第11話 卓人と珪介

 タオルを絞り終えてから、珪介はソファーの置かれた場所へと目を向ける。

 身を丸め横たわっている紗矢へと、手を伸ばすように小窓から陽光が降り注いでいる。さっきまでの喧騒など嘘のように、静穏な空間がそこにあった。


「ランス!」


 包帯を巻かれた羽を広げながらランスが紗矢に近付いていくのを見て、珪介はつい声を張り上げた。しまったとすぐに紗矢を確認するが、目を覚ました様子はなかった。


「……分かってるだろうな。美味そうに見えても、病人は喰うなよ」


 低く声を発しながら、珪介は足早に一人と一匹の元へ戻っていく。

 ランスは主人を一瞥するも、その細い足は停止させなかった。紗矢の前で羽を閉じると、懸命に首を伸ばし、まぶたを閉じている紗矢の顔を覗き込む。そして甘えるような鳴き声を発した。珪介は思わず苦笑する。


「悪い。言われなくても、お前は分かってるし……どっちにしろ喰わないか」


 珪介は持っていたタオルを紗矢の額に乗せてから、熱を放つその体からずり落ちそうになっていた自分のブレザーへと手を伸ばした。掛け直そうと掴み取れば、ほどいたリボンの布まで掴んでしまい、珪介は手を止める。


「なぁ、ランス」


 紗矢のブラウスのボタンは珪介の手によって二つほど外されている。


「箱入り娘って、まさにコイツのことだよな」


 珪介は痣も古傷もない綺麗な胸元から目を反らすと、紗矢の肌をブレザーでおざなりに覆い隠した。

 ランスに習うように床へ腰を下ろすと、彼女のブレザーから見付けたビロードの小さな袋を手に取った。そしてソファーに背を預けながら、珪介は紗矢と初めて会った日のことを思い出した。






 あの日は珪介にとって、掛け替えのない存在がこの世から消えた日だった。しかし失った代わりに、母と同じ温もりを持つ女の子と出会った日でもあった。

 聞き覚えのなかった「片月」という名字は、程なくして、耳にすることになる。


 片月マツノ。


 同時に、その人物が以前峰岸家に仕えていた刻印付きの女性であることや、力を失い峰岸家を離れ、普通の男と家庭を持ち、今は孫までいるらしいことも知る。

 片月マツノの孫があの紗矢だろうと、珪介は見当をつけた。元刻印持ちが祖母ならば、紗矢に力の片鱗を感じ取ったことも、なんらおかしくはない。


 それから半年後、かすり傷の治療のため、越河家の薬師の元に転がり込んだ時、珪介はずっと疑問に思っていた事をそれとなく口に出した。片月マツノの孫は峰岸家に仕えてるのか、と。

 薬師の男は変な所に興味を持ったなと笑った後、軽い口ぶりであっさりと答えた。

 片月の所は婆さんで終わってるよ。娘も孫も何の力も継いでない。その返答に、疑問を持たずにはいられなかったが、珪介はそれ以上自分の考えを口に出すことはしなかった。

 異形の獣に怯えることなく、そして五家に頼ることもせずに、紗矢が普通の暮らしを送れているのならば、自分たちと関わらずにいた方が良い。そう思ったからだ。その反面、もう一度紗矢に会ってみたいと思う気持ちだけは、どうしても脱ぎ捨てることができなかった。




