第17話 刻印、2

 夜気が体の芯を凍えさせ、時折吹く風が悪戯に髪の毛先を舞い上げていく。卓人に手を引かれ、紗矢は夜の町を走り続けた。


(長は、どこまで行くんだろう)


 夜空を滑空する鳥獣の長は、一向に地上へ降りてくる気配はなかった。

 車の通りが途絶えた道路は、信号だけが静かに色を放っている。卓人は紗矢を連れたまま道路を横切り、住宅街へと踏み込んでいく。直線に飛んでいく長に対し、卓人と紗矢は家々の角を何度も曲がりながら進んでいく。

 息を切らし視線を落とせば、紗矢の目の前に真っ直ぐな道が現れた。ぼんやりとした街灯の明かりが、等間隔でずーっと遠くまで並んでいる。

 この道がどこまでも続いている。そんな錯覚が目眩を誘い、紗矢は少しだけ恐くなった。


「ねぇ、峰岸君……長はどこまで行くつもりなのかな?」


「もしかしたら、だけど。五之木学園に向かってるのかも」


「五之木学園」


 道沿いにある小さな公園を通り抜け、また道路へ出た所で二人は立ち止まった。その道路は、紗矢もよく知っている。通りの向こうに朱色の短い橋がある。それは五之木学園正門へと繋がる入り口のようなものである。

 目の前の道路を、一台のタクシーが通り過ぎていった。卓人の手に力がこもったことに気付いて、紗矢は深呼吸する。道路を越えるべく、卓人が歩き出した。引っ張られる形で紗矢も続けば、頭上を灰色の鳥獣が追い抜いていった。


(峰岸君の鳥獣)


 あの青い鳥は大丈夫だったのだろうか。不安になり耳を澄ましてみたが、あのやかましい鳴き声はやっぱり聞こえなかった。


「当たり。ゴールは学校みたいだよ」


 坂の上へと、空高い場所から真っ白な姿が降りて行くのが見えた。行き着く先が分かったためか、卓人の足取りは落ち着いたものになる。それに安堵したものの、ズキズキと痛む足首を庇いながら登る坂は、いつもの倍の長さを紗矢に感じさせた。


「こんな所まで連れてくるなんて」


 正門をくぐり、文句がちに足を止めた卓人の斜め後ろで、紗矢は肩を大きく上下させながら周囲を見回した。夜の学校など、初めての経験だ。薄気味悪さを放っている校舎は直視出来ず、すぐに視線を校庭へ向ける。するとその中央に、巨大な白い羽を閉じ厳かに佇む鳥獣の長の姿があった。

 卓人が紗矢の手を引き寄せる。そして校庭へと向かわせるように、紗矢の体を前へと押しやった。肩越しに後ろを見れば、卓人がまた紗矢の背を押した。さっきまでの立ち位置が完全に逆になった形だ。

 前へ足を出せば、風が吹き抜けていった。紗矢の髪を揺らし、校庭の砂埃を巻き上げ、木々をざわめかせた。

 砂の舞う中で、長の双眸がぶれることなく自分に留まっている。その目は獣そのものだ。もしかしたら飛びかかってくるのではないだろうかと想像をすれば、心が恐怖で固くなっていく。それでも前に進んでいこうと、紗矢は気持ちを強く持った。


(このまま行けば、私は峰岸君たちに仲間入りする……そうしたらやっぱり、彼から遠のいてしまうけど、知ることくらいはできるかもしれない)


 震える拳を握り直し、しっかりとした足取りで前進する。


(越河君が、今までどんな世界で生きてきたのか。そして、これから生きていくのか)


 疲れた顔をしていた幼い珪介。小さかったランス。そして大人になった今の彼らに、思いを馳せた。


(……彼らの未来に、敵じゃなく仲間として、私もいられたら良かったのに)


 自分の思いに唇を噛んだその時、突然視界が明るくなった。峰岸家で見たあの光り輝く鳥獣が、長の隣に現れ出たのだ。まるでずっとそこにいたかのように、自然な様子で長に寄り添っている。

