第15話 晩餐


「どうぞ!」


「あ、ありがとう」


 卓人が引いた椅子に腰掛けてから、紗矢は居心地が悪そうに部屋の中を見回した。

 自分の家のリビングより二倍は広いだろう部屋の中心に、五メートルほどの長テーブルが設置されている。木目調のテーブルの周りには沢山の椅子が並んでいて、そのうちの一つに今、紗矢は座っている。

 ここは、峰岸家のダイニングルームである。


+ + +


 後ろ髪を引かれるまま自宅を後にし、黒の高級車で連れてこられた峰岸家は、白を基調とした大きな洋館だった。広々とした芝生の庭に面するようにテラスが造られていて、小さなテーブルと椅子がいくつか置かれていた。上階には宙に突き出すようにバルコニーがあり、テラスの屋根としての役割も果たしていた。


 林の中に佇む大きな館をじっと見上げていると、まるでここに外国の一部が紛れ込んでしまったかのように思えてくる。しかし、庭の片隅に建てられている小屋から、我が物顔で出入りする鮮やかな鳥獣たちを目にすれば、外国というイメージからずれが生じる。


 卓人に連れられ、掃除の行き届いたエントランスを抜け、お辞儀をする使用人たちに頭を下げながら進み続けていくと、ある部屋へと通された。暖色系の調度品で統一された部屋だった。ベッドに机、鏡台やドレッサー。どれもアンティーク調である。

 物珍しさのこもった眼差しでそれらを見ていると、卓人が窓を開け放った。


「好きに使ってね」


「えっ」


 吹き込んできた風が紗矢の髪を揺らしていく。


「今日からここが、紗矢ちゃんの部屋だから」


 風の中に、幾ばくの獣臭さが混ざっているのを感じた。躊躇いがちに頷いてから、改めて部屋の中を見回せば、自然と紗矢の表情は固くなっていく。

 他愛もない話を続けていると、召使いだろう年配の女性が食事の準備が整ったことを知らせに来た。紗矢は卓人を廊下へと追い出し、持ってきた服に着替えたのだった。


+ + +



「ねぇ、紗矢ちゃん! 今日のディナーはね、うちのシェフが腕によりをかけて作ったみたいだよ」


「え?」



 卓人に声をかけられて、紗矢は豪奢なシャンデリアから勢いよく視線を落とした。隣の椅子に腰掛けた彼は、こちらに体を向け、にっこりと笑っている。


「みんな、紗矢ちゃんを歓迎してるんだよ」


 喜ぶことも訝しがることも出来ず、ただ曖昧に微笑み返すと、ダイニングルームと繋がっている部屋から、コック服の男性が出てきた。その手は、配膳用のしゃれたワゴンを押している。


「失礼します。お待たせしました」


「はぁ、お腹空いちゃった。今日はバタバタ忙しかったから」


 テーブルの上に置かれた皿から湯気が立ち上る。卓人が子供のように目を輝かせた。


「お口に合えば、よろしいのですが」


 生ハムや伊勢エビに冷製のポタージュスープ。肉汁の流れ出ているステーキ。みずみずしい野菜たちが盛りつけられたサラダに、艶やかに粒の立った白ご飯。

 数ヶ月前、母の誕生日だからと父が奮発し、レストランを予約した。その時食べた割高の料理を彷彿とさせる料理が、峰岸家のシェフによって次々とテーブルに並べられていく。


「食べてしまっても良いのですか?」


 抱いた疑問を思わず口にすれば、男性シェフが笑みを浮かべた。


「もちろんです。食後にデザートとして、ミルフィーユと紅茶をお持ちします」


 ハットの下から覗く髪は白髪交じりであり、この男性はあの運転手よりも年配だろうと想像する。

 どことなく気の置ける笑い顔に、自然と笑みを返したが、隣の卓人が食べ始めたことに気がついて、紗矢はいただきますと慌てて手を合わせた。穏やかに微笑んでいた口元が、再び「お口に合えば良いのですが」と心配そうに歪んだ。


