第16話 刻印、1
ごろんと寝返りを打って、紗矢はゆっくり目を開けた。
(……眠れない)
食事の時にあった琴美との一悶着を思い出せば、ため息が口をついてでた。
あの後、何も知らない伊月をテーブルに交え、他愛ない会話を交えながらもくもくと食事を済ませた。
いったんこの部屋に戻ってきてから、卓人に場所を案内してもらい、お風呂を借りた。傷に差し支えるため湯船には入らずシャワーだけで済ませたのだが、温かなお湯に、少しだけ落ち着きを取り戻すことが出来た。
のろのろとパジャマに着替え廊下へ出ると、卓人と白衣を着た女性が談笑をしていた。そのまま処置室のような場所に連れて行かれ、女性に足と体の具合を看てもらった後、紗矢はこの部屋に戻って来た。
すぐに卓人はやることがあるからと部屋を出て行き、やっと一人になった紗矢はベッドにダイブすると、あれこれと悩み始める前に眠りに落ちてしまったのだが……一時間ほどで、目が覚めてしまったのだ。
時刻は十二時。
疲労感はまだまだ消えていないが、再び眠りにつくことも難しかった。
紗矢は寝るのを諦めると、所在なさげに部屋の中をうろつきはじめた。意味も無く机の引き出しを開けてみたり、下ろした髪を鏡の前で懸命に梳かしてみたり、戸棚に置かれていた小説をぱらぱらと捲ってみたりした。
何かのサイトでも見ようかと、充電中の赤いランプを灯している携帯電話を手に取り……紗矢は何時なしに窓の外へと目を向けた。
鳥獣たちの小屋の先を見て、首を傾げた。小屋の背後に生け垣があり、その向こうからほのかに明かりが漏れているのだ。
(家?)
暗闇に沈んでしまってはいるが、確かに平屋らしきものがそこにあった。見ている先で、鳥獣が軽々と生け垣を飛び越えた。思わず紗矢は「あっ!」と声を発する。
「どうしたの?」
言葉と共に、ノック音が響いた。
「わっ、峰岸君」
突然かけられた声と音に驚いて振り返れば、半開きになった扉から卓人が顔を覗かせていた。
「鳥獣が、生け垣を跳び越えていったから……家があるみたいだけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ。あの家もうちの一部だから。飛び越えるのも、よく見る光景だよ」
平屋は近隣住宅ではなく、峰岸家所有の建物であるらしい。誰が住んでいるのだろうか。そんなことを考えていると、卓人がニコリと笑いながら室内に入ってきた。
「あそこに、阿弥さんが住んでるんだよ。鳥獣は三時間くらいしか寝ないから、夜中でもあぁやって阿弥さんの所に遊びに行くんだ。阿弥さんも大変だよね」
(阿弥さん。求慈の姫だっていう人)
「代々、求慈の姫はあそこで暮らしてるよ……しかも一人で。人が多すぎるこっちの家が嫌みたい」
「へぇ」
「紗矢ちゃんはこのままこっちに、一緒にいてよ?」
卓人に後ろから抱き締められ、紗矢は「うん」と頷くことも、その手を振り払うことも出来ずに、求慈の姫がいるという家をただ見つめていた。そして卓人の温もりの中にいるというのに、紗矢は珪介の事を思い出していた。
(……私、越河君のブレザー、家に置いて来ちゃった)
何となく持って行く気になれなくて、自分の部屋に置いてきてしまったのだ。
「明日も学校なのに、峰岸君はまだ寝ないの?」
そう卓人に問いかけながらも、明日教室で珪介に会えるのだから、ここにブレザーを持ってくるべきだったのだと、心の中で後悔した。
「もう十二時過ぎちゃったもんね……でも鳥獣は明け方の三時くらいまで活動しているから、僕もその時間くらいまで待機だよ」
「どうして?」
「朝、僕が長に言ったでしょ? 今夜にでも紗矢ちゃんに刻印をって」
彼が鳥獣の長に向かって声高らかに言った今朝の出来事が、遠い昔のことに思えた。
「その僕の言葉に、鳥獣の長から阿弥さんに返事がきたらしい。予定通り、『我、今宵赴こう』ってね」
その言葉を聞いて、紗矢は急速に恐くなっていく。あの時、長にこうも言われたのだ――今宵、再び問う。決断せよ、と。
誰に添い生きるのか。誰に力を与えるのか。
(誰にって、きっと……峰岸君なのか、越河君なのかってこと、だよね?)
心がキュッと苦しくなった。思わず胸元で拳を握りしめれば、自分を背後から抱き締める卓人の力が僅かに強まった。
(私は……私は……)
『紗矢』
優しい表情を貼り付けた彼から発せられた甘い声音。
『これが俺の普通だ。諦めろ』
クラスメイトは見たことがないだろう、素の彼の口調、表情。自分の傷を手当てしてくれた優しい手。魅惑的だった珪介の赤い輝き。
脳裏に現れ出る珪介の記憶を、紗矢は必死にかき消していく。
図書館の惨状や、自宅での出来事。自分たちの間に越河が割り込む事は許さないと言った卓人の声音が、体に重くのし掛かってくる。
このまま卓人を選び、卓人の言う通りに動いていけば、無駄な争いなんて起こることもなく、全てが丸く収まりそうな気がした。
(でも峰岸くんを選べば、きっともう……越河君は、私と話してはくれない。だって峰岸君を選んだら、私は越河君の敵になっちゃうんだもん)
つんと鼻が痛くなり、視界がじわりと潤んだ。
(……もっといっぱい、越河君と話したかった)
子供の頃から抱き続けていた望みが、心の中で大きさを増していく。
(珪介君!)
