第8話 赤い力、2
「血が」
炎の威力も、先に燃え上がった個体と見比べれば、明らかに低下している。炎に包まれたこの三つの塊は、ランスの羽に触れただろうか。
そんな疑問を持ったが、すぐに紗矢の中で「多分きっと、触れてはいないだろう」という結論に至った。ランスの傷は、今さっきの攻防で受けたものではない。今朝受けたものだろう。
目撃した灰色の鳥とランスのやり取りを思い返しながら、紗矢は唇を噛んだ。あれはやはりじゃれていた訳ではなかったのだ。攻撃を加えられていたのだ。
ランスの羽の震えは収まりそうもなかった。紗矢はランスへと歩み寄り、痛々しい姿となってしまっている祖母のようなモノへ目を向けた。
「……越河君、どうしよう。ランスが」
自分の口をついて出てきた言葉に驚きつつ、この鳥の飼い主の顔を脳裏に浮かべれば、ランスがグルルと喉を鳴らした。
祖母のようなモノがぼろぼろと崩れ落ち、その全てが真っ黒な塊へと変化していく。更に毛を逆立て、目を光らせるランスの様子にただただ困惑すれば、遠くからキイッと戸が開くような音が聞こえた。
視線を彷徨わせ、紗矢はハッとする。祠の扉がひとりでに開いたからだ。観音開きになっているその奥で波立つように影が蠢き、一人の少年が姿を現した。
「珪介、君」
その姿は今現在の彼ではない。初めて会ったときの彼の姿である。そしてちょうど、今まさに自分が強く思い浮かべた姿だった。
小さな珪介は見下すような瞳で、紗矢とランスを交互に見やった。ランスが怯えたように身を震わせれば、彼は口の端を微かに上げ、短剣を持ち直す。幼き双眸が好戦的な光を放ち、標的を定めたかの如くランスで視線を止めた。紗矢は短く息を吸い込んだ。黒い塊を引き連れ、幼い珪介が前進する。
「こっちに来ないで!」
緊張の入り交じった声で紗矢が叫べば、珪介の歩みはピタリと停止したが、共に近付いてきていた毛の塊たちは止まることなく、次々と珪介の前に出てきた。
ランスは力を振り絞り立ち上がると、翼をはためかせた。飛びかかってくる毛の塊に対し、炎を巻き起こし対抗する。しかし、捌ききれなかった塊が紗矢の足首に飛びついてきた。
「うっ」
痛みの後に、気持ちの悪い生ぬるさが体を駆け上っていく。
「いやっ!!」
胸元が妙に熱くなった。電気を放出したような音がぱちりと鳴り響き、紗矢の足首に噛みついていた塊が、弾かれ飛び退いた。向かってきていた塊たちが、一斉に紗矢から距離を取った。
少しの間を置いた後、攻撃の矛先がランスへと変わった。飛びかかってくるそれらを、ランスも炎の中に閉じ込めようとするが、威力を持ち直すことはできなかった。地面を転がり弱々しい炎を消し去った塊が、再び飛び上がっていく。ランスの苦痛の鳴き声が響き渡った。
「ランス!」
あろう事か、毛の塊はランスの負傷した羽の部分に噛みついたのだ。地面に落下し砂埃を上げた赤い躰に、毛の生き物が次々と飛びかかっていく。
「止めて!!」
考えるよりも先に体が動いていた。紗矢はランスに噛みついている毛の塊を素手で掴み取り、できる限り遠くへと投げ捨てていく。
それは無駄な抵抗だった。何度取り払っても塊はすぐに舞い戻ってきて、ランスに、そして紗矢にも噛みついてきた。
足や腕に鋭い痛みを感じながらも、紗矢はランスに飛びかかってくるそれらを必死に取り払い続けた。それしかできなかった。どうすれば良いのか、何の方法も見つからず、ただ気持ちの悪い感触のそれを投げ捨てることしかできなかった。
「何なのよ……もうやめて……意味わかんない」
素早さと噛みつく牙の痛みに翻弄され続け、徐々にランスから取り除くこともままならなくなってくる。自分の非力さが悔しくて、涙が込み上げてきた。
「ランス、しっかりして。お願い!」