「すごく美味しいです」


「うん。美味しい」


 紗矢と卓人がほぼ同時に感嘆の声を上げれば、年老いたシェフは一礼し、満足げな表情を浮かべながら台所に引き返していった。


「卓人さん!」


 紗矢たちが入ってきたのとは違うドアから、相埜伊月が姿を現した。紗矢はすぐに食事の手を止め、ナプキンで口元を拭うと、伊月の様子をうかがった。

 素早く歩み寄ってきた伊月は最初真剣な顔をしていたが、テーブルに並べられている料理を目にし、動きを止めた。


「今日は、一段と豪勢ですね」


「紗矢ちゃんのお陰なんだから、感謝しなよ……って、準備進んでる?」


 ごくりと唾をのんだ伊月に、卓人は呆れたような視線を向ける。


「あ、はい。阿弥(あや)様が、鳥獣の長から返答がきたと」


「そっか、そうだよね。うんうん。あとは長の動き待ちってことだね……もうこんな時間かぁ。伊月も今のうちに食事をしておいた方が良いよ」


 柱時計を見て発せられた卓人の言葉に、伊月は元気よく「はい」と返事をした。そして丁度台所から顔を出した女性に「俺も、これから食事を頂きます」と声を掛け、部屋から出て行った。


「先に食べてしまって良かったの?」


 小声で問いかければ、卓人はエビから視線を外し、にこりと笑う。


「うちはみんな何かと忙しいから、全員揃っていただきますじゃないんだよ。それぞれがそれぞれのタイミングで、ここに食べに来る感じ」


「そうなんだ」


 見知らぬ人たちと並んで食事をするのは確かに気詰まりであるが、大きなテーブルに二人しか座っていないこの状態も、寂しいものがあった。


「後で、阿弥さんの所に行ってみない?」


「阿弥さん?」


「阿弥さんは、今の求慈の姫だよ。話を聞いておくと、これからの心構えが出来るかもしれないし」


 紗矢は銀色のスプーンでスープをすくいあげ、くぼんだ場所に溜まった液体を見つめ、ぽつりと問いかけた。


「鳥獣の長が……刻印を押した人の中から求慈の姫を選ぶんだって、峰岸君言ってたよね? 確か、自分の分身を託すとか何とか」


 口に放り込んだ肉を数回咀嚼し飲み込んでから、卓人は「そうだよ」と会話を繋ぐ。


「長の分身ってみんな言ってるけど、阿弥さんは、長が生まれ変わるんだって、ずっと前に言ってたよ。求慈の姫を選んだら、塔の最上階で長が卵を産むんだって」


 匙の中でくるりと回った黄色いスープが、そのままボウルの中へぴちゃりと戻っていった。


「あの大きな白い鳥、雌だったの!?」


 聞いた長の声は低く太い声音であり、女性的な感じは全くしなかった。だから紗矢は、雄だと思い込んでいたのだ。卓人が笑いながらお肉にナイフを差し込んだ。



「そうだよね。見た目は逞しくて雄に見えるもんね。それに産まれる雛は決まって雄みたいだし、ちょっとおかしいよね」


「産まれるのは雄なの?」


「うん。成長するにつれて性別が変わるのか、体の機能が僕たちの理解を超えているのか……残念ながら、成長した長は誰にも躰を触れさせないから、それを知ることは出来ないけど」


「庭にいる小さい方の鳥獣たちもそうなの?」


「あっちは、違うよ。雄も雌もちゃんといるし、時々雌が身ごもって、庭の小屋の中で卵を産んでるから」


 もぐもぐと口を動かしてから一気に水で流し込み、卓人は一息吐いた。


「話を戻すね。卵から孵った雛はある程度成長するまで、求慈の姫の力しか食べられないんだ。それが……三年くらいだったかな」


 卓人は持ったナイフの先端でくるくると円を描きながら、記憶を掘り起こしていく。


「長が自分の持つ力を、雛の中にすべて移動させるのにかかる時間なんだって。あ、これも阿弥さんの言ってたことね」


 見つめていた横顔が不意に自分の方を向く。紗矢は僅かに身を引いた。


「最初の三年間、僕は紗矢ちゃんよりも雛も守ることに比重を置かなくちゃいけないんだけど……でも、おざなりにはしないから、紗矢ちゃんは何があっても絶対に守るよ」


 紗矢はスプーンを置き、水の入ったコップに手を伸ばす。ごくりと飲めば、微かなレモンの風味が口内に広がった。


「……力を食べるってことは……その」


「僕も今朝食べたよ」


 事後報告に眉根を寄せれば、卓人が己の唇をつんっと指さした。


「今朝、キスしたでしょ? あの時」


 唇を重ねられ目眩に襲われた記憶が蘇る。


「刻印がされてない女性を喰らうのは、すっごく気を遣うからあまりしたくないんだけど、紗矢ちゃんが美味しそうでつい……お陰で今日はいつもより、力が漲ってたような気がするな」


