第18話 刻印、3


「まさか、こんなことになるなんて」


 卓人は両手を広げ、笑みを浮かべた。夜空を舞っていた灰色の鳥獣が、卓人の上空で身を翻す。紗矢の前に立つ赤と青が、体勢を低くした。


「参ったなぁ。刀も何も持ってきてないっていうのに」


 お手上げだよという響きで紡がれる言葉とは裏腹に、場が卓人の殺気で埋め尽くされていく。


「どうやって、君たちをいたぶろうかな」


 卓人の口が弧を描く。広げていた手を力強く握りしめた瞬間、灰色の鳥獣がランスとソラに向かって急降下した。もちろん地上にいる二匹も弾かれたように舞い上がり、応戦を開始する。

 二対一と数の上では優勢だが、やはり他の二匹と比べると、ランスには俊敏さが欠けていた。昼間の痛手が尾を引いているのだ。それをランスも理解しているようだった。青い鳥獣、ソラのフォローに回っている。

 青と灰色の躰と力がぶつかり合う。灰色に青が力でおされれば、赤が割り込む形勢を立て直す。


 ハラハラしながら、夜空を動き回る躰を見上げていると、突然、紗矢の両腕に鳥肌が立った。身が震えたのは、寒さだけの仕業ではない。視線を落とせば、卓人と目が合った。可愛らしい笑みに、また体の奥が冷たくなる。


「許さないからね」


 卓人の足下から灰色の光が放たれた。それは地を這い、紗矢へと真っ直ぐに向かってくる。その色に、総毛立った。


「いやぁぁっ!」


 卓人の色は何度も見た。けれど、ここまでの恐怖を感じたのは初めてだった。


(恐い! いや! 来ないで!)


 体が竦み、紗矢は逃げることも立ち上がることも出来なかった。


「許さねぇのは、こっちだっての!」


 空気が動いた。自分の横を疾風の如く駆け抜けていった男が大きく飛び上がり、持っていた刀で灰色の影をぐさりと一突きする。


「――っ!」


 紗矢は目を見開いた。その人の背から、深い海の底のような青色の翼が生えていたのだ。


「うおっ!」


 突き刺したそこから吹き出すように灰色の影が伸び上り、その人は飛び退いた。四方に色が飛び散り、そのうちの一つが紗矢目がけて落下する。視界に、誰かが割り込んできた。


「ぬるいぞ、修治(しゅうじ)」


 珪介の一太刀が、灰色の塊を切り裂く。そして僅かに遅れて塊に赤が灯った。赤はすぐに大きくなり、色を塗り替えるように塊を飲み込んでいく。


「珪介ぇっ! お前、今何か言ったか!」


「何も」


 修治の怒鳴り声にも動じることなく珪介は卓人だけをじっと見据えたまま、刀の柄を持ち替えた。紗矢はそんな彼の背を見て、再び目を丸くした。その背にも赤い翼があったのだ。しかも、昼間目にした光の集合体などではない。

 バサリと音を立て赤い翼が広がり、そこから羽根が一本抜け落ちた。紗矢は咄嗟に手を伸ばした。指先に羽根が触れる。ほんのりとした温かさを感じた次の瞬間、それは赤い光へと姿を変え、周囲に拡散した。灰色や青色と同様に翼は実体を伴っているように見えたが、そうではないらしい。

 漂う赤、そして珪介の翼を見れば、思わず吐息が漏れた。


(やっぱり、綺麗)


 言葉を失っていた紗矢に寄り添うように、傍に小柄の男性がしゃがみ込んできた。


「片月さん、大丈夫ですか。珪介兄さんと修治兄さんと僕で、何とか状況打破しますので、もうちょっと頑張ってください」


 顔を向ければ、彼がふわりと笑みを浮かべた。卓人の笑みとは全く違う温度を感じる微笑みに、心の疲れが少し取れたような気がして、紗矢は感謝の気持ちを込めて頷き返した。


「それにしても……その格好だと寒くないですか? 僕のコート着て下さい」


「だ、大丈夫です。私、意外と平気です。寒くないです」


 目の前の彼はブラウンのダッフルコート、珪介は黒のジャケット、青い翼を持つ修治はチャコールグレーのスタジャンを着ている。

 もう春だとはいえ、夜はまだまだ冬のように寒い。けれど、初めて会う人から借りるのは気がひけた。紗矢は大きく両手を振って、「大丈夫です」を繰り返した。

 気遣わしい視線が紗矢の足首に向けられ、痛みを共有するかのように、彼が目を細めた。


「足も随分腫れてますね……珪介兄さんに聞きましたけど、それ毛獣に噛まれたんでしょ? 本来なら絶対安静ですよ。珪介兄さんの応急処置のあと、ちゃんと手当てしましたか?」