その名を心の中で強く唱えたとき、前方がぱっと明るくなった。求慈の姫がいるという家から、目映い大きな光が夜空へ舞い昇っていく。屋根より五メートルほど上空で、光は陽炎のように揺らめきながら留まった。
「あ、あれは何?」
「え?」
「空に浮かんでるあの光!」
慌ててすぐ後ろにある卓人の顔を見たが、彼は空と紗矢の顔を不思議そうに見るばかりで、何にも答えなかった。
視線を空に戻しじっと見つめていると、光がだんだんとある形に見えてきた。鳥獣だ。しなやかな動きで空を駆け始めれば、地上で遊んでいる鳥獣たちもバサリバサリと空へ昇り始めた。寄り添うように、鳥たちが舞い踊る。
(……綺麗)
光の帯を残しながら飛ぶその鳥は、幻想的だった。
「光って、気配か何かの例えかな?」
卓人の疑問に「違う」と返そうとしたが、振り返り見えた嬉しそうな顔に、紗矢は驚き困惑する。
「どうしたの、峰岸君」
「だって、もうすぐ長がここに来るから」
紗矢を抱き締めていた腕をほどき、卓人は窓へ歩み寄った。
「ほら!」
卓人が声を上げ数秒後、こちらに向かって飛んでくる巨大な姿を、紗矢は視界に捉えた。
あっという間に近付いてきた鳥獣の長は、光り輝く鳥と互いの身を擦り合わせた。その仲むつまじい光景にうっとりとため息を吐けば、卓人が興奮気味に紗矢の手を掴み取った。
「やっと来た! 紗矢ちゃん、外へ出よう!」
「外?」
「刻印の時間だよ」
バタンと勢いよく扉を開け廊下に飛び出した卓人に引き連れられ、紗矢も部屋を出た。
彼の気持ちに比例するように、速度がだんだんと速くなっていく。その勢いのまま階段を駆け下りれば、紗矢の足首がズキズキと痛み出した。
「峰岸君、ちょっと、待って」
もう少しスピードを落として欲しいと言いたかったのだが、卓人は前を向いたままである。紗矢の声に気付いている様子はなかった。
紗矢は裸足のまま靴を履き、外へ飛び出した。寒さに身を震わせながら、紗矢は卓人の背中を恨めしげに見た。彼は普通に着込んでいるから良いけれど、自分はパジャマ一枚なのである。
「やっと来たね!」
庭の真ん中で立ち止まると、卓人が空に向かってそう叫んだ。
両手で自分の身を抱き締めながら頭上を仰ぎ見れば、真っ白な長の姿と目映い鳥獣の姿がまだそこにあった。二羽の瞳がじっと自分に向けられている。紗矢は口元を引き結んだ。
「卓人さん、いよいよですね!」
追いかけてきた伊月が、自分たちと並ぶ。背後を見れば、峰岸家の窓には殆ど明かりが灯っていて、その一つ一つにこちらを見下ろす人影があった。
注がれている視線の気持ち悪さにまた身を震わせた時、あの声が空から落ちてきた。
『主、誰と添い生きる』
強い意志を宿した瞳が紗矢を見下ろしている。
『言え』
紗矢は口を開いた……が、言葉に出来なかった。「峰岸君」と、ただ一言発すれば良いだけなのに、紗矢はその名を声に乗せることが出来なかった。
繰り返される問いかけに、何も言えないまま立ち尽くしていると、長の隣で舞っていた光り輝く鳥獣がその光度を落とし……その場から忽然と姿を消した。
『ついてこい』
闇夜に溶けてしまった鳥に唖然としていると、突然、長が力強く羽ばたき、身を翻した。
「えっ……そんな」
長の行動に、卓人の表情が変わったのが見えた。
「ついて来いって」
「え?」
困惑の表情のまま、卓人が紗矢を見た。紗矢は小さな声で続けて言う。
「今、長がそう言ったの」
卓人が紗矢の言葉を確かめるように夜空を見上げれば、丁度、遠ざかっていた長がこちらを振り返り見て、くるりと一回転した。自分たちが追ってくるのを待つように、その場でぐるりぐりるりと大きな円を描く。
安堵の笑みを浮かべ、卓人は大きく息を吐いた。
「驚いた。紗矢ちゃんへの刻印を拒んだのかと思ったよ」
そして家を振り返り見てから、自分の不安を払拭するかのように、自信たっぷりの笑みを浮かべた。
「……そうだよね。もともと長は人目を嫌うから、家中の人間の視線に晒されてるこの場所でってのが嫌だったんだね」
グワッと野太い鳴き声が、遠くで聞こえた。長のものだ。
『早く来い』
聞こえた言葉に従うように、紗矢がゆっくりと歩き出せば、それに倣って卓人も伊月も歩き出した。
けれど咎めるように鋭く、長が鳴き声を発した。地が震え、三人は立ち止まった。
「伊月はここにいて。それから、みんなにも家で待機しててって伝えて。紗矢ちゃんへの刻印に対して、長は必要以上に神経質になってるみたいだから」
刻印を見届けようと父や祖父が家から出てきたのを見て取り、卓人は真剣な声音で伊月に指示を出した。
「……分かりました」
少しだけ不服そうな色を込めつつも、伊月は素直に了承の意を示すと、勢いよく踵を返した。
ぼんやりと長を見上げていた紗矢の視界の端で、鳥獣が静かに飛び去っていくのが見えた。
(あの鳥)
暗がりでは色を判別できなかったけれど、知っている鳥のように思えた。
「二人で行こう」
隣に並んだ卓人に手を掴まれれば、紗矢に緊張と覚悟がわき上がってきた。
(恐いけど、私は行かなくちゃいけない。なんか、そんな気がする)
巨大な真白き鳥は旋回を止め、二人を引き連れるように、前へと進み出したのだった。
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