第9話 赤い力、3
関節を曲げることなく、幼い珪介は起き上がった。黒髪、頬、顎先から、ポタリポタリと水滴が落ち、幼い顔が険相さを際立たせていく。
祠の中から毛の塊が飛び出し、小さな体に噛みついた。小さな珪介はさっきの祖母と同様、珪介そのものではない。本物は目の前にいるこの人だ。そう頭では分かっているのに、痛々しい光景に、思わず紗矢は一歩前進する。
「珪介君っ!」
黒々とした塊が次々と珪介に飛びかかり、小さな体の半分を覆い隠していく。
「……珪介君」
続けざまに名を呼べば、眼前に壁の如く立っている珪介本人が面白くなさそうに呟いた。
「珪介珪介言うな。嫌がらせか」
振り返りもせず掛けられた言葉に、そんなつもりはないと返答しようとした時、幅の広い珪介の両肩からふわりと赤い粒子が舞い上がった。紗矢の鼓動が強く反応する。
「しかも、どうして俺? 普通に考えれば峰岸の姿で出てくるだろ……もしかして、お前俺に惹かれてたりするの?」
淡々とした声音で聞こえてきた台詞に、一際強く、鼓動が鳴り響いた。慌てて胸元を手で抑えれば、珪介がちらりと振り返る。視線が絡み合い、胸ポケットの辺りがほんのりと熱を帯びた。そして余韻を残しながら、熱は体の端へ広がっていく。
「なっ、何を、言ってるのよ。私は越河君みたいな性格悪い人なんて、嫌い、です」
しかめっ面をしたまま、珪介が顔を前に戻せば、ランスが彼の脇につき、「クワッ」と一鳴きした。
「あっちは名前で、なんで本物の俺が名字呼びなんだよ」
言葉は、最後まで聞き取れなかった。珪介の靴底が、勢いよく土を跳ね上げる。弾丸のように素早く直進し、刀を振るう。鋭い閃光が、小さな手から短剣を弾き上げた。しかし短剣はすぐに黒い塊へと姿を変え、珪介に向かって牙をむきながら落下する。土埃を巻き上げながら右足に体重をかけ勢いを殺し、珪介は素早く身を翻す。
「越河君!」
頭上の塊に気付いて欲しくて紗矢は声を張り上げたが、彼の視線は幼い自分をかたどったモノだけに向けられている。しかし、心配は要らなかった。滑空してきたランスが黒い塊を空中で捕獲し、同時に珪介は走り出していた。
身を屈めた低姿勢のまま、慣れた手つきで刀の柄を掴み直し、幼い自分の眼前へと踏み込んでいく。
「ふざけんな」
二つに分断された体が舞い上がり、紗矢は悲鳴と共に後ずさった。
「ガキの俺はこんなに弱くない」
目を覆いたくなる生々しさはすぐに消え失せる。切り離された体が黒々とした塊に変化し、固そうな毛までも現れ出た。ランスの炎がその片方を包み込めば、珪介はちっと舌打ちをした。
「炎、弱すぎ。逆に邪魔だ、下がってろ」
炎の中で悶えている――火を振り払うべく動き回っている塊に、珪介は躊躇いもなく刃を突き刺した。苦悶の鳴き声の後、銀色の光がほんのりと立ち上った。刀先に縫い止められた塊は、程なく粉と化し風に吹き飛ばされていった。
紗矢は身を固くし、手で両耳を塞いだ。姿は消えても、叫び声はしっかり耳に残ったままだ。震えを止められないまま、見失いたくない一心で、紗矢は珪介の動きを必死に目で追っていた。冷静な表情で、彼は次々と塊を消していく。
「っ!?」
しかし消されれば消された分、祠の中から黒い影が飛び出してくる。きりがない。そんな言葉が脳裏をよぎれば、紗矢の震えは更に酷くなる。
ランスが嘶き、背後から珪介を狙っていた塊に向かって急降下する。黒い塊を嘴で挟み込みそのまま上昇しようとしたランスの足首に、違う塊が飛びついた。バランスを崩し、ランスはバサリと派手な音を立てながら地面に落下した。
「ランス……う、ぐっ!」