 小学校高学年のある冬の朝。彼女は突然やって来た。

 降り積もった雪を踏みしめながら学校に向かう途中、公園の一角で知らない年老いた知らない女性とランスが戯れている所を目にした。

 足を滑らせながら走り寄れば、ランスが女性のひどく皮張った手に飛び乗った。そして軽く皮膚を突っつき、嘴を開閉させた。


「ランス! 何してんだ馬鹿!」


 和服の女性の力を喰ったことに批難の声を上げれば、ランスが逃げるように舞い上がった。


「誰だ」


 女性に見覚えが無い以上、珪介は警戒を解くわけにいかない。腰にある短剣に手を伸ばした。


「そうですね。私としたことが不用意でした。とても可愛い子なのに、酷く飢えているようでしたから、つい。ごめんなさいね」


 放たれた殺気に動揺することなく、彼女は珪介へとつま先を向けた。


「私は片月マツノと申します」


 凛とした声音。背筋のまっすぐ伸びた立ち姿。強い意志を感じる双眸。そして告げられた名前に、逆に珪介が動揺させられていた。


「力を与えた事に他意はありません」


「でも、アンタは峰岸んトコの刻印持ちだろ!?」


「元です。しかも遠い昔の話。この老いぼれから峰岸のにおいなどとっくに消えていますよ」


 衣擦れの音に、珪介は思わず短剣を取り落としそうになった。雪の上を歩いているとは思えないほど、しっかりとした足取りでマツノが近付いてくる。


「何か用かよ!」


「……貴方が珪介君ね」


「えっ?」


「ランスが教えてくれました」


 視線を上げれば、高い枝から気まずそうに自分を見つめているつぶらな瞳が見えた。


「貴方が、紗矢の出会った珪介君であるとも」


 細い肩にそっと手を置き、切なげに微笑むと、マツノは珪介を抱き締めた。


「顔の輪郭や鼻筋がそっくりね……結綺(ゆき)に」


 強ばってしまった体に、忘れていた温かさが染みこんでくる。木の枝から、雪の破片がパラパラと落ちてきた。


「俺の母さん知ってるの?」


「えぇ、とても優しい女性でした。そして息子の貴方もまた……」


 体を離し、マツノは真剣な顔で告げる。


「感謝しています。迷い込んだ紗矢を、越河の敷地からすぐに出してくれたことに」


「……俺は別に」


「紗矢の力に気付いていたことも教えてくれましたよ……貴方の鳥獣はとても素直ね」


 珪介が口ごもれば、近くの茂みがガサガサと揺れた。異形の獣の気配を感じ取った珪介が再び短剣に手を掛ければ、マツノは背筋を伸ばし、そちらに視線を流した。すると、気配は弾かれたように一気に遠ざかっていった。

 珪介はゴクリと唾を飲む。雪の欠片がはらりと天から舞い落ちてきた。


「貴方は力を失ったんじゃなかったのか?」


 マツノは白い息を吐いた。


「……そういうことにしておいてくださいね。私は峰岸にも、もうどこの家にも属するつもりはありませんから」


 珪介の頬に落ちてきた雪の結晶を指先で拭ってから、マツノは話を続けた。


「私は昔から自分の思うように力が使えました。でもあの子は違う。不安定過ぎるのです。だからこそ、私は紗矢を手放したくない……私のやっていることが峰岸の意に逆らうことであったとしても、隠し通したい」


 峰岸という名にハッとし口元を引き結ぶと、珪介は俯いた。


「でも僅かでも力があるなら……貴方みたいに一人で対処できないのなら尚更、属すことも考えた方が良いと思います」


 少しの間、つま先で雪を踏みしめていたが、意を決したように顔を上げ、珪介はマツノを見た。


「俺たちは、ああいうのから力のある人間を守るためにいるんだろ? 隠されてたら、いざって時に助ける事が出来ないかもしれない。後悔なんて、もうしたくない」


 マツノは珪介の言葉を受け取ると、表情を和らげた。


「あの子の力は時折顔を出す程度で、普段は体の底に沈んだままです。そして貴方たちと関わらなければ、このままきっと力を失うでしょう」


「……そうなると、いいな」


「私もそう思っています」


 ふふっと二人で静かに笑えば、マツノはランスを仰ぎ見て手を差し伸べた。


「でも願いに反し、あの子の力が安定したものになり、自分の意思で進む道を決められる時が来たら、私は紗矢から手を離しましょう」


 マツノは自分の手に舞い降りてきた赤い躰を撫でてから、ランスの乗ったその手を珪介に差し出した。


「あの子が峰岸を選ぶならそれでいい……でももし、紗矢が困って貴方に助けを求めたときは、どうか宜しくお願いしますね」


 つられるように出した珪介の手にランスが飛び乗るのを確認してから、マツノはゆっくりと珪介に頭を下げたのだった。





 そして高校一年の春。再会した紗矢からは何の力も感じ取れなかった。


 マツノの願い通りに力が消え失せたのだと、まず最初にそう思った。念のため確認しよう。そう何度も考えたけれど、珪介は行動に移すことを躊躇ってしまった。

 もし力が消えた訳ではなかったら。自分が近寄った結果、隠れている力を刺激し、表に引きずり出してしまうことになってしまったら……そう思うと、紗矢に近寄ることも出来なかった。


