第14話 追従

 滑り落ちそうになりながら階段をかけおりリビングに飛び込めば、受話器を握りしめて窓の外を見つめる母の姿があった。誰かと通話中だったらしく、受話器から呼びかける声が小さく響いている。


「どうしたの?」


「あ、あ、あれ」


「何?」


 母が指さす窓へと体を向ければ、すかさず「近寄っちゃ駄目よ!」という声が飛んできた。窓の向こう側には、室内からの明かりに照らされている父の愛車がある。しばらく目を凝らして、外の様子を注意深く伺ってみたが、見える景色は一向に変わらなかった。紗矢は窓へ歩み寄る。


「カーテン、閉めようか」


 再び背後で制止を促す声が発せられたが、紗矢はそれを無視した。特に変わったことがない以上、さっさとカーテンを閉めてしまった方が、母のためにも良いと思ったのだ。

 カーテンを閉める前にもう一度だけ、庭の様子を流し見た。


(やっぱり、驚くようなことなんてないじゃない……峰岸君に動揺してたし、それが響いてるのかもしれない……お母さんと、それからお祖母ちゃんも、峰岸家とはどういった知り合いなのかな。やっぱり、求慈の姫とか刻印とか、そういうのが関係してるのかな)


 しかめっ面で思案していると、紗矢の視界の隅で黒い影が動いた。瞬時に心が凍り付く。身動きが出来ないまま車の陰を凝視し続けると、またゆっくりと影が揺れ、それは姿を現した。

 部屋の明かりに誘われるよう近付いてきたのは、茶色に白のまだら模様が入った小犬だった。見覚えのある姿に、紗矢は苦笑いをする。


「びっくりしたなぁ。この子、隣の家で飼い始めた小犬だよ。朝、玄関先にいるの見たよ」


「紗矢、窓から離れなさい! それはただの犬じゃない!」


「えっ」


 伸びた明かりの帯の中で、小さな体がお座りをする。よく見れば確かに、その表情は奇妙だった。自分を見つめている瞳が虚ろ過ぎるのだ。

 じっと見つめていると、突然、その体がガラスにぶつかってきた。反射的に紗矢は悲鳴を発し、窓際から離れるように後ずさりをする。

 犬がジャンプをし、窓にぶつかってきた訳ではない。まるで誰かに体を掴まれ、そのまま投げつけられたかのように、ぶつかってきたのだ。窓から地面に落下したその体は、ぴくぴくと痙攣を繰り返している。


 紗矢も宏美も、言葉を発せぬまま立ちすくんでいると、今度は窓に黒猫がぶつかってきた。

 衝突はそれで終わりではなかった。どこからやって来たのか、犬や猫や鳥やネズミが次々と激突し、ガラスを揺らす。今にでも割れてしまいそうな窓ガラスに恐怖を感じ、紗矢は更に窓ガラスから距離を置く。


(どうしよう。逃げた方が良い?)


 母は取り落としそうになっていた受話器を握り直すと、電話の向こうにいる人物に、この状況を語り出した。


「家に、次々と動物が、ぶつかってきて、どんどん」


 母の混乱した声が、紗矢の焦りを助長させる。ここから逃げ出すべきなのか。それともここに留まって、母と同じく誰かに助けを求めるべきなのか。


(助けを求めるって言ったって、誰に?)


 車の屋根に次々と登り始めた猫たちが、揃って紗矢に澱んだ目を向けた。多くの視線を受け、紗矢はハッとし身を強ばらせた。峰岸家の車から降りた時に感じたあの嫌な気配そのものが、薄いガラスを通して自分に突き刺さってくる。黒い影が動物たちにまとわりつけば、小さな体がぶれて見えた。


(怖い)


 注がれ続ける邪悪な視線に、自分が狙われているのをひしひしと感じ取る。再び、いくつもの体が窓ガラスを破ろうとぶつかり始めた。口元を抑えた手が小刻みに震える。


(助けて)