「あ、はい」


「あぁもう。女性をこんなに砂まみれにして、まったく峰岸って人は」


「祐治、ちょっと黙ってろ」


 苛立ちのこもった声音に続いて、紗矢の頭の上にバサリと何かが落ちてきた。慌てて掴み取れば、それはずっしりとした重みのあるライダースジャケットだった。珪介が着ていたものだ。


「越河君、これ」


「着てろ」


「でもっ」


「お前見ると寒気がする」


(越河君だって寒いでしょ? それに私、本当に砂まみれだし)


 俯けば、毛先から砂がぱらりと落ちていく。渡されたジャケットを両手で掴んだまま、紗矢は固まってしまった。


(上着、二枚目だし……私、借りすぎだよ)


 祐治が瞬きをくり返しながら、紗矢と珪介を交互に見た。それに気がついて紗矢が僅かに首を傾げれば、彼は慌てて表情を改めた。


「あ、すみません。気にしないで下さい。ちょっと勝手に驚いただけですから……それより珪介兄さん、どうしますか」


 卓人が何度か刀をかわし、灰色の壁で修治を弾き飛ばした後、二人はにらみ合ったままの小康状態を続けている。


「いくら峰岸が刀を持っていなくても、そう簡単にこちらの思う通りにはいかせてくれませんよ。スイをこっちに呼びますか。スイに彼女を任せて、僕たち三人で一気に――っ!」


 突然、珪介が振り返り、動いた。真後ろで甲高い音が響き渡る。


「きゃあっ!」


 紗矢は振り返り、悲鳴を上げる。相埜伊月の刀を珪介は己の刀で受け止めていた。伊月の刃は、自分に向かって振り下ろされたのだと真っ先に理解し、紗矢は身を震わせる。


「祐治(ゆうじ)、紗矢を頼む」


 珪介はそう告げ、伊月の刃を力づくで跳ね返す。そしてゆらりと刀を構え直した伊月に向かっていく。祐治が頷き、緊張気味に立ち上がった。


「すみません、片月さん。兄さん二人に比べると僕では頼りないと思いますけど、精一杯守ります」


 紗矢も珪介のライダースジャケットを抱き締めながら、ゆっくりと立ち上がった。

 地が揺れる。空気が震える。不安と緊張が入り交じり、どんどん息苦しくなっていく。

 喉元を抑えた時、また体の表面がほんのりと温かくなった。手が届くほど近い場所で、光り輝く鳥獣が、紗矢を見つめていた。

 辺りを警戒するように、祐治も度々紗矢の方へ目を向けているが、卓人と同じようにそのまばゆさは見えていないようだった。


『こちらへ来なさい』


 静かな声が紗矢の体の中へ染みこんできた。鳥獣の長も、先ほどと同じ場所から紗矢を見つめている。これほど激しく皆がぶつかり合っているというのに、長はそこに目もくれず、紗矢だけを見ているのだ。


『来い』


 呼びかけてきた長の声音に、紗矢の足が自然と動き出していた。


(恐いけど……行かなくちゃ)


 心の深い場所に恐怖を押し込めながら、紗矢は一歩一歩進んでいく。


「紗矢!」


「片月!」


「片月さんっ!」


 越河の三人からほぼ同時に声が上がる。それぞれの気配が一瞬だけ止まったような気がしたけれど、紗矢は進むのをやめなかった。


(行かなくちゃ、長の所へ)


「させない」


「うわっ!」


 卓人から出た吐き捨てるような声にも、続いた修治の叫び声にも、そして何が地面に落ちた音にも、紗矢の気持ちは削がれなかった。


「長の所になんか行かせない」


 対峙していた修治の手からこぼれ落ちた刀を卓人は掴み取り、紗矢へと向かう。ザザッと砂音を立てながら、紗矢の横に祐治が走り込んだ。


(刻印が、きっと私の力になる。そして、彼の力にも……)


