珪介兄さんは力のある女の人に甘い顔をするっていうか、すこぶる優しいっていうか……でもそれが、一つの手だったりすると思いますけど」
「片月、お前も珪介に胡散臭い善人面されなかったか?」
祐治が言葉を濁し説明する横で、修治は苦々しい顔を浮かべながら紗矢を指さした。
「あ、心当たり有るかも。でも……」
紗矢は言い淀んだが、言葉の続きを待つようにじっと見つめる修治の視線に負け、言葉を続けた。
「……気持ち悪いから止めてって言った」
「片月! お前、俺と気が合うじゃねーか! だよな、アレは気持ち悪いよなー」
「うん。少しだけ」
「頼まれたって、俺はお前らに愛想良くしない。安心しろ」
珪介の歩幅が大きくなる。乱暴な歩き方に、紗矢は珪介の肩を掴み直した。満足げに頷いている修治を追い抜き様に睨み付け、そして珪介は紗矢にも不満げな瞳を向けた。
すぐに弁明しようと紗矢は口を開いた。がしかし、言葉を発する前に、露骨に目をそらされてしまった。
そんな二人にはお構いなしに、修治は両腕を頭の後ろで組みながら、機嫌良く珪介の前へと進み出る。「修治兄さんは、一言多いですよ」とたしなめつつ、祐治も修治の隣へ戻っていく。二人の足取りは気軽なものだった。長閑な昼下がりの散歩かと、勘違いしそうになるほどだ。
(どこに行くんだろう)
ふとそんな疑問に囚われた。
「越河君、どこに向かってるの?」
「あっち」
珪介は短い言葉を吐き捨て、紗矢を見ようともしない。剣呑な態度に、紗矢は狼狽えた。寂しさが込み上げてきて、珪介の肩をぎゅっと掴んだ。
「最初から、あんな風に優しくされてたら、気持ち悪いなんて絶対に思わなかったよ。むしろ――……」
――むしろ、好きになってた。
そんな言葉が飛び出しそうになり、紗矢は口を噤む。
「むしろ、何?」
「なんでもない! とっ、とにかく。私は越河君のこと、ずっと怖い人だと思ってたの」
もし低温の眼差しではなく、図書館で少しだけ見せたあの優しい眼差しを最初から向けられていたら。
『俺が傍にいる』
若葉にも言っていたその言葉を、もっと早く彼が自分に紡いでくれたなら。
(私も若葉と同じように、越河君を好きになってたかもしれない)
ほんの少し心が苦しくなる。刻印がちりっと痛んだ。
「お前、怖いヤツに友達になろうなんて言ったのか? 物好きだな」
「え?……ちっ、違う。遡りすぎだよ! 私が言ってるのは去年の話!」
「何だ、最近の話か」
「何だ、じゃない! 言っておくけど、私、すごく落ち込んだんだからね」
「落ち込ませるほど、俺はお前に接触してない」
紗矢は瞳を伏せた。
「越河君、私のこと思いっきり睨んだじゃない」
声が段々しぼんでいく。
「だから……再会できて嬉しかったのは、私だけだったんだって分かって」
珪介の足が再び止まった。
「……紗矢」
名を呼ばれ視線を上げれば、彼は驚きに満ちた顔をしていた。驚きに悲哀が混ざっていく。今は赤を抱いていないというのに、紗矢は彼の瞳に魅入られていた。じわりと心に熱が広まり、涙まで込み上げてくる。
「紗矢――」
「よっし、到着ーー!」
修治の持つ無骨な雰囲気が、二人の間にも散布される。
「はい、ピンポーン!」
声真似とインターフォンの音と珪介の舌打ち音が、同時に鳴り響いた。
「あっ」
聞き覚えのある音色に、紗矢は反応する。
「……私の家」
いつ帰れるのか、もしかしたらもう帰れないかもしれないと覚悟していた自分の家が目の前にあった。ホッと肩の力が抜けるのを感じた時、玄関の扉が開いた。
「おっ、姫さん奪還、お疲れさん。誰一人も欠けることなく、良かった良かった」