 二階の窓から助けを乞えば、峰岸卓人は助けに来てくれるかもしれない。そう思うのに、紗矢は違う顔を思い浮かべてしまっていた。


(……越河君、助けて)


 パリッと、どこかで何かが割れる音がした。窓が割れるような大きな音ではなく、どちらかと言えば、ヒビが入ったような控えめな破裂音だ。紗矢と宏美は、その微かな音を耳で拾い、身を竦めた。

 思わず顔を見合わせると、続けて階上や奥の部屋、ひいては家の至る所から壊れる音が鳴り始めた。恐怖に紗矢は母の腕へとすり寄った。


『大丈夫ですから、落ち着いてください』


 話しているのは父だろうと予想していたが、電話口から聞こえた声は紗矢にとって聞き覚えのない男性のものだった。


「駄目よ、このままじゃ、あいつら窓を破って入ってくるわ!」


『大丈夫ですから、その家にはマツノさんの――……』


 こんな時に誰と話しているのかと目を瞠ったとき、受話器から響いていた穏やかな声がふつりと途絶えた。もう何の音も聞こえなかった。


「回線が、切れた」


 宏美の言葉と共に、全ての音が遠ざかった気がした。


「ねぇ、お母さん――っ!?」


 リビングの窓の近くで、パリンと割れる音が大きく響いた瞬間、窓の外がすっと暗くなり、生き物の瞳だけがぎらりと反射した。母と紗矢が身を寄せ合えば、一斉に動物たちがぶつかってきた。

 とうとう窓は割れてしまった。尖ったガラスに構うことなく、己の身を傷つけながら、動物たちは室内に侵入する。

 歪に歩を進め距離を詰めてくるそれらの視線は、やっぱり紗矢を捉えていた。


(私だ)


 紗矢が母から一歩遠ざかれば、その分、動物たちの視界も移動する。


(私が逃げれば、きっと)


 心が決まれば、行動に移すのは早かった。リビングから飛び出すべく、紗矢は戸口に向かう。案の定、動物たちも紗矢の後を追いかけようと、それぞれが体の向きを変えていく。

 勢いよくドアノブを捻ろうとし、紗矢は青ざめた。


(嘘、開かない!)


 この扉には鍵が備わっていないのにもかかわらず、施錠されてでもいるかのように回らないのだ。


「紗矢っ!」


 母の叫び声に振り返れば、じりじりと近付いてきていた動物たちが、紗矢へと飛びかかってきた。


「きゃあぁっ!」


 恐怖で悲鳴を上げたその瞬間、手首がかっと熱くなった。飛び上がった小さな体たちが、多方向へとはね飛ばされていく。

 ドクドクと体の中で鼓動が鳴り響く。紗矢はドアにもたれかかり、カーペットの上へと崩れ落ちた。諦めきれないように、何度も何度も動物たちが飛びかかってくる。がしかし、それらは紗矢に触れることすら出来なかった。

 熱を感じる手首に落ち着かない視線を落とせば、透明だったそれはすっかり元の色を取り戻していた。


「は、灰色」


 灰色。峰岸の卓人の色。


(守護下って、こういう事なのかもしれない)


