二章

第12話 傷跡

 茜色に染まった空。朱の光が雲の色を変え、大きな純白の躰までも染め上げる。力強く羽ばたき、悠然と空を駆けていくのは鳥獣の長。紗矢は黙ってそれを見上げていた。


『主、誰に力、分け与えるのか』


 不意に声が聞こえてきた。それは自分の記憶の中から現れ出た声なのか、それとも空高い場所で滑らかに飛び回ってるあの鳥が直接話しかけてきた声なのか、紗矢には分からなかった。


『誰に添い、生きる』


(私は……)


 脳裏に浮かぶのは、峰岸卓人の可愛らしい笑顔と、越河珪介の涼しげな顔。


 唇を引き結べば、ばさりと足下に何かが落ちた。裸足のつま先が濃紺に覆い隠されている。五之木学園のブレザーだ。明らかに自分の体よりも大きなそれが、紗矢の冷え切った素足に柔らかな温かさを与えた。

 ホッとし息を吐けば、ブレザーから細かな光が立ち上り始めた。目の前を行き過ぎようとする赤い光の粒へゆっくりと手を伸ばせば、また声が聞こえた。


『その光……越河に力を分け与えるのか』


(光? あぁ、そうだ。これは越河君の色)


 そう思い巡らせれば、伸ばした手元で光が跳ねた。紗矢はびくりと肩を揺らす。


『その守護珠……峰岸に添うか』


(守護珠? あぁ、そうだ。これは峰岸君の色)


 卓人から渡された灰色のブレスレットが主張するように鈍く輝いた。


『答えよ』


(私は……私が一緒にいたいのは)


 突然、伸ばしていた手に熱を感じ、紗矢は短く悲鳴をあげた。守護珠から放たれた灰色の光が、手首にまとわりつく。何度振り払っても絡みついてくるそれに、心が恐怖でいっぱいなっていく。





「いやぁっ!」


 自分の叫び声に、紗矢は瞳を開けた。体の中で心臓の音が激しく鳴り響いている。息を荒げたまま、無機質な天井をぼんやりと見つめた。

 真っ白なそこに茜色の帯がまっすぐ伸び、細長い蛍光灯に目映く反射している。

 長く息を吐いた後、紗矢は気だるげに身を起こすと、自分が眠っていたベッドや、周りを囲んでいるクリーム色のカーテンを見た。

 そして最後に自分の胸元に視線を落とし、息をのんだ。リボンは無造作にほどかれ、ボタンも二つほど外されている。水色の下着がちらりと視界に入ってきて、紗矢はうめき声を発する。


「紗矢ちゃん、起きた?」


 声音と共に靴音が響き、カーテンに映り込んだ影が徐々に大きくなっていく。慌ててボタンを一つかけた所で、勢いよくカーテンが開いた。


「大丈夫? うなされてたみたいだけど」


「み、峰岸、くん」


 夕陽をバックに、峰岸卓人がにこりと微笑んだ。卓人の斜め後ろには相埜伊月が立っている。

 彼の視線が自分の手元……胸元を抑えている手に、留まったことに気がついて、紗矢は身を強ばらせた。


「ここ、保健室?」


 二人の背後にある薬品棚を見てか細く呟けば、卓人から「うん」と愛らしい声音が返ってきた。自分はどうして保健室で寝ていたのか。続けてそう言葉にしようとした時、眠っていた記憶が目を覚ました。紗矢は狼狽えつつ、もう一度周囲を見回す。


「峰岸君……あの私」


 自分が眠りについたのはこの場所ではなく、一緒にいたのも峰岸卓人ではなかったはずだ。


「図書館にいなかった?」


「うん。図書館で見付けたよ」


「私、怪我をして、越河君が手当て……」


 越河という名を出すやいなや、卓人はつまらない顔を、伊月は気に入らない顔をする。彼らの表情に気圧され、紗矢は口を噤んだ。


「越河はね、僕が図書館に着いたら、来るのが遅いって文句だけ言って、さっさと出て行っちゃったよ」


「……そうなんだ」


 紗矢は胸の奥に顔を出した不満を顔に出さないよう努めながら、冷静に言葉を返した。

 寝てしまった自分に付きそう義務が珪介にない事は分かっている。それなのに、起きるまで傍にいてくれれば良かったのにと、ほんの一瞬考えてしまったのだ。そんな自分が酷く滑稽に思え、胸元を抑えていた指先につい力を込めた。