紗矢の表情が瞬時に強ばった。扉を開け出てきたのが、見知らぬ大人の男性だったからだ。
「バッカ! 欠けるわけねぇだろ! お邪魔しまーす」
「はい。今回は峰岸卓人が刀を持ってませんでしたから。お邪魔します」
「あー。だから大きな怪我もなく、帰ってこられたのね。君たち、なんてラッキー」
修治と祐治は見知らぬ男性に声を掛けながら、まるで自分の家のように軽い足取りで玄関へと入っていく。
「紗矢さんも珪介も、とりあえず中に入りなさい」
ボサボサの髪の毛に無精髭の男が、にっかりと笑う。
バサバサと羽音が響いた。家の前に停車している見覚えのない黒のワンボックスカーの屋根に、ランスが舞い降りてきた。ブロック塀の上に青、庭の木に水色の鳥獣もいる。
「車が」
「あー、良いよ気にしないで。いつものことだから」
玄関先に立つ男が苦笑し、珪介が身を屈めた。紗矢の靴底がアスファルトの上でカツリと音を立てる。足首に走った鋭い痛みがじわりと拡散し、紗矢は目をぎゅっと瞑った。
「大丈夫かい? 傷を見てあげるから、おいで――……あ?」
男性が不思議そうな声音を発したのと、後ろからそっと手が伸びてきたのは、ほぼ同時だった。
「……っ!」
温かな腕が、紗矢の首元に絡みつく。
(こ、こ、こ、越河君っ!?)
珪介に後ろから抱き締められていることを理解すれば、顔が、体が、どんどん熱くなっていく。彼の腕は優しくもあり、力強くもあった。
(私、包み込まれている)
そう感じさせる抱擁に、紗矢の目が眩んだ。
「ごめん」
彼の息が耳元を掠めていく。紗矢の思考を奪い去り、鼓動を早めさせていく。
「でも……」
甘い声音が鼓膜を揺らし、体の中に熱を灯す。
「再会できて嬉しかったのは、紗矢だけじゃない」
何を言われたのか、すぐに分からなかった。そして今の言葉を頭の中で反芻することも出来なかった。珪介がそうさせてくれなかった。
抱き締める腕に力がこもる。首元に寄せられる珪介の顔。頬をくすぐる珪介の黒い髪。紗矢の心に糸が絡みつく。愛しいという感情を孕んだ糸が。
「家……入るか」
珪介はゆっくりと紗矢から腕をとき、代わりに手を掴み取った。
「う、うん」
自分の斜め前を落ち着いた足取りで進んでいく珪介を、紗矢はジロジロと観察する。
(再会できて嬉しかったのは、私だけじゃない?)
更に頬が熱くなる。
(それって……越河君も、嬉しかったってこと?)
家のドアを開けて待っていてくれた男性が、愉快そうに肩を揺らしている。珪介はすれ違い様にその男を一瞥した。
「何?」
「いやー、随分仲よさそうだったから、もしかしたらと思って」
「邪推すんな」
珪介が小さくため息をつけば、男性が紗矢に向かってニッコリと笑いかけてきた。紗矢も曖昧に笑い返せば、一足先に靴を脱いで家に上がった珪介が「お邪魔します」と呟いた。
「ただいま」
珪介に続いて、紗矢も家に上がる。いつもと変わらない玄関を感慨深げに見回せば、視界に男性が飛び込んできた。申し訳なさそうな顔をしている。
「ごめんね、ただいまはただいまで間違ってはいないんだけど、これは一次帰宅みたいなものだから」
「え?」
「まぁ詳しい事はリビングでしましょ。さぁさぁ」
促され、珪介と男と共にリビングに入れば、母が椅子から立ち上がった。
「紗矢っ! 大丈夫?」
「うん」
こちらに向かって走り寄ってくる。しかし母の手が紗矢に触れるすんでの所で、男性が紗矢と母の間に割り込んできた。
「わぁ、駄目駄目。気持ちは分かりますが、今回はハグなしでいきましょう」
「あっ……そうでしたね。すみません、つい」
男の意味の分からない制止に紗矢は眉を寄せたが、母は何故か納得したらしい。伸ばしていた手を引っ込めた。