手元にふっと影が差し込んできた。肩越しに背後を見て、紗矢は涙の溜まった瞳を大きく見開いた。小さな珪介がすぐ後ろに立っていた。幼き容貌に似つかわしくない高圧的な瞳は、ぐったりと横たわっているランスに注がれている。
きらりと光を反射した短剣が、紗矢の瞳に映り込んだ。コマ送りのようにゆっくりと、刃物が振り上げられていく。
紗矢はたまらずランスに覆い被さった。
「珪介君、やめてーー!!」
叫び声を上げると同時に、鈍い音が響き渡った。
小さな珪介の体が吹き飛び、跳ねるように転がっていく。激しい水しぶきを上げ池に倒れ込み小さな体が動かなくなれば、毛の塊たちは祠の戸の中へと逃げ込んでいく。
打って変わって静まり返ったことに気味の悪さを感じながら、ランスから身を起こせば、紗矢の手の甲に細く長い黒い髪がはらりと落ちてきた。それが自分の物だと理解するまでに、少しの時間がかかった。
「お前ら、揃って馬鹿か?」
静寂の中で響いた声音に、紗矢の肩がびくりと揺れた。
「……越河君」
すぐ後ろに文句がちな顔で自分たちを見下ろしている今現在の彼がいた。起き上がれぬまま恨めしそうな瞳を自分に向けているランスを一瞥し、珪介は気だるげにため息を吐いた。
「ランス、お前らしくないな。何でコイツについてきた。こうなることくらい分かるだろ?……コイツは峰岸側の人間なんだから」
コイツと呼ばれたことに非難しようとしたが、自分が峰岸という括りの中に入れられたことに驚き、紗矢は吐き出すべき言葉を見失った。
「お前も……いったい何のつもりだ」
珪介の冷たい視線に捕らえられ、逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、自分の手の下で苦しげな呼吸を繰り返す柔らかな赤い躰から離れたくなかった。
紗矢は気持ちを立て直すべく拳を握りしめると、睨むように珪介を見つめ返した。
「何って、何よ!」
「ランスを殺すつもりでここまで連れてきたんだろ?」
「え? こ、ころ、す?」
(私が、ランスを?)
思わずランスを見下ろせば、小さな瞳からすがるような色合いを感じ取った。助けて、殺さないで……そんな風に懇願された気分になり、紗矢は大きく首を振った。
「ちっ、違うわよっ! 私は!」
「峰岸の差し金」
光が走った。
「そして、俺の敵だ」
自分の鼻先に刃先が突き付けられ、また紗矢は言葉を無くす。
「ランスを殺すなら、お前が直々に手を下せば、すぐ終わるだろうに……なんでこんな方法取ってる?」
(違う。違うのに……何て言えば、それを分かってくれるの? 聞いてくれるの?)
紗矢は首を振り続けた。しかし、珪介の冷たい言葉は終わらなかった。
「……あぁ、そうか。思い出した。お前、ランスのこと可愛いとか言ってたっけ」
ぎゅっと心が締め付けられた。彼は自分との思い出を、忘れてなどいなかった。友達になっても良いと言ったその口で、彼は自分の事を「敵」と告げたのだ。
「峰岸にランスを殺せと言われた。けど、自分の手でコイツを苦しめたくない……だから」
紗矢の顎に刃先が触れ、その冷たさが体の奥を震え上がらせる。
「飢えてるコイツに餌をちらつかせて、ここに連れてきた。ここならきっと自分の代わりに獣たちが食い殺してくれるだろう……そんなとこか」
突き付けられていた刃がすっと離れ、それは腰脇の鞘へと収められた。
「今すぐランスから離れろ。ついでに俺の前からも消えろ」
殴られたような衝撃を心に受け、紗矢は俯いた。
「……我が儘なんて言わなきゃ良かった」
消えろという珪介の声が、頭の中で繰り返され、揺さぶられる。
「お祖母ちゃんの言う通りにしておけば良かった」
紗矢の目から小さな雫が流れ落ち、珪介は微かに眉根を寄せた。
片月家は、祖母の言葉が絶対だった。
自宅のすぐ傍に学校があるにも関わらず、紗矢は車で三十分もかかる場所にある小学校と中学校に通っていた。それは、祖母の意向によるものだった。