「伊月、先に本家に戻って、そろそろ車の迎えをよこすように言ってくれる?」


 聞き慣れない卓人の不機嫌な口調に驚き見れば、彼はじっと紗矢を見つめていた。見つめたまま、言葉を続ける。


「それから、紗矢ちゃんを連れて帰るから儀の準備もよろしくって」


 きわめて真剣な卓人の眼差しに何も言えないまま、紗矢も彼を見つめ返した。伊月の「分かりました」という言葉と、進み出した足音がやけに大きく聞こえた。

 足音が遠のき、辺りが静かさで満たされると、見つめ合っているこの状態が落ち着かなくなり、紗矢はやや乱暴に卓人から視線を外した。


(今、私を連れて帰るって言った。家まで送ってくれるってこと?……どうしてそこまでしてくれるんだろう)


 また思案すれば、卓人との今朝のやり取りを思い出した。


(フィアンセがどうとか言っていたけど)


 改めて卓人に目を向ければ、彼はいつもの調子でにこりと微笑んだ。紗矢も曖昧な笑みを浮かべ、思い出してしまった単語から離れるべく、違う話題を口にする。


「峰岸君の家は学校から遠いの?」


「ううん。って言っても、紗矢ちゃんの家ほど近くもないけど、普通に歩いて通える距離だよ。どうして?」


「今、車がどうとか言ったから」


「あぁ。だって紗矢ちゃん、今の状態だと歩くの辛いでしょ?」


 さも当然とばかりに言葉を並べられ、紗矢は焦りながら首を大きく振った。


「や、やだっ。大丈夫だよ。私のことは気にしないで。すっごい家近いし、普通に歩いて帰れるから」


 卓人はベッドに片手をつき互いの距離を詰めると、首を振って拒否するのを止めさせるかのように、紗矢の頬に触れた。


「紗矢ちゃん。今日から僕たちは、一緒に暮らすんだよ」


 あくまでも穏やかな口調で、卓人はそう言った。すぐさま反発心が込み上げて来たが、彼の瞳を見た瞬間、紗矢はまた何も言い返せなくなってしまった。卓人の瞳の中で灰色の光が舞い踊り、すぐに彼の体からも光が立ち上り始めた。


(……濃い)


 色彩が濃いなどという事ではない。光を纏った卓人から重厚さが伝わってきたのだ。


「伊月に言伝を頼んだのは、今夜のこともあるし、あまり紗矢ちゃんに負担を掛けさせたくなかったからだよ」


 紗矢の頬を撫でていた手が、ブラウスの胸元を握りしめ硬直している紗矢の手に触れる。


「今夜、君は峰岸の名の下で刻印を授かり」


 紗矢が僅かに体を震わせると、卓人がゆったりとした動作で、華奢な体を包み込むように両手を回した。苦しさを覚えるほど力強く抱き締められ、身動きも取れなかった。


「そして僕の婚約者になるんだ」


 灰色の光が漂う中で彼の囁き声にぼんやりと耳を傾ければ、次第にそうするべきなのだという気持ちになってくる。


「君を守り抜く力を持つのは、僕だけだよ」


(峰岸君なら……どんな怖いものからでも、私を守ってくれる)


 甘ったるく囁く卓人の唇が、少しずつ近付いてくる。


(だから私は、彼を受け入れなくてはいけない)


 紗矢は僅かに瞳を細めたが――……、


「ひ弱な越河じゃ、君を守りきれない」


 その言葉が聞こえた瞬間、卓人の体を突き飛ばしていた。


「越河君は、ひ弱なんかじゃない!」


 曖昧な世界から逃げ出すべく、掛け布団を捲り上げ、紗矢はベッドから降りようとした。


「……こ、これ」


 掛け布団と自分の間にブレザーがあった。


「駄目っ!」


 卓人がそれを掴み取ろとした気配に気付けば、咄嗟に語気を強め、紗矢は素早くブレザーを奪い返していた。

 ブレザーのサイズは、明らかに男子のものである。しかし目の前にいる卓人はブレザーを身につけている。それならば、これの持ち主として思い当たる人物は一人しかいない。


(これきっと、越河君のだ)