歩み寄ろうとした瞬間、足首に刺すような痛みが走った。紗矢はその場に両手をつく。靴下に血が滲んでいた。噛まれた場所が出血しているのだろう。
痛みと涙を必死で堪えていると、視界の隅で黒い影が動いた。見れば、塊が二つ、三つと分裂しながら近寄ってきている。
(恐がってちゃ駄目……に、逃げないと)
恐怖に飲み込まれかけていた心をなんとか奮い立たせ、紗矢はこの状況から脱するための行動を取ろうとしたが、強い痛みがそれを阻害する。痛みで立ち上がることもままならない紗矢の周りを、塊たちがグルグルと取り囲み始めた。
危機を感じ狼狽えれば、ランスが塊を纏いながらふらりと立ち上がり、紗矢に向かって不安そうな鳴き声を放った。弱々しいその声音に、心が震えた。
「だ、大丈夫。有り難う、ごめんね、ランス」
傍にあった細い枝を掴み取ると、紗矢は歯を食いしばり必死に立ち上がった。子供の力でも簡単に折れるだろう頼りない枝を、震える両手でしっかりと持ち、周囲を素早く走り回っている黒い姿を捉えるべく、視線を彷徨わせた。
(チクリと突き刺せば、怯ませることくらいできるかもしれない……一匹くらいなら)
情けないほど震えている手にありったけの力をこめた。勇気を注ぎ込むように。
「お前、何の真似だ」
後ろから伸びてきた手に乱暴に引っ張られ、紗矢はつい痛みのある方の足へと体重をかけてしまった。痛みで視界が白け、これ以上立ち続けることはできなかった。ぽとりと枝が地に落ちた。
「枝一本で何とかできるわけないだろ」
落ちたのは、枝だけだった。
「そんなの俺でも無理だ」
崩れ落ちそうになった紗矢の体は、温かな感触にしっかりと抱き止められていた。
「力で弾き飛ばせ」
手をついたそこは珪介の胸元で、低い声音が振動となって紗矢の手の平に伝わってきた。彼の体から立ち上っていた赤い粒子が手に絡みつけば、紗矢の手の震えは不思議と収まっていった。深呼吸をしてから、紗矢は言葉を発した。
「越河君なら、遠くまで飛ぶかもしれないけど。私、ソフトボール投げは昔から不得意なの。いつも人並み以下の記録しか出せなくて」
「は!?――っと」
不意を突くように、体に遠心力がかった。掴んでいた胸元から引き離されそうになり慌てれば、僅かに遅れて珪介の腕に力がこもり、逆に強く引き寄せられた。彼が大きく刀を振った気配が伝わり、次いで、小動物のような甲高い鳴き声が上がった。
珪介のブレザーの胸元をしっかりと握りしめ、ぎゅっと瞳を閉じ、その痛々しい声が途絶えるのを待った。
「ボール投げの話はしてない」
いつものトーンを耳にし顔を上げれば、すぐに不信たっぷりな瞳に捉えられた。
「そうだったよね。投げ飛ばせじゃなくて、弾き飛ばせって言ったんだもんね」
言葉を選びながらそう返せば、紗矢の背中に添えられていた指先がぴくりと動いた。
「で、でもね。どっちにしても下手です。ここに野球のバットがあって、運良くヒットできたとしても、たいして飛ばないと思う」
「もう良い」
穏やかな手つきで背を叩かれ、紗矢は頬が熱くなるのを感じた。
「もう良いから……」
いつでもどこでも自分に対して険を孕んでいた珪介の表情から、僅かな暖かみが伝わってきた。
「越河君」
「そんな惨めな情報どうでも良いから、口を閉じろ。目も閉じろ。さっさと無心になれ。餌をまき散らすな」
「え?」
その暖かみは、跡形もなく消え失せた。素早く並べられた要求を頭の中で反復できず、紗矢はとりあえず半開きになってしまっていた口をきつく閉じた。
「どう考えても、このままずっとここにいるのは自殺行為だろ」