 手の平に視線を落とした卓人が、ほくそ笑んだ。


「長、早く紗矢ちゃんに刻印押してくれないかな。そうしたら、思う存分喰らえるのに」


 彼の表情と声音の陰影に、紗矢はぞくりと身を震わせる。部屋から飛び出したくなる気持ちを必死で堪えた。


「鳥獣の力を身に宿しているとね、キスが力の補填になっちゃったりもするんだ。だから僕は、紗矢ちゃんに甘いキスばかりをしてはあげられないんだけど……でも紗矢ちゃんがいれば、他はもう要らないから」


 テーブルに頬杖をついて、卓人がじっと見つめてくる。その視線にいたたまれなくなった紗矢が顔を俯ければ、彼は遠慮無しに顔を近づけた。


「紗矢ちゃんだけにキスするし、紗矢ちゃんだけを抱くから」


 耳元で囁かれた言葉に完全に動けなくなったその時、突然派手な音を立てながら乱暴にドアが開かれた。


「卓人!」


 大きな目をつり上げて、その子はテーブルに並んで座っている卓人と紗矢を交互に見た。


「納得いかないわ!」


 ずんずんと進み、彼女は卓人の真後ろに立った。

 癖のない豊かな黒髪に気の強そうな顔。そしてモデルのようにすらりと細長い体。


「竹内(たけうち)さん」


 彼女は竹内琴美(たけうち ことみ)。五之木学園の同級生だ。

 目が合えば、一瞬だけ怯んだような顔をしたが、すぐに彼女は目を瞑り首を振った。


「刻印を授かってもいない女のために、どうして私が居場所を譲らないといけないのよ!」


 彼女が腰に手を当てて身を屈めれば、胸元に大きな痣が見えた。


(……今の、星?)


 場所が場所なのですぐに目をそらしたが、五芒星の形は紗矢の目に焼き付いた。


「彼女は必ず刻印をもらえるの? 見当が外れて私に泣いて謝ってきても、簡単には許さないから!」


 腹立たしさに声を震わせ、竹内琴美は卓人を、そして紗矢を睨み付けた。


「馬鹿だなぁ。彼女が刻印を与えられるかどうかなんて、一目瞭然だよ」


 卓人はおもむろに立ち上がると、怒りの矛先を自分に戻すように紗矢と琴美の間に踏み込んだ。


「琴美だって今、刻印を押されてもいない紗矢ちゃんに、恐怖を感じたくせに」


 卓人が一歩進めば、琴美は彼の存在感におされたように、一歩後退する。


「求慈の姫の器である紗矢ちゃんが、刻印されないわけがない」


 紗矢も思わず椅子から立ち上がる。卓人の背中越しに見える琴美の顔が、蒼白になったからだ。


「琴美も峰岸家の守護下に入っていることに間違いはないから、その身が危険にさらされてるって気がつけば、僕だって一応助けるけどさ……これまでのように、率先してってわけにはいかないよね」


 一歩一歩前に進んでいく卓人の体から、ゆらりと灰色の光が現れ出る。


「だって、僕が誰よりもまず気を配らないといけないのは、琴美じゃない。紗矢ちゃんだよ」


 琴美は声を引きつらせ、後ろへと下がっていく。


「琴美程度の警護なら、伊月で充分」


 詰め寄られていた琴美が足をもつれさせ、その場に尻餅をついた。卓人は身を屈めて、彼女に告げる。


「紗矢ちゃんに余計なことしようとしたら、許さないからね。よく覚えておいて……君じゃあどう頑張ったって、紗矢ちゃんの代わりになんてなれないよ」


「峰岸君っ!」


 紗矢がたまらず名を叫べば、卓人が動きを止めた。嫌な静けさが部屋の中に広まっていく。琴美は瞳に涙をためて立ち上がると、唇を震わせながら部屋を出て行った。

 再び大きな音を立て扉が閉まると、卓人は紗矢に踵を返し、ニッコリと笑う。そこにいたのは、いつもの峰岸卓人だった。


「いけない! 料理さめちゃうね」


 卓人は椅子に戻ると、早速フォークとナイフを手に持った。もう食欲は消えかけていた。紗矢はそれ以上言葉を発することもせず、静かに椅子へと腰掛けたのだった。




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