 紗矢は長だけを見つめ、歩き続ける。

 赤い翼がバサリと開く。血のような光が舞い散った。

 珪介は伊月の切っ先をかわし懐に飛び込むと、喉元に刃先を突き付けた。


「ぐっ」


 伊月から苦悶の声が漏れた。


「あっちで寝てろ!」


 朱に染まった珪介の瞳を見て、伊月が息をのむ。伊月に赤がまとわりつく。瞬きをする間も与えずに、珪介は伊月を吹き飛ばした。

 校舎の壁へと激突し力なくずり落ちた姿を一瞥してから、珪介は身を翻し視線を素早く移動する。

 空の勝負は、まだついていない。同い年の兄弟である修治は大きな灰色の鉛に押しつけられるように、地に突っ伏している。一つ下の弟である祐治は、卓人の一撃を受け止めるので精一杯だ。その向こうを、紗矢は夢見るような表情で歩いていく。

 珪介は走り出した。


「うわあっ!」


 なぎ倒された祐治の体が、ずずっと地面を滑っていく。卓人は呼吸を整えると、紗矢に体を向けた。

 紗矢の髪が風になびいた。


「越河なんて選ぶから、こうなるんだよ」


 ゆっくりと進む足音と、怒りのこもった足音と、素早く走り寄ってくる足音が混ざり合った。


「峰岸!」


 珪介の叫びに、卓人はにやりと笑う。


「喰らってあげる」


「やめろっ!」


 卓人は紗矢の腕を掴むと乱暴に引き寄せ、互いの顔を近づけた。夢見心地だった紗矢の表情が一変した瞬間、咆哮が上がる。地響きのような鳴き声が、この場にある全てのものを震え上がらせた。

 夜空から灰色の鳥獣が、身を強ばらせながら落下する。ほぼ同時に、卓人も紗矢から手を離し、苦しそうに胸を抑え両膝をついた。荒い息を繰り返し、それでも、卓人は紗矢を睨み続けた。

 鬼のような瞳から逃れようと紗矢は後ずさるが、両足が上手く動かず転びそうになる。


「紗矢!」


 しかし尻餅をつく前に、紗矢の体は珪介に手によって支えられる。


「……越河君」


「しっかりしろ」


 珪介の瞳を見つめながら、紗矢は小さく頷いた。彼の腕を掴めば、心が落ち着きを取り戻していく。珪介の力を借り、その腕にもたれかかりながら、また紗矢は歩き出した。


(越河君、昼間より力が濃い)


 じっと彼を見上げて、紗矢は問いかける。


「……越河君、昼間と感じが違う」


「気のせいだろ」


「夜行性?」


「馬鹿、普段はもう寝てる」


 彼の素っ気ない口調に、つい口元が緩んでいく。紗矢は珪介を掴んでいる手に力を込めた。


「眠いのに……来てくれて、有り難う」


 返事はなかったが、腰を支えてくれている彼の手に少しだけ力が入ったような気がした。

 二人揃って、長の目の前で立ち止まる。長の迫力にのまれそうになる。足が震えた。


「大丈夫だ」


 紗矢は、珪介の言葉を噛みしめるようにゆっくりと目を閉じ、そして開いた。


『主、越河に力を分け与えるか』


 幾度となく聞いてきた長の問いかけに、紗矢は初めて頷き返した。


『越河に属するこの子たち、そして他の子らにも、愛情を注げますか』


 顔を上げれば、目映い姿がふわりと夜空に現れた。光の周りを、ランスやソラが優雅に旋回した。

 再び紗矢が首を縦に振ったところで、やっと長の興味が紗矢から移動する。鋭い眼光を受け止め、珪介が口を開いた。


「誓いを立てよう」


 それは先ほど卓人が口にしたものと同じ響きだった。


「その力を彼女に宿すならば、効力が消え去るその時まで、我らは彼女を守り続けよう」


 凛とした声が紗矢の心を撫で、わき上がる不安を吸い込んでいく。


「越河の名の下に、今、その力をここに授けよ!」


 光の鳥獣が滑るように紗矢に向かって降下する。


(ぶつかる!)


 咄嗟に瞳を閉じたが、衝撃は少しもなかった。恐る恐る目を開けようとした瞬間、心臓が大きく鼓動する。胸元に熱が生じた。


「――うっ!」


 紗矢は胸元を抑え、その場に崩れ落ちた。


(熱い! 熱い! 熱い!)


