第10話 指先と真剣な顔
「大丈夫か?」
戸を引きながら、珪介が固い声を発した。
ランスがとてとてと不規則なリズムを刻みながら、中に入ってきた。おぼつかない足取りで、けれど自分に向かってまっすぐ歩み寄ってくるランスを、紗矢は笑顔で迎える。
「ランス!」
「片月、床じゃなくてソファーに座れ……座ってくれるかな?」
「……え?……あ、はい。分かりました」
自分の傍に到着したランスの体を撫でながら、紗矢は珪介を見た。戸を閉めドアノブに手を掛けた格好のまま、珪介は固まっている。
(変なの。思わず敬語になっちゃったじゃない)
彼らしくない言葉の響きに違和感を覚えた。微動だにしない背中を凝視していると、紗矢の顔の横でランスが可愛らしく鳴いた。ランスに気持ちを削がれ、紗矢は館内に目を向ける。
五之木学園の図書室は、校舎内ではなく校舎の東側に別棟として建てられている。一階と二階は図書室として、三階は自習室として機能しているため、放課後、遅い時刻まで滞在している生徒も多い。
階段の向こうにある自動販売機がゴウッと機動音を立て、紗矢はびくりと肩を揺らした。
入ってすぐの場所に窓口があるが、今そこはカーテンが引かれていて、人の気配は無い。受付どころか、館内に自分たち以外の気配はない。静まり返っている。そして電気も付けられていないため薄暗くもあり、幾ばくかの薄気味悪さが漂っている。
クリーム色の壁にはいくつもの扉が並んでいて、扉と扉の間には資格試験を告知するポスターがぺたりぺたりと貼られている。
扉の向こうは、整然と並べられた本棚や大勢で並んで座れる長テーブル、個別に仕切られた読書スペース、そして壁際にふかふかのソファーが置かれている。
紗矢は痛みを堪えて立ち上がり、室内に入るべく歩き出した。
「あ、いや。違うよ」
「えっ」と呟き珪介を見れば、ちょうど彼が回れ右をした。
紗矢は目を瞠る。珪介が自分に向かって穏やかに微笑んでいたからだ。
「そっちのソファーじゃなくて……あ、ごめん、ちょっと待って。歩くの辛いよな」
優しげな表情を顔に貼り付けて、珪介が近寄ってきた。背中と膝の裏に力強い手が触れた瞬間、見えていた景色が大きく変化する。
「うわっ!」
珪介に横抱きされ、顔がぐっと近付いた。息づかいまで感じ取れそうな距離に慌てれば、彼が笑みをこぼした。眩しい笑顔から逃げるように、紗矢は顔を伏せた。
「あの……越河君、何考えてるの?」
たどたどしく問いかければ、珪介は「うーん」とおどけたような唸り声をあげ、そして黙り込んだ。人を抱えているとは思えないほど軽い足取りで、珪介は進んでいく。
「わあっ。こんな所、あったんだ」
自販機の先の奥まった場所に、僅かに開けた空間があった。明かり取りの小窓の下に観葉植物と薄茶色のソファーが置かれている。ゆっくりとした動作で紗矢をソファーに置くと、珪介は耳元でそっと言葉を紡いだ。
「紗矢」
甘く低く、くすぐるような声音を彼は発する。紗矢は小さく身震いした。
「な、何?」
「もっと早く助けられなくて、ゴメン」
「え?!」
珪介の胸元を両手で押しやって、互いの体をある程度離してから、紗矢は探るように彼を見上げた。
(この人、今、謝った! しかもさっき笑ってたし)
俺の敵。俺の前から消えろ。お前の人生狂わせてやる。死んでも俺らを恨むな……等々。ついさっき同一人物から投げつけられた冷たい言葉たちが、脳裏に蘇る。
「ランスも俺も、力不足で……紗矢に怖い思いをさせてしまった。もうさせないから、俺が傍にいて、守るから」
しかし、甘い言葉で目の前の優しい珪介が、記憶に霞をかけていく。穏やかな眼差しで柔らかい表情を浮かべる越河珪介は、自分の部屋の鏡に貼り付けてある写真の中と同じである。
「越河君」
「怪我した場所、見せてくれる? 靴を脱がすから、痛かったら我慢しないで言って」
「う、うん」
優しさを向けられている若葉や女の子たちを、心の底で羨ましいと思っていた。自分も優しくしてもらいたかった。それなのに、いざ彼から優しさを見せられると、嬉しさよりも違和感の方が勝ってしまっていた。
そっと紗矢の足首を持ち上げ、珪介が慎重に靴から踵を引き抜いた。ズキッと痛みが走った。目を力一杯瞑り、痛みが通り過ぎるのを堪え待っていると、温かな手が労るように紗矢の手に触れた。
「酷く腫れてるね。痛いだろうに、弱音を吐かない紗矢は強い人だと思う……でもね」
褒め称える言葉に、心配そうな響きが続いた。
「俺には弱音を吐いて……弱い部分をみせて欲しい」
目を開ければ、潤んだ視界の中に辛そうな顔をした珪介がいた。
「あとは、どこか怪我してない?」
「た、たぶん、大丈夫」
「確認させて」
言うなり、珪介の指先が紗矢のブレザーのボタンを外す。紗矢が反応する前に、滑らかな所作で上着を取り去った。
「ちょ、ちょっと、待って」
