第13話 青と水色
多くの車の流れから反れて横道へ入れば、途端にあたりの暗さが増した。電灯と住宅から漏れる明かりだけでは、車内の暗さまでをも払拭することは出来なかった。
隣に座る卓人が、窓の外に目を向けたまま何も喋らないから余計だ。と言っても、紗矢も自分から言葉を発しようとは思わなかった。ただぼんやりと、運転席でハンドルを握る初老の男性の後頭部を見つめていた。
男性は燕尾服を纏っている。峰岸家の執事と言って間違いはないだろう。
何となしにバックミラーへと視線を流せば、目尻に皺のあるその人と目が合った。紗矢は慌てて視線を足下へ落とし、込み上げてくる気まずさを捨てようと静かに息を吐いた。
「あっ、この辺りでいいや。停まってくれる?」
突然、今気がついたような声音で卓人が運転手に声を掛けた。すぐさま「かしこまりました」という低い声が返ってきて、緩やかに停車する。
「お気に入りの洋服とか……持って行きたい物くらいあるよね? 一緒に取りに行こう」
華やいだ笑みと共に繰り出される真面目口調に、紗矢は怯み、動きを止めた。
それを気にとめることなく、執事によって開けられたドアから降りた卓人は、素早く紗矢側のドアへと回り込んできた。
恭しくドアを開けられてしまい、紗矢はぎこちなくコンクリートの上に降り立った。
「本当に、本当に、私は峰岸君と、一緒に暮らすの?」
途切れがちに問いかければ、卓人は紗矢の手を掴み取り、大きく目を見開いた。
「そうだよ! さっきから言ってるじゃん」
「でも……なんかやっぱり現実味がないって言うか」
紗矢は項垂れたくなった。
(だって、私が峰岸君と一緒に暮らすとか、私が峰岸君の婚約者になるとか)
卓人の発言や、エスコートされ歩き出すこの状態。そして空を駆ける巨大な白い鳥や、珪介と卓人の背にあった羽。振り返って考えれば、全てが絵空事のようである。
一向に渋面を崩さずにいる紗矢を見て、卓人は破顔した。
「僕たちは傍にいる方が、お互いにとって都合が良いんだよ」
「……都合がいい」
引っ掛かった言葉をつい復唱すれば、卓人がちらりと紗矢を見た。
(都合が良いって言うのは、何となく分かるような気がする)
紗矢は辺りをゆっくりと見回した。意識を研ぎ澄ませば、無数の禍々しい気配が、そう遠くない場所からこちらの隙を伺っているような……そんな気配が伝わってくる。それはあの黒い毛を纏った生き物の持つ気配と、似ているような気がした。
しかし気配の主はこちらを見ているだけで、近付いてくる様子はない。
(近付いてこないのは、きっと峰岸君がいるからだ)
峰岸卓人の傍にいれば自分の身の安全が確保される。けれど、そのことが婚約に繋がるのは、間違っているとしか思えなかった。お互いを好きになった上での婚約でないのなら嫌だ。そう考えを巡らせた瞬間、卓人の腕に引き寄せられた。
「大丈夫だよ。僕は紗矢ちゃんのこと、ちゃんと好きだから」
頬に柔らかな唇を押しつけられ、紗矢は逃げるように後ずさる。
「とにかく今夜のこともあるし、紗矢ちゃんもしばらく動けないかもしれないから、家族の誰かに峰岸の家に居るってことくらい言っておかなくちゃね」
(今夜? 動けなくなる?)