 驚きで立ち止まれば、すかさず卓人に肩を押された。前のめりになりながら数歩進めば、負荷がかかった足首に酷い痛みが走った。倒れ込みそうになった瞬間、紗矢の体を支えるかのように光がまとわりついてきた。光り輝く躰が、滑らかな動きで紗矢の周りを旋回する。


「紗矢ちゃん。もう少し長の近くに行かなくちゃ」


 背後から不満げな卓人の声が聞こえた。声のトーンから、彼にこの状況が見えていないのは明白だった。


(暖かい)


 凍りそうだった体が、目映い鳥獣の体温によって解きほぐされていく。そっと躰を撫でれば、ふわりとした柔らかい感触が手の平に伝わってきた。クルルと囀る声はとても気持ちが良さそうで、喜んでいるようにも聞こえた。


(鳥獣の長が雄、この鳥獣が雌で、番(つがい)なのかもしれない)


 この二羽が仲睦まじく触れあっていた光景を思い返しながら、紗矢は一つ結論づけた。


「ほら、紗矢ちゃん!」


 動こうとしない紗矢に痺れを切らせ、卓人が紗矢の手を乱暴に掴み取った。


「痛っ! 一人で歩くから、手を離して」


「あ、ごめん。つい力が入っちゃった」


 鳥獣はするりと卓人の手を避け、逃げるように長の元へ戻っていった。

 今度は止まることなく、紗矢は長の前まで進み出た。もちろん、すぐ後ろには卓人がいる。長が低い唸り声を発した。


『峰岸と共にいる。それが答えか』


 ぴりぴりとした痛みと共に、彼の声が聞こえてきた。


『峰岸に力を与え、属するこいつらに愛情を捧げられるか』


(愛情……こいつら?)


「愛」という言葉に目を見開けば、鈴の鳴るような可愛らしい声音が、雌の鳥獣から発せられる。


『貴方はこれから私たち鳥獣と共に、生きていくことになります』


 バサバサと羽音を響かせ、紗矢と長の間に灰色の鳥獣が舞い降りてきた。咄嗟に紗矢は身を強ばらせた。正直、この鳥は苦手なのだ。狙い澄ますような目つきで見つめられれば、もっと距離を置きたくなってくる。


「どうしたの?」


 僅かに後ろに下がれば、すかさず卓人に手首を掴まれた。


「あ、あの」


「もしかして、何か話しかけられてる?」


 無邪気な顔で覗き込まれ、紗矢はぎこちなく頷き返した。


『峰岸という盾を選び、峰岸卓人に添うというのならば、彼が従えている鳥獣にも力を与えることになります』


 紗矢はもう一度、灰色の鳥獣を見た。


(……この子、好きになれるかな)


 ふっとランスの顔が脳裏を過ぎった。


(私、ランスに触ることも、もう出来ないのかな)


『そうなります……あの子は、貴方を恐れて近づく事もしないでしょう』


 ハッとし、紗矢は顔を上げる。光りの鳥獣は穏やかな、でも少しだけ寂しそうな顔を浮かべていた。


『主、峰岸と越河、どちらを選ぶ。選択せよ』


 長の要求に、紗矢の呼吸が一瞬止まる。


(私は……でも……)


 今日一日の出来事が、怒濤の如く頭の中に蘇ってくる。壊れた扉、倒れた書棚。母の恐怖の叫び声。圧倒的な力を感じさせられた卓人の翼。


『選択せよ!』


 長の一際大きな鳴き声に、その場にある全てのものが震えたような気がした。


「覚悟は良い? 紗矢ちゃん」


「えっ?」


 卓人が紗矢の手首を掴み、持ち上げた。


「誓いを立てよう」


 いつもより真面目な口ぶりで、しかし瞳を輝かせながら、卓人は口上を述べ始めた。


(……やめて)


「その力を彼女に宿すならば、効力が消え去るその時まで、我らは彼女を守り続けよう」


(……お願い、やめて)