珪介が刀を鞘に収めた瞬間、紗矢の足の下にあった土の感触が消え、視界は濃紺に塗りつぶされた。
「ランス、逃げるぞ! ついてこい!」
これまでに経験した事などないほどのスピード感が体を包み込んだ。
「きゃあっ!」
「歯を食い縛ってろ! 舌噛む」
珪介の声がやけにはっきり聞こえてきて、見えている紺色の生地が彼の背中だと、そして自分が彼の肩に担がれている状態であると理解する。
鳥の羽音が聞こえ、身を起こそうと試みたが駄目だった。横目に見える景色が、異様な速度で通り過ぎていく。
「動くな。落とすぞ、間違えて」
珪介が地面を蹴り、飛び上がった。フェンス上部に張り巡らされてある有刺鉄線に足を引っかけることもなく、むしろ余裕を持って、彼は紗矢を担いだまま軽々と飛び越えた。
紗矢は歯を食い縛った。彼が地に足をついた瞬間、衝撃がくると思ったからだ。しかし、珪介は落下する羽のように、ふわりと地面に降り立った。紗矢はしばし呆然とした。
「保健室……いや、止めとこう」
止まることなく走り続けていた珪介から独り言が発せられる。方向転換し数分後、スピードが落ち始めた事に気付いて、紗矢はほっと息を吐いた。
「学校、だよね?」
見慣れたオレンジ色の敷石が視界に入ってきて、紗矢は掠れ声で問いかけた。やや間を置いてから、珪介は何かを押し開きながら言葉を返してきた。
「あぁ。学園内にいれば、流石に追ってこられないだろ……深入りしたら、あっちが自殺行為だ。ここには俺ら兄弟も峰岸もいる」
言い終わると、珪介が深く息を吐いた。それは張り詰めていた気持ちを解きほぐすような、ため息だった。
「とりあえず到着」
珪介が身を屈めれば、紗矢のつま先が床に触れる。ずっと握り締めていた彼のブレザーの裾を離し、そして彼の力を借りながら直立し、ぼんやりする瞳で周囲を確認する。
そこは図書館のエントランスだった。知っている光景に急激に安堵感が込み上げてきて、紗矢は床に座り込んだ。
「おい、これくらいで腰が抜けたとか言うなよな」
「このくらいとかそんな速さじゃないよ。いったい、なん、で――あっ……」
肩に手をあて、疲れ顔で自分を見下ろしている珪介の瞳を、紗矢は食い入るように見つめ返した。少し息の上がった珪介の黒い瞳の中に、散らしたような赤が混ざっているのだ。
峰岸卓人も、そうだった。同じ現象を目の当たりにしているのに、紗矢の体はあの時より強く反応し始める。
「越河君」
求めるように、紗矢は手を伸ばす。自分でも何故そうしているのか分からなないまま、必死に手を伸ばした。
「片月?」
「そばに来て」
瞳だけでは無かった。珪介の背後でちらちらと揺れる細かな赤い光にも、紗矢の心は魅了されていく。
細かな光が形作っていたのは、大きな翼だった。うっとりするほど綺麗な翼に向かって、紗矢は手を伸ばした。
「赤い翼に触れたいの」
「赤い、翼?」
「うん。すごく綺麗……ねぇ、来て。お願い」
珪介は懇願する声音にくすぐられたように、そっと目を細めた。
「……紗矢」
自分に向かって伸ばされている紗矢の手を掴もうとし、珪介はハッと我に還った。
「やばい、忘れてた」
少しだけ顔色を変え、彼は扉へ引き返していく。遠ざかっていく赤い光の集合体を、紗矢はじっと見つめた。
彼の色が段々と薄くなり、そして翼が姿を消した瞬間、紗矢は大きく目を見開いた。我に還るように、霞がかった意識が明瞭になっていく。床の冷たさが紗矢の余計な体温を奪い取れば、忘れていた痛みが足首を刺激し始めた。
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