『今宵、再び問う。決断せよ』
耳元で告げられたかのように、鳥獣の長の言葉をハッキリと思い出し、紗矢はぶるりと身を震わせた。
「誘拐かなんかと勘違いされて大騒ぎになったら面倒だからね……って、どうかしたの?」
「ううん。なんでもない」
鳥肌の立った両腕を両手で摩れば、再び卓人がその手を握りしめてきた。
紗矢は手を引かれながら、目と鼻の先にある自分の家に目を向ける。周囲の家々の窓にはとっくに明かりが灯っているというのに、紗矢の家だけ夜の薄暗闇の中に沈んでしまっていた。まだ誰も帰宅していないようだ。
祖母が亡くなった今は、父と母と紗矢の三人で暮らしている。会社勤めの父は大抵十時を過ぎた頃帰宅し、パート勤めの母は六時過ぎに、寄り道するときは九時半くらいに帰宅する。
紗矢は峰岸家の車を振り返り見た。執事然とした男性が車の脇で姿勢を崩さず立っていた。
母は遅くなるとき、決まって「何か食べていて」メールを送ってくる。しかしその携帯は今、あの車の中にある。もしかしたら、座席下に置いた鞄の中で、ひっそりと着信を告げているかも知れない。
母の帰りが遅くなるとなれば、あの家の中で卓人と一緒に待つことになるだろう。車の中のような沈黙が再び訪れてしまったらと思うと、ちょっとだけ気が重くなった。
しかし、その心配は杞憂に終わった。
「紗矢?」
油の切れた耳障りな音を響かせながら隣を行き過ぎた自転車が、急停止した。
「お母さん!」
紗矢の母、宏美(ひろみ)は自転車を降るとまず紗矢を見て、そして繋がっている手の先にいる卓人の顔を見た。
「まぁ」
少しだけ頬を綻ばせてから、宏美は「アイドルみたいに可愛い顔ね」と小声で付け加える。卓人はふわりと笑みを浮かべて自己紹介をする。
「初めまして。峰岸卓人と言います」
「み、みね、ぎし?」
峰岸という名が喉に詰まったかのように、宏美は苦しそうに顔を歪め、支え持っていた自転車から手を離した。アスファルトに自転車が打ち付けられた音に紗矢が肩を竦めたとき、宏美が固い声音を発した。
「帰ってください!」
「お、お母さん?」
「マツノはいないんです! もう私たちは関係ない!」
普段温厚な母が声を荒げていることに、紗矢は驚きを隠せなかった。一方卓人は、初対面の人間に怒鳴られているのにもかかわらず、口元に笑みを浮かべている。
「そうだよ。貴方は関係ない。でも、紗矢ちゃんは違う……僕たちと関係を持たなくちゃいけない人だよ」
繋がった手を見せつけるように持ち上げ、卓人は紗矢の母を高圧的に見下ろした。
「紗矢ちゃんは僕の守護下に入れるから。連れて行くね」
卓人の言葉に、宏美は蒼白になる。しかしすぐに我にかえると、彼女は金切り声を上げながら、娘を掴んでいる手を叩き落とした。
「何を言っているの! そんなの許可できるわけないでしょう! 手を離しなさい!」
そして今度は宏美が紗矢の腕を掴んだ。
「帰るわよ、紗矢」
有無を言わさぬ勢いで引っ張られ、よろめきながらも、紗矢は肩越しに後ろをちらりと見た。
不愉快そうに眉根を寄せた卓人の体が、突如、陽炎の如くゆらりと揺れた。すぐにそれは、目の錯覚などではなく彼の体から立ち上った灰色の揺らめきのせいだと気付かされた。
背筋に冷たいものが走り、とっさに紗矢は前を行く母に声を掛ける。
「お母さん、待って!」
「紗矢は黙ってなさい!」
ぴしゃりと言われてしまい口を閉じれば、後ろから怒りを含んだ声音が追いかけてきた。
「良いの? 僕から紗矢ちゃんを奪うような真似をして」
母の手に、一瞬力がこもった。
「言っておくけど。マツノさんの力の結晶、あれね、僕が壊しちゃったんだ。だからもう、今までのようにいかないからね」
宏美は立ち止まることなく足早に家の門をくぐると、ショルダーバックから鍵を取り出した。
「紗矢を奪うような真似って……母親に向かってよくそんな事が言えるわね」
刺々しい独り言を発しながらドアを開け中に入ると、宏美はその勢いのまま紗矢も引っ張り込んだ。そしてすぐさま内鍵を締めると、深く息を吐き出した。
一気にやつれてしまった母親の顔を見つめながら、紗矢は小声で問いかけた。
「お母さんは、峰岸君のこと知っていたの?」
すぐに返答はなかった。言葉の代わりに苦い顔をされ、質問を繰り返すことも出来ずにいると、宏美から消えそうな声が返ってきた。
「……峰岸家は知っているわ……それより紗矢、数珠は?」
問いかけながら、宏美は紗矢の腕を掴み取り、ブレザーの長い袖を捲り上げる。見えた灰色のブレスレットに、宏美が息を詰めた。
「数珠はどうしたの?」
「今朝壊れちゃって、それで……」
そこまで言葉を並べて、紗矢ハッとする。あの白い石の欠片はブレザーに入れたままだ。自分のブレザーはどこに有るのだろうか。図書館で脱いだのは覚えている。けれど、先ほど立ち寄った図書館にそれが有ったかどうかまでは分からない。
紗矢は身に着けている大きめのブレザーを、改めて見下ろす。
(これ、本当に越河君のだよね)