 涙が滲む。熱が全身に広がっていく。


「紗矢!」


 強い口調で、珪介が紗矢の名を呼ぶ。


(苦しい。熱い。痛い)


 ぐっと体が上から抑えつけられ、紗矢は瞼を持ち上げた。歪んだ視界に、真っ白な長の羽、自分を見下ろしている獣の瞳、そして前足が見えた。体の上にのし掛かっているのは、長の右前足だった。

 鋭い足の爪の間から出ている自分の手が、温かな感触に包み込まれた。


「越、河、くん――……う、ぐっ」


 珪介に掴まれた手から、そして体全体から、光が一斉に放出される。長の前足の中で、紗矢の体が浮き上がり――数秒後、永遠に続くかと思えた痛みが、ゆっくりと引き始めた。


「紗矢っ!」


 長が足を退けるとすぐに、珪介が紗矢の視界に入ってくる。


「大丈夫か?」


「う、うん……たぶん」


 彼の手にすがりながら何とか体を起こせば、一つに集まった光が鳥獣の姿へと形を変えたのが見えた。長は鳴き声を発しながら、光の鳥獣と共に漆黒の空へと飛び立っていった。


「……行っちゃった」


「用は済んだからな」


「……熱い、のに、寒い」


 ジャケットで胸元を覆うと、珪介がそれを引きはがした。そのままパジャマのボタンを上から外していく。


「……え。あの……えっ? ちょっと!」


「確認するだろ、普通」


「何をっ!……あっ、これ」


 紗矢の胸元には、奇妙な痣が浮かび上がっていた。


(竹内さんと同じ痣)


 卓人の家で会った竹内琴美の胸にあったものと同じような痣が、自分の胸元にあった。


「これが、刻印」


 つんつんとその痣を突っついてみる。痛みはない。珪介が呆れたように息を吐き、自分のジャケットで紗矢の体を包み込んだ。


「昼間も思ったけど……やっぱりお前、ちょっと鈍いんじゃないか?」


「え?」


「だいたい刻印押されたヤツは、そのまま気絶する。で、三日は寝っぱなし」


「そう言われても。う、わっ!」


 珪介は紗矢を横抱きにして持ち上げた。


「修治、祐治、お前ら大丈夫か?」


 所々で返事が上がる。目の前に赤と青の鳥獣が舞い降りてきた。


「目覚められたら厄介だ。気絶してるうちに、行くぞ」


 倒れたままの卓人に、一刻目を止めてから、珪介は歩き出す。


「峰岸君とか、あの鳥獣……大丈夫?」


「アイツらも俺たちも、そんなにヤワじゃない。放っておいても、大丈夫。凍える前に気がつく」


 二人がパタパタと追いかけてきて、珪介の両脇に並ぶ。


「くそっ、気持ちわりぃ。峰岸に使われた」


 力任せにぶんぶんと振り回してから、修治は刀を鞘におさめた。


「太刀筋は、やっぱり兄さんより数段上でしたよ」


「あぁ! ふざけんな祐治! お前、もういっぺん言ってみろ!」


「五月蠅い。夜中なんだから、声落とせ」


 その緊張感のないやり取りに笑みを浮かべれば、体の下からクルルと囀る声が聞こえてきた。ハッとし片手を伸ばせば、柔らかい感触がすり寄ってきた。


「ランスは甘えん坊さんだよね?」


 ふっと思った事を呟けば、珪介の眉がぴくりと動いた。


「うおっ、甘えん坊さんだってよ! やだぁ、珪介ちゃんったらぁ」


 門を通り過ぎ、坂を下りながら、修治が珪介を見てわざとらしくお腹を抱える。同じように、珪介の足下にいるランスに向かって、ソラがギャッギャッと声を発した。


「その青い子は、すっごいお喋りさんで、主張が激しいよね」


 紗矢が再び呟けば、今度は珪介が鼻で笑った。


「片月お前! 俺のどこがお喋りだ!」


「えっ、あの、貴方じゃなくて青い子の話……ご、ごめんなさい」


 修治に睨まれて、紗矢はとりあえず謝罪の言葉を付け加えた。


「片月さん、謝らなくて良いですよ! 珪介兄さんの甘えん坊はちょっと意外でしたけど、修治兄さんの自己中っていうのは、誰が聞いても納得ですから!」


「ってめー! ふざけんなアホ!」


 祐治は笑いながら坂を駆け下り、その後を修治が追いかけていく。


「夜中なんだから静かにしろって」


 珪介の歩みが早くなり、紗矢は慌てて珪介の首に手を回した。


「お前も、余計な事言ってないで、さっさと寝ろ」


「別に眠くない」


「体、だるいだろ?」


 珪介の言葉が、紗矢の疲れを引っ張り出す。坂を降りていく振動が、だんだんと心地よいものになっていく。珪介の肩にそっと顔を寄せ、紗矢は欠伸を噛み殺した。




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