「ゴメン、待たないよ。ちゃんと薬を塗らなくちゃ、綺麗な体に傷が残ってしまう」
紗矢の手首を確認し、珪介は僅かに視線を彷徨わせた。
「紗矢、どうして――」
「越河君!!」
「……な、何?」
「ゴメン、本当にゴメン。気遣ってくれてるって、分かってる。でもね、悪いんだけど…………なんかちょっと気持ち悪い。普通にしてくれないかな、さっきみたいに」
疑わしいとばかりに目を細めれば、彼の浮かべていた笑みが徐々に冷ややかなものへと戻っていった。
「お前に、もうこの手は通用しないか。仕方ない」
珪介は口の端を上げた。もう目は笑っていない。
「しかも気持ち悪いって何だよ」
「だって――うっ、い、痛いよぉっ!! ばかぁ!」
鬱憤を晴らすように足首を握りしめられ、紗矢は珪介に向かって拳を振り上げた。反撃は軽くかわされ、更に満足げな笑みを見せられて、紗矢の目から涙がこぼれ落ちた。
「なに笑ってんのよ、最低! 本当に越河君って良い性格して――る……」
しかし珪介の瞳に朱が混ざり、紗矢は口を噤んだ。じっと見つめれば、彼の笑みが勝ち誇ったような色を帯びていく。
「お前、わかりやすいな。すごいむかつく」
珪介はガシガシと紗矢の頭を撫でてから、向き合うように床に膝をついた。
「これから、憂鬱なことになりそうだ」
ポケットから小瓶を取り出してから、珪介はソファーの下部を手でまさぐった。すると小気味よい音と共に、プラスチックの長方形の箱が現れ出た。
「俺たちはお前への対応、間違えてた」
驚く紗矢をよそに、珪介は蓋を開け包帯の入った袋を掴み取り、躊躇なく中身を取り出した。
「いくら峰岸の思惑が働いてたからといっても、間違えていることに越河の誰も気付けなかったのは問題だな。これ、ちょっと持ってて」
頷き手の平を差し出せば、そこに小瓶と包帯が乗せられた。丸められた包帯に目新しさはないが、小瓶の中身は見当もつかなかった。瓶を揺らせば、中に入っているオレンジ色の液体がのろりと動いた。
「越河君、これはな――痛っ!」
紗矢の靴下を脱がしにかかったその手は、丁寧さの欠片も無かった。紗矢の瞳に再び涙がにじんだ。
「もうちょっと、丁寧な手つきでお願いします!」
「なんだよ。お前が普通で良いって言ったんだろ?」
「いっ、言ったけど!」
「これが俺の普通だ。諦めろ」
「ごめんなさい! やっぱりさっきみたいに、やさ――うっ、ぐぅ」
「さっさと済ませるから、痛みくらい我慢しろ」
珪介は立ち上がり、近くにある手洗い場に向かった。目尻にたまった涙を拭いながら足首を見て、紗矢は息を詰めた。青黒く晴れ上がったそこに赤い点がいくつもあり、血液が流れ落ちていた。ここまで酷くなっているとは思わなかったため、気持ちが一気に冷え込んでいく。
「あれに噛まれて泣き喚かない女、初めて見た」
手洗い場に備えられていた使い捨てのペーパータオルで手を拭きながら、珪介が戻ってきた。
「お前、鈍感すぎだ」
「勝手に決めつけないでよ!」
「じゃあ、違うのか?」
「……それは」
答えに詰まって口を尖らせれば、珪介は鼻で笑いながら紗矢に預けていた物を掴み取った。
「何だよ、これ」
液体の入った小瓶の栓を開け、自分の手の平に垂らそうとしていた珪介が僅かに肩を落とした。
「あのエロ
中身はやはり粘りけのある液体だった。
「これ渡されたとき、にやついてた意味がやっと分かった。何と混ぜてんだよ」
ゆったりと流れ落ちてくるオレンジ色の液体を、細く長い指先が絡め取る。
「それ何?」
「ほら、足を出せ」
透明な糸を引いたことに眉根を寄せれば、珪介がニヤリと笑った。咄嗟に紗矢は身を引いた。
「嫌です!」
「大丈夫。薬だから」
「本当に薬?」
「良く効く薬だ。諦めろ」
恐る恐る足を足を差し出せば、ひやりとした感触が足首を包む。びりっとした痛みが走った後、ぬるっとした感触に背筋がぞくっとする。
「うっ……くっ」
「変な気分になって、俺を襲うなよ」
「襲わないわよ!」
噛みつくように言葉を返せば、彼の真剣な表情が目に付いた。嫌な顔一つせず、先ほどより優しい手つきで傷口に薬を塗っている。迷うことなくガーゼを当て、包帯を手にした。
「慣れてる?」
「まぁな」
きゅっと胸が苦しくなった。聞かない方が良い。そんな声が頭のどこかで聞こえたけれど、紗矢は止められなかった。
「自分の怪我を手当することに? それとも、こうやって誰かの手当をすることに慣れてるの?」
「……どっちも」
若葉が脳裏にちらついた。
「そっか」
穏やかに微笑みながら、珪介はどんな風に若葉に触れたのだろうか。二人を思い描けば、胸が重苦しくなった。
(私、嫉妬してる……馬鹿みたい)
これ以上余計な感情を掘り起こさないように瞳を閉じ、紗矢は手当が終わるのを大人しく待った。
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