男性が頭をぼりぼりとかきながら、視線を彷徨わせた。
「えーっと……親御さんにはさっきしましたけど、紗矢さんにも自己紹介しておいた方が良いですよね。私は越河忠実(こしかわたださね)と言います。えーっと、この三人の叔父にあたります……あ、ちなみに独身です。誰かいい人がいたら紹介してください」
はははと笑って付け加えられた情報とお願いに、珪介は白けた顔をし、紗矢の母はぎこちない笑みを浮かべた。
「もう一つちなみに、好みのタイプは」
「忠実さん! 貴方の話はどうでも良いです。自己紹介を続けましょう」
自己紹介という部分を強調させながら、ガタリと椅子を引き女の子が立ち上がった。紗矢は瞬きをくり返した。
「片月さん、私のこと知ってるかな?」
「うん。荻野さん、だよね?」
可愛らしい顔が嬉しそうに微笑めば、部屋の中が華やいだ気がした。彼女は、萩野舞(はぎのまい)。同級生だ。
学年のトップ争いに加われるくらいに頭も良く、運動面では部に所属する生徒よりも優秀な成績を時折収めてしまうこともある。その上、白い肌にぱっちりとした瞳、つい触れたくなるような栗色の髪、メリハリのある体のライン。どれをとっても優等生である。
一年の時クラスは違っていたが、才色兼備の彼女はとても目立つ存在であり、紗矢は名前と顔を早いうちに覚えてしまっていた。
「良かった。私のこと知ってるんだね。話したことなかったから、ちょっとドキドキしちゃった」
ふふっと笑って、彼女は越河兄弟を順番に見た。紗矢もつられて室内に目を向ける。
ダイニングテーブルには父と萩野舞。窓際には修治と祐治が立っている。
「貴方たちも、ちゃんと自己紹介しなさいよ!」
両手を腰に添え、憤然とした表情で舞がそう言えば、すっと珪介が一歩前に出た。顔には、笑みを貼り付けている。
「初めまして、越河珪介と言います」
小さくお辞儀をして、また口元に笑みを貼り付ければ、間近にいた母親から「素敵」と呟く声が聞こえた。
(いや、お母さん騙されてるから)
渋い顔で珪介を見上げれば、すぐに「何か?」と問いかけられ、紗矢は慌てて首を振る。
「ちょっと珪介、片月さんにはもう自己紹介済み?」
「大丈夫。俺も名前と顔くらいは把握されてるから」
「あぁそう。なら良いけど……そっちの二人は?」
庭を眺めていた男二人が、すごすごと前に出てきた。
「僕は越河祐治(こしかわゆうじ)です。先日、五之木学園高等部に進学しました。紗矢さんの一つ年下になります」
祐治が紗矢の両親と紗矢に向かってにっこりと笑う。途端、紗矢の母が「癒やし系だわ」と呟いた。
「越河修治(こしかわしゅうじ)です。片月と、あ、いや、片月さんとは、同じ二年生で……」
弟の祐治の脇に並んだ修治が、歯切れ悪く言葉を並べていく。
「えっ……同級生だったの?」
紗矢の呟きを発端に、場に笑いが起き始めた。
「か、片月お前っ! なんで珪介と舞の存在は知ってて、俺だけ知らねーんだよ!」
「全く見えてなかったんだろ」
「けーすけ! てっめー!」
珪介の冷たい突っ込みを受け、修治に熱が注入される。紗矢の母が「面白い子ね」と感想を述べた。
修治の反応に笑う紗矢の腕を、珪介が引っ張った。そのままソファーへと連れて行かれる。
「座ってろ」
空いているソファーに大人しく腰を降ろせば、その脇に珪介が佇んだ。
「越河君も座る?」
「いや」
そう言って彼は部屋をぐるりと見回す。そして窓の向こうに視線を留め、目を眇めた。
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