もしそれが単なる思い込みであったとしたら、自分は今、見知らぬ誰かのブレザーを着ている事になる。気持ち悪さが込み上げて来て、紗矢は纏っていたブレザーを脱ぎ始めた。
「ねぇ紗矢。あの子とは、いつから知り合いだったの?」
「峰岸君のとは一年の時同じクラスで、それでよく話をするようになって」
「……彼に、何を言われた?」
彼には色々言われ過ぎて、何から話したら良いのか分からなくなった。紗矢が口ごもってしまうと、母は苛立ちをぶつけるかのように乱暴に靴を脱ぎ捨てた。
「今後のこと、パパも含めて話しましょう。最悪、紗矢は転校よ」
「えっ……どうして」
「当たり前でしょ! 峰岸なんかと関わり合いになんてなりたくないわ。あぁ、もう。どうしましょう」
母は頭を掻きながら、家の奥へと消えていった。紗矢も続くように家に上がると、静かに階段を登り、自室に戻る。閉めた戸に背中を預けると、階下から慌ただしい母の足音が聞こえてきた。
じんわりと疲れが足下から這い上がってきた。電気を付けてから、紗矢は気力を振り絞って長袖のTシャツにショートパンツへと着替えた。そして珪介のだと思われるブレザーをハンガーに掛け、それと向き合った。
ゴメンと囁いてから、ブレザーを調べ始める。持ち主の名前が分かるものが、ポケットに入っていたりしないだろうかと、考えたからだ。
これが珪介のブレザーで正解だとして、あわよくば、携帯番号の書かれた紙などが入っていたりしないだろうか。期待を込め、ポケットを一通り探ったが、ゴミ一つ出てこなかった。
「何もないなぁ……私のブレザーを越河君が持っていたり、してくれないかな」
色々心配だった。自分のブレザーの中にしまいこんであるビロードの袋の中には、欠片になってしまった白い石が入っている。あれは祖母の形見なのだ。無くしたくない。
それから、図書館のあの惨状もだ。思い返す度、不安になってしまう。
珪介と連絡が取れ、彼の落ち着いた声を聞けば、この恐怖感は解消するはずなのだ。
「あっ、でも携帯」
紗矢は肩を落とした。珪介へと繋がる連絡先が出てきたとしても、携帯電話は峰岸家の車の中にある。自宅の電話を使うのも、この状況下では気がひけた。
「峰岸君、まだいるかな」
紗矢は窓の外を確認する。例えいたとしても、それを受け取りに家の外へと出ることは、無理かも知れない。だからと言って、鞄を置きっ放しにしていることも気になってしまう。
少しだけつま先立ちになりながら黒い車を探していると、目の前の木がガサガサと揺れた。音につられて木の上の方へ目を向けると、そこに二羽の鳥がいた。
ランスのような姿の鳥たちが羽を大きく広げ、紗矢は驚きで目を丸くする。
「青と水色」
鮮やかな色と淡い色が、紗矢に近寄るように、揃って枝を移動する。行儀よく羽をたたみ終えた瞬間、青い鳥がギャーギャーと鳴き声を発し始め、水色の鳥がそっと距離を置いた。
「もしかして私、怒られてる?」
自分に向けて、青い鳥がしきりに喚き立てている。文句を言われているような気持ちにはなったが、攻撃的な感じは全くなく、段々と面白く思えてきてしまった。
(五月蠅い方はランスのよりちょっと大きいかな。水色の方は同じくらいかも)
微笑みながらそう見立てれば、しぼみかけていた不安が急速に膨らみだした。
「……力比べ」
図書室の崩れた本の下にあった羽は、ランスのものだろう。
(喧嘩になって、ランスが本の下敷きになった……なんていわないよね)
想像した光景に身を震わせたとき、ガラスの向こうで青と水色が素早く飛び立った。弾かれたように顔を上げれば、それらを追うように灰色の影が過ぎていったのが見えた。
(峰岸君!)
紗矢は慌てて窓を開け、通りに顔を向けた。街灯の下に停車した車に寄りかかって、卓人が夜空を見上げている。目で追っているのは、鳥の動きだろう。
「なんで攻撃させるのよ!」
あの灰色の鳥は今、卓人の指示ではなく己の意思で動いているのかも知れない。しかし紗矢は、珪介とランスの意思が通じ合っているかのような動きややり取りを目にしているのだ。だからこそ、鳥の行動に卓人の意も含まれているだろうと考えてしまっていた。
二羽の鳥は衝突と威嚇を繰り返しながら遠ざかっていく。固唾をのんで見つめていると、窓枠に添えていた手に冷たい重みを感じた。
手首のブレスレットを見て、紗矢は短い悲鳴を上げる。灰色の石たちが、ゆっくりと色を失い始めたのだ。白濁を通り越し、徐々に透明度が高くなっていく。
「なにこれ」
思わず卓人に視線を向ければ、まるでずっとこっちを見ていたかのような表情の彼と目が合った。
「何か……したの?」
自分の声は届かないと分かっていながら、紗矢は卓人に囁きかけた。すると、彼の口が動いた。眉根を寄せ僅かに首を傾げれば、彼はニッコリと笑いかけてきた。可愛らしい笑みが、無性に怖くなった。
嫌な予感が体から溢れそうになったとき、突然、階下から悲鳴が上がる。紗矢の心臓が大きく脈打った。母、宏美の声だったからだ。
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