敷かれたレールの上をそうするべきものなのだと思いながら、紗矢は何の疑問も持たずに歩いてきた。
実際、祖母の助言通りに進めば、どんな問題も、上手に切り抜けることができた。
だからあの日までは、なんの反発も紗矢の心に起きなかったのだ。
五之木学園への進学は、祖母のレールの上に存在していなかった。それは、誰でもなく紗矢自身が希望した道の先にあったのだ。
家族の、主に祖母の猛反対を押し切って、紗矢は五之木学園に進学した。そこまでこの学園に進みたいと思った理由は……もう一度、会いたいと思っていた人が、そこにいると知ってしまったから。
母の運転する車で中学から自宅へと帰るその途中、五之木学園の制服に身を包んだ珪介を見かけたのだ。
中学、高校と、五之木学園の制服デザインは変わらない。今でなら、胸元にある校章の色で中学生なのか高校生なのか判別できるが、あの時の紗矢はそんな術は持ち合わせていなかった。
ただ、通りがかりに見かけた珪介の雰囲気があまりにも大人びていたため、とっさに彼は五之木学園高等部の生徒なのだと、あの高校に行けば先輩として彼がいるのだと、思い込んでしまったのだ。
会って、久しぶりだねと言葉を交わし、そして珪介と一緒に笑い合いたい。それが、紗矢の願いだった。
「聞こえなかったのか?」
真上からぞっとするような声音が振り落ちてくる。珪介が紗矢の腕を乱暴に掴み上げた。
「きゃっ」
「ランスから離れろ」
「痛いっ! 離して!」
その手を振り払おうと試みるが、珪介の力はどんどん強められ、引きずられる形で、紗矢はランスから引き離されていく。
弱々しく鳴いたランスの声に反応し顔を向ければ、すぐさま珪介の手に顎を掴まれ視界を引き戻された。
「そんなに俺の鳥が気になるか」
強い瞳が、紗矢の目をまっすぐに見つめる。その瞳の奥で赤い光が揺らめいた瞬間、縫い止められたように紗矢は珪介から視線を外せなくなった。
「これ以上、ランスに手を出してみろ」
顎を引き上げられ、すっと珪介の顔が近寄ってきた。自然と紗矢は身を固くする。
「俺がお前の人生を狂わせてやる」
距離は縮まったが、互いの間に甘い雰囲気など微塵も無かった。冷ややかな笑みに背筋が震えた。
互いの顔と顔の間にある距離をゆっくりと奪われ、唇が触れそうになった瞬間――……ぷつりと、紗矢の感情の糸が切れた。
「やめてよっ!」
胸元がカッと熱くなり、何かがショートしたようにバチリと大きな音がした。珪介が紗矢から顔を遠のけた。
「越河君の馬鹿! 最低! 性格悪すぎ! 頼まれなくてもね、アンタの前から今すぐ消えてあげるわよ」
「……いてて」
手の甲で唇を押さえ、珪介はじろりと紗矢を見た。
「峰岸じゃない」
「はぁ!? 何言ってんの!? 私は片月よ! 結婚どころか、付き合ってもいないんだから、私と峰岸君を一纏めにしないでくれる!? あぁもう! 越河君なんて、大っ嫌い!」
息を荒げながら捲し立てたが、珪介の唇の端が切れていることに気がついた途端、頭まで昇っていた血が急降下する。
珪介は傷口をぺろりと舐めたあと、落ち着いた口調で問いかけた。
「誰の力だ」
「え?」
「今のは峰岸でも、五家の誰かでも、お前の力でもない」
珪介の真剣な声音に、紗矢はゆっくりと首を傾げた。
「だから……何を言ってるか、さっぱり分かりません」
その返答に珪介が口ごもった時、ランスが羽をバサリと広げ警戒の声を発した。ちっと舌打ちし珪介は踵を返すと、紗矢に背を向け、腰に携えてあった刀を引き抜いた。
刀の柄を両手で掴み、挑むように構えた彼の視線の先には、池の中に上半身を沈ませたままの幼い珪介がいる。
「おい、片月」
それがブクブクと泡を立て始めれば、目の前に立つ珪介の纏う空気も変わりだした。
「死んでも、俺らを恨むなよ」
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