 紗矢が濃紺のブレザーを自分の胸元へとたぐり寄せたのを見て取り、卓人が大仰にため息を吐いた。


「寝ても覚めても、それを掴んで離さないつもりなの? 困ったなぁ」


 卓人は紗矢から離れ、何かを考え込みながら、室内をうろうろと歩き出した。そしてポンッと手を打つと、彼は戸口の手前で紗矢へと振り返り、可愛らしく笑う。


「進むべき道をキチンと教えてあげるのも、夫の役目だよね。ついてきて、紗矢ちゃん」


 紗矢は素直に頷くと、珪介のブレザーを掴んだままベッドから降り、卓人を追うように保健室を出た。


「足、大丈夫?」


「平気……だけど、ゆっくり歩いてもらえると嬉しい」


「うん。わかった」


 廊下に生徒の姿はなく、窓の外は薄暗かった。物寂しさの漂う中、卓人と並んで外に出れば、校庭で部活動の後片付けをしている陸上部の姿がみえた。

 ブラウス一枚では薄ら寒くて、紗矢は握りしめていた珪介のブレザーを羽織った。それを見て、卓人が膨れっ面をした。


「脱いでくれないかな。越河臭くて紗矢ちゃんを抱き締めたくなくなるから」


「えっ……いや。だって、寒いもん」


 だったら、なおさら脱ぐわけにはいかないと、自分の腕で自分を抱き締めれば、卓人の歩く速度が加速する。拗ねてしまったらしい。

 それほど距離は歩いていないのに、だんだんと足首の痛みが強くなっていく。浮かんできた額の汗を拭ったとき、やっと卓人が足を止めた。

 連れてこられたのは図書館だった。卓人に続いて中に入り、紗矢は息をのんだ。


「これ……」


 入り口近くに椅子が置かれていて、そこに「本日、一階返却のみ」という張り紙がされていた。


「あれじゃあ、片付けるの大変そうだね」


「なんで本棚倒れたんだろう。巻き込まれた人いなかったから良かったけど」


 女子生徒二人が囁き合いながら、二人の横を通り過ぎていった。目を凝らせば、壊れた扉が見えた。途端、鼓動が強くなる。紗矢は恐々と奥へ進んでいく。

 少し前まで珪介と一緒にいたその場所は、記憶の中に残っている光景とは変わってしまっていた。


「どうしてこんな事に」


 明かり取りの小窓はヒビが入り、ソファーに黒い線を落としている。壁に掛けられたポスターは所々破れていて、だらしなく垂れ下がっていた。壊れた戸口にも入り口と同じように椅子が置かれていて、「通行禁止。手前の戸口から入ること」と走り書きされた紙が貼られている。

 紗矢は戸口に歩み寄り、中を覗き込んだ。本棚がドミノ倒しのように重なり、本が無残に床へと落ちている。


「酷い」


 思った言葉をぽつりと呟いた時、視界に赤色を捉えた。血の気が引いていくのを感じながら、紗矢は警告文を無視して室内に入っていく。本の下に赤い羽根があった。


(ランスの羽根だ。なんでこんな場所にあるの?)


 慎重に本を取り除き、艶やかな赤い羽根を震える手で掴み上げた。


(これじゃあまるで、争ったみたいじゃない)


 ハッとし振り向くと、戸口から紗矢の動向を見つめていた卓人が笑みを浮かべた。


「越河君は、ここからすぐに出て行ったって、言ったよね?」


 たどたどしく問えば、彼の笑みが深くなる。


「違うの?」


「ちょっと遊んだだけだよ」


「遊んだって」


「力比べってやつ?」


 微笑みが不穏を帯びた瞬間、風が吹き抜けた。持っていた赤い羽根を、紗矢の手から巻き上げていく。


「紗矢ちゃんのように刻印を持つべく産まれてきた女性は、鳥獣にとっても僕たちにとっても、大切な存在なんだよ」


 卓人の背に灰色の翼があった。それは珪介のように、光がその形を象ったものではない。鳥の翼そのものだった。


「鳥獣は命を繋ぐため、僕たちは力を維持するために」


 卓人の「灰色」は珪介の「赤」のように、綺麗だとは思えなかった。けれど、卓人の翼は「逞しい」と思わせる迫力があった。


「己の中の力が強ければ強いほど、相手にもそれに見合うだけの力を望んでしまう。本能的にね」


 彼の持つ圧倒的な「力」に怖じ気づけば、卓人も室内へと踏み込んできた。逃げようと頭では思うのに、体が動かなかった。


「ちゃんと分かるみたいだね、僕の力。ねぇ、比べてみてよ。越河珪介とどっちが上か」


 やがて、逃げても無駄だろうという思いに心が支配され、紗矢は無駄な力を抜いた。

 峰岸卓人は強い。私は逆らってはいけない。


「僕が紗矢ちゃんに自分を見せる前に、越河の力に触れちゃったから、ちょっと混乱させちゃったね……でも今、紗矢ちゃんは分かったはずだ。自分に必要なのはどっちかって」


 大人しく卓人を見上げれば、彼は紗矢の前で片膝をつく。


「これからは、ちゃんと着けといてくれるかな。これはね、僕が君に近付く気配を察知するためのものでもあるんだ」


 強ばっていた紗矢の右手を優しく持ち上げ、ブレスレットを通した。


「いつでも傍にいて、僕が君を守るから」


 卓人の言葉に呼応し、灰色の石たちがぎらりと輝いた。



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