 掴まれた手が、震え出す。


「峰岸の名の――……」


「やめてぇっ!」


 紗矢は、力いっぱい卓人の手を振り払った。卓人は驚いた顔のまま、振り払われた自分の手を、そして紗矢を見下ろした。


「……紗矢、ちゃん?」


「峰岸君、ごめんなさい」


 必死に絞り出した謝罪の言葉は、聞き取りにくいほど揺らいでいた。


「紗矢ちゃん!」


 再び紗矢へと手を伸ばした卓人に対し、長が毛を逆立て威嚇する。


『退け!』


 卓人に長の声は聞こえていないだろう。しかし、彼の足は長の気迫におされたかのように二歩三歩と後退していく。


「どういうことかな」


 卓人は俯いたまま、笑い声をこぼした。異様な雰囲気に、紗矢も彼から距離を置き始める。しかし、すぐに背中が何かにぶつかった。背後に、眼光を光らせた灰色の鳥獣がいた。紗矢は恐怖で打ち震えながらも、叫びそうになるのを必死に堪えた。


「ねぇ、紗矢ちゃん」


 卓人がゆらりと顔を上げた。


「これはどういうこと?」


「わ、私……」


 卓人から投げつけられた殺気に身を竦めれば、手首に熱が生じた。


「熱いっ」


 彼から渡されたブレスレットの石たちが、その濃さを増し始めていた。慌ててブレスレットを外したその瞬間、灰色の石がまるで自爆でもするかのように次々と破裂し始めた。

 投げ捨てた地面の上で、跡形もなく弾け飛んでいくそれらを目の当たりにし、また新たな恐怖が紗矢の体を駆け巡る。


(峰岸君を拒否した。だから……私は今、この人を敵にしたんだ)


 彼の怒りに呼応するかのように、体から灰色の光が立ち上り始める。


「どういうことって聞いてるんだけど」


(逃げなきゃ)


 頭にはその言葉しか浮かんでこなかった。踵を返し走り出すが、すぐに後ろから腕を掴まれ、紗矢は地面に押し倒された。


「君を逃がすわけないじゃない。考え直すか、ここで僕の手にかかるか。どっちかだよ」


 馬乗りになった卓人が薄く笑った時、豪快な笑い声がどこからか聞こえてきた。


「おいおいおい! だっせーな! 拒否られてやんの!」


 明るい声音が、空気が一変させた。


「行け、ソラ!」


 卓人が紗矢から飛び退くと同時に、青い塊が物凄い勢いで眼前を通過して行った。砂埃にむせかえってしまい動けないでいると、自分の隣に赤い姿がそっと舞い降りてきた。


「えっ」


 目の前の赤い鳥獣がグルルと鳴き声を上げる。前方に向かって威嚇している。


「ランス」


 その翼には白い包帯が巻かれている。きゅっと苦しくなった胸を、紗矢は抑えた。ランスの隣に、まるで二つ目の盾になるかのように、青い鳥獣が舞い降りてきた。


(この子、さっき家で会った?)


 きっとそうだと心の中で確信すると、またどこからか声が聞こえてきた。


「初めての失恋、ってか?」


 上半身を起こし、紗矢は声の主を探す。


「……嘘」


 朝礼台に三つの姿があった。台の上で片膝を立て座っている、満面の笑みを浮かべた男。その前に立って心配そうな視線を自分に向けている男。そして――……。


「二択じゃない、三択だ」


 朝礼台の脇に立っているその姿に、紗矢の視界が揺れる。


「俺らに奪われる。一番重要な選択肢、勝手に削除するな」


 珪介は持っていた刀の切っ先を、卓人に向けた。


(……なんで、ここにいるの)


「おい、片月紗矢! お前、どれ選ぶんだよ!」


 少しだけ甲高い声を響かせながら、男が台の上に立った。


「兄さん! 初対面なんですから、呼び捨ては駄目です! それにもうちょっと優しく聞くべきです! すみません、片月さん」


 偉そうに腕を組んでいる男に向かって、前にいた小柄の男性は咎めるように言い放ち、最後に紗矢に頭を下げた。思わず珪介を見れば、彼もこちらに目を向け――、


「当然、三つ目だろ」


 口の端を上げてみせた。


「越河くん」


 今までの我慢が涙となって頬を伝っていく。紗矢が大きく頷けば、三人は揃って笑みを浮かべ、それぞれの刀を握りしめた。




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