 しばらくして、マツノが亡くなったと越河家の誰かが話しているのを耳にした。そしてその日を境に、彼女の隣りに峰岸卓人がいる事が多くなった。



「だから俺はてっきり、お前は峰岸を選んだんだと思ってた」



 紗矢はまだ不安定さを引きずっていて、マツノの後釜として峰岸卓人を選んだ。そう気付いた瞬間、悔しさと悲しさと腹立たしさが一気に込み上げて来た。

 越河と対峙している峰岸の守護下に入った瞬間、片月紗矢は自分にとって相いれない存在――敵となるのだ。



 しかし今、珪介はそう決めつけてしまったことを悔いていた。



 ビロードの生地の中にある丸みを帯びた固い感触を指先で確かめ――珪介はハッと顔を上げた。ソファー脇に置いておいた刀を俊敏に掴み取る。

 疾風が珪介を襲う。一瞬で体が吹き飛ばされ、壁に激突する。手から小さな袋がこぼれ落ちた。


「やだなぁ。挨拶しただけなのに、まともにくらわないでよ」


 コツコツと音を立て歩み寄ってきた靴音が止まる。男の持つ刃先が光を鈍く反射した。


「……随分遅いお出ましだな」


 珪介は表情を変えず立ち上がり、刀を握り直す。


「だって、紗矢ちゃんが僕の守護珠を外すんだもん。気付くのが遅くなっちゃった」


 呆れ口調で言葉を並べてから、峰岸卓人はソファーで眠っている紗矢を見た。


「僕の紗矢ちゃんを無理やり連れ出して、まさか酷いコトなんかしてないよね? 彼女に手を出してたら、その首吹き飛ばすからね」


「僕の紗矢ちゃん、ね」


 珪介が蔑むように見れば、卓人は口元に笑みを浮かべたまま、瞳に怒気を纏い出す。


「そう。僕のだよ」


 卓人は再び歩き出し、紗矢の前で立ち止まる。


「困った僕のお姫様」


 熱で赤らんだ顔に、きっちりと足首に巻かれた包帯。それらを流し見てから、卓人は紗矢の上に掛けてある大きなブレザーを掴み取ろうとした。しかし、紗矢の手はしっかりとブレザーを握りしめている。一向に離そうとしない。

 力ずくで取り去ろうとした手に僅かな影が落ち、卓人は動きを止める。


「思い通りにいくと思うなよ」


 卓人は自分に突き付けられている刃の切っ先を横目で睨み付けた。


「何の真似かな?」


「コイツに刻印はない以上、紗矢はまだお前のものじゃない!」


「越河珪介……君さぁ、僕に刃を向けて、良いの?」


 ゆらりと、卓人の肩から灰色の粒子が立ち上る。


「覚悟の上だ」


 珪介の瞳の奥が赤く染まり、ランスも毛を逆立てたその時、紗矢の手がぴくりと動いた。


「……越河君」


 卓人は驚いて紗矢を見たが、その瞳は閉じられたままだった。うわごとで、しかしはっきりと発せられた名前。そしてにやりと笑った珪介の顔を見て、卓人は刀先をゆっくりと上昇させた。


「越河は、特にお前は、身の程を知るべきだよね」


 卓人が刀を薙いだ。押し流されるように珪介は後退し、ランスは風に巻き上げられ、天井に躰を打ち付けた。

 重なり合った刃から光が飛び散る。容赦なく責め立ててくる切っ先。それらを受け続ける最中、灰色の粒子が珪介の腕に絡みつき、その動きを鈍らせた。


「くっ」


 もたついた一瞬を見逃すこと無く、卓人が力一杯に刀を振り下ろす。


「そんな脆弱さで、僕から奪い取るつもり?」


 珪介がそれを受け止めれば、灰色と赤の光が乱れ散った。真剣な表情が向き合わさる。


「それがソイツのためなら、やってやる」


 赤い粒子が卓人の頬に触れ、ちりっと熱を放った。珪介に力で押し返され数歩後退すると、卓人はひりっと痛む己の頬を指先で触れる。


「潰す」


 言葉を発したその瞬間、卓人は横に手を伸ばした。


「ランス! 引け!」


 珪介が焦り声を上げれば、卓人は楽しそうに微笑んだ。攻撃を加えるべく滑空してきたランスの躰を、灰色の粒子が包み込む。灰色を纏ったランスが床に落ちた瞬間、珪介も片膝をつき、顔を歪めた。


「弱ってる方からひねり潰す。僕たちの常識でしょ?」


 もがき苦しむランスの包帯に、再び血が滲み上がってくる。卓人はランスに体を向ける。そして両手で柄を持つと力強く刀を薙ぎ払った。ランスと、そしてランスを庇うべく走り込んできた珪介に、鋭利な疾風が突き刺さる。容赦なく二つの体を吹き飛ばした。

 扉を破壊しても、その勢いは衰えなかった。書棚へと突き当たった一人と一匹目がけて、本がバサバサと落下する。


「うっ……くっ」


 珪介はもうろうとしながらも、腕の中にいるランスを確認する。ぐったりとしているが、息はちゃんとしている。ほっとした瞬間、コツコツと靴音が聞こえてきた。

 その音はすぐに停止する。瞬時に紗矢のことを思い浮かべ、本の中から抜け出そうとするが、体が上手く動かなかった。

 再び靴音が動きだし、壊れた扉の向こうを卓人が横切ろうとする。


「ま、て……ぐっ」


 立ち上がれば、背中に鈍い痛みが走り、珪介は顔を歪めた。それに気付いた卓人は、気まぐれに足を止める。室内に顔を向け、彼らしい可愛らしい笑みを浮かべた。


「まぁ、紗矢ちゃんを処置してくれたから、見逃してあげる……でも、今回だけだからね」


 最後だけ声のトーンを落とし、卓人はまたにっこりと笑う。


「それから。この後片付けは、越河さんトコでお願いね」


 紗矢を抱きかかえ、卓人は珪介の霞む視界の中から出て行った。





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