 自分は今、卓人に守られたのだということを、実感する。次第に動物たちは飛びかからなくなった。しかし安堵する暇もなく、それらはよろよろと回れ右をし始める。

 生気のない視線を受け、リビングの隅に避難していた宏美が引きつるような声を上げた。じわりじわりと、動物たちが動き出す。それはターゲットを変えたという事だった。


「お母さん!」


 紗矢は立ち上がろうとする。しかし酷く震えている体は、思うように動かない。


「こっちに来ないで!」


 母の後ろは壁である。右に左そして前方からにじり寄ってくるそれらが、彼女の逃げ道を潰していく。


「止めて! お願い……峰岸君」


 紗矢が声を震わせるのと同時に、動物たちが一斉に母へと飛びかかった。


「峰岸君、お母さんを助けて!」


 開かなかったはずのドアがガチャリと開き、部屋の中を疾風が駆け抜けていく。動物たちに多くの切り傷を刻み込み、その体を床へと沈めていった。


「はぁ、もう。紗矢ちゃんにお願いされちゃったら、聞かないわけにいかないじゃない」


 紗矢の目と鼻の先で、彼の持つ刀が目映く光る。卓人はいつもと変わらない表情で室内へと踏み込み、その背に灰色の羽を大きく広げた。

 突然、動物たちが部屋の中を逃げ惑い始めた。裂けた傷から血を滴らせながら割れたガラスを飛び越え、いくつもの体が一目散に夜の闇の中へと走り出ていく。

 戸惑うようにぐるぐると天井を舞っていたカラスが紗矢に近付いた瞬間、閃光が走った。ボトリと落ちてきた黒い躰は、鋭く断ち切られていた。紗矢は両手で口を押さえ悲鳴を飲み込んだ。座ったまま扉の影へと下がっていく。


「紗矢ちゃんに近付くから、そうなるんだよ。馬鹿だなぁ」


 卓人は、あまり時間もかけずに室内に残った獣を一掃する。わざとらしく息を吐いてから羽を閉じ、手にしていた刀を慣れた手つきで鞘に収めた。


「どう? 紗矢ちゃんは守れそう?」


 顎を反らし宏美を見下ろしながら、卓人は言う。宏美は何も言い返すことが出来ず唇を噛んだ。


「紗矢ちゃんの力に異形は惹かれて寄ってくる。だから僕は命を賭して、あれらから紗矢ちゃんを守る。守護下におくって、こういう事だよ」


 閉じていた羽がふわりと広がり、灰色の光が舞い上がった。


「それでも紗矢ちゃんを離さないって言うつもり? 僕もこんな所に紗矢ちゃんを置いておきたくないし……うーん。でも紗矢ちゃんのお母さんだから、あまりやりたくないんだけど……力ずくで言うことを聞かせなくちゃならなくなるね。このままだと」


 卓人の顔は気乗りしない風を装っているが、身に纏う灰色は濃さを増していく。


(峰岸君、きっと……本気だ)


 卓人はゆるりと口の端を上げ、宏美に向けすっと手を伸ばした。それを見て、紗矢は両足に力を込め立ち上がる。


「紗矢ちゃんは僕のもの。例え母親だって、間に割り込むことは許さ――……」


「止めて!」


 言葉を遮るように、紗矢は彼の腕にしがみついた。


「行こう……峰岸君の家」


 伸ばされている彼の手にそっと己の手を重ねれば、卓人は紗矢の力に抗うこともなく大人しく手を下ろした。


「うん」


 卓人はにっこりと笑みを浮かべ、嬉しそうに紗矢の肩に手を回す。


「準備して」


「分かった」


 二人並んでリビングから出ようとした時、母が「紗矢!」と叫んだ。


「しょうがないなぁ。しばらく会えないと思うし、お別れのハグでもしたら?」


 背をトンを押され、紗矢は母に向かって前進する。そのままゆっくり歩み寄れば、宏美は加減することなくぎゅっと紗矢を抱き締めた。


(母に抱き締められるのはいつぶりだろう)


 ぼんやり思い巡らせれば、絞るように宏美が言葉を紡いだ。


「ごめんね。母親なのに、何も出来なくて」


 紗矢は首を振る。


「またね、お母さん」


 そして精一杯の笑みを浮かべ、母から身を離した。もう母の顔を見ることは出来なかった。

 卓人に連れられるようにリビングを出て、階段を登るべく片足を段に乗せると、後ろから言葉をかけられた。


「さっきの、僕と紗矢ちゃんの間に割って入るって話だけど……他の五家は、もっと許さないからね」


 振り返れば、卓人が不敵に笑った。


「特に、越河」


「……わ、割り込むなんて。それはないよ」


 脳裏に浮かんだ珪介の顔を慌ててかき消しながら、紗矢はまた必死に笑顔を作った。




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