第7話 赤い力、1

 昇降口から外に飛び出せば、校庭の端っこに赤い姿があった。体育用具などが入った倉庫の陰、赤い鳥が身を丸め蹲っている。


「ランス?」


 鳥がぴくりと顔を持ち上げ紗矢に視線を送りつけてきた。がしかし、すぐに小さな頭部は気だるい様子で元の位置へと戻っていってしまった。

 元気がないようにも思え、気にはなったが、紗矢はランスの方ではなくテニスコートに向かって歩き出した。今は、祖母の姿を探すことが先決だ。


 歩を進めながら、紗矢は自分に対して嘲笑する。確かに亡き祖母の姿が見えた。いったん視線を外しても祖母の姿はそこにあったのだし、移動までしたのだ。

 一瞬の見間違え、目の錯覚などではなかったと確信している。けれど、そうであってもあやふやな存在にアドバイスを求めようとしている自分が、とても愚かに思え仕方が無かった。


(私、頼りにしすぎてるよね)


 亡くなって一年も経つというのに、いまだに不安になったときや困ったときは、祖母にすがりつきたくなる。彼女の的確な言葉が欲しくなるのだ。


『紗矢』


 風が葉を揺らす音。車の行き交う音。校舎から微かに聞こえる先生の声音。それらがすっと遠のき、細かな振動と共に祖母の声が聞こえてきた。

 慌てて周囲を見回し、紗矢は息をのんだ。テニスコートと体育館の間に祖母の姿があったのだ。嬉しそうに微笑んだ祖母へ向かって、紗矢は歩き出した。


『紗矢』


「お祖母ちゃん」


 近寄れば、彼女は踵を返し、水に押し流されるように前進する。


「待って!」


 物音の聞こえない体育館裏を通り、小さな観測池の脇を抜け、祖母は裏門から学園の外へと出て行った。

 紗矢は門の所で立ち止まり、長い階段を滑り降りていく祖母に対し、苦い顔をした。流石に学校の外へ出ることには、躊躇いを覚えたのだ。


 不意に祖母の動きが停止する。一度紗矢を振り返り見てから、階段途中にある脇道へと反れていった。

 それを見て、紗矢の足は再び動き出す。獣の道のその先はフェンスで塞がれていて、行き止まりになっている。行き止まりなのだから、そこで止まるかもしれない……と、そんな考えが生まれたのだ。


 祖母を追いかけるように進んで行けば、すぐに緑色のフェンスが姿を現した。しかし彼女の姿は止まることなく進み続けて、紗矢の思惑は打ち崩されることとなる。そこに何の障害物も無いかのように、祖母はフェンスを通り抜けていった。


(これ以上は無理)


 紗矢の倍ほどの高さを持つフェンスは、上部に有刺鉄線も張り巡らされていて、軽々と乗り越えられるものではない。諦めと悔しさを感じながら立ち止まれば、フェンスの向こうで祖母が振り返り――、鈍い金属音が鳴り響いた。出入り口となる扉を封していた南京錠が、奇妙に折れ曲がったのだ。

 所々溶解し始め、錠の役割を果たせなくなったそれは、土の上へボトリと落ちた。目を見張る紗矢の視線の先で、微かな軋みを上げながら、フェンスの戸が開いていく。戸惑い立ち尽くす紗矢を促すように、祖母は微笑みを浮かべたまま再びその奥へと進み始めた。


(……確か、ビオトープだって)


 五之木学園の裏、フェンスに囲まれたこの場所は、小規模なビオトープになっているのだと、一年の時の担任が話していたのを思い出す。そのため普段は、生徒も一般人も立ち入り禁止になっているのだ。中を見れるかもしれないという興味が心の中に顔を出し、紗矢はゆっくりと戸を押し開け、一歩踏み込んだ。


 生い茂る草のにおいが、すぐに紗矢を包み込んだ。己の顔よりも大きな葉を横目に見つつ、足をちくちくと刺激する細長い草を避けながら、立ちこめる熱気の中を奥へ奥へと進んでいく。木々の隙間を通り抜ければ、大きな池の前に出た。そっと覗き込めば、睡蓮の葉の下からメダカが姿を現した。


『紗矢』


 声に反応し顔を上げ、紗矢はわっと歓喜の声を上げた。池の向こう側は黄色で埋め尽くされていたからだ。


 祖母は咲き乱れる菜の花を揺らすこと無くゆっくりと移動し続け、小さな祠の手前で、やっと立ち止まった。黄色の中にぽつりと存在している焦げ茶色の古びた祠。それは紗矢にはとても異様なものに見えた。


『こちらへおいで』


 池を渡るべく、紗矢は板と板をつなぎ合わせただけの簡素な橋を、慎重に進み始めた。靴の下で板がたわみ、板の下の水面がザワリと揺れる。頼りない板を渡りきり安堵の息を吐いたのも束の間、紗矢は別の異変に身を震わせることとなる。

 熱気で満ちていた空間の温度がどんどん低下していく。紗矢の頬をひんやりとした空気が撫でつけていく。


「お祖母ちゃん」


 何かの境界線を越えてしまったかのような気持ちになり、紗矢は不安げに祖母へ目を向ける。


『こちらへおいで』


 浮き上がるように、祖母の手が紗矢に向かって差し出された。寒さに震えながら菜の花をかき分け進み始み、紗矢は祖母と対峙する。強ばっている手を伸ばし、骨張った懐かしいその手に触れようとした瞬間、甲高い鳥の鳴き声が聞こえ、紗矢の指先がぴくりと跳ねた。


 動きを止め空を仰ぎ見た。頭上を遮る緑は全く無かった。視界に映るのは真っ青な空と少しばかりの白い雲だけだが、鳥の鳴き声は何かを警告するかの如く繰り返されている。

 姿は見えないが鳴き声だけが反響しているこの状況に当惑していると、突然、手首が冷たい感触に包まれた。短い悲鳴を上げながら視線を落とせば、祖母の手が紗矢の手をぎっちりと掴み上げていた。

 俯いていた祖母の顔が上がり、互いの目が合った瞬間、口元に笑みが浮かんだ。


『捕まえた』


 微笑みが、少しずつ崩れ落ち、歪なモノに変わっていく。紗矢が悲鳴を発するのと、一際鋭い鳴き声が響いたのは、ほぼ同時だった。

 眼前を覆うように「赤」が落ちてきて、尖った嘴が祖母の腕に突き刺さった。女性のものとは思えない野太い悲鳴を発しながら、祖母の体は一気に後退する。祠の少し後ろでぴたりと停止し、澱んだ瞳を紗矢に向けた。

 氷のように冷たい手が自分から離れたものの、突き付けられた苦悶の叫び声に萎縮し、紗矢は身動きがとれなかった。舞い上がったランスの嘴が、紗矢の額にコツリとぶつかってきた。


「いてて…………えっ?」


 少しばかりの痛みで我に還り、見えた光景に紗矢は身を竦めた。足下に広がっている色は、純粋な黄ではなくなっていたのだ。濁りが生じ、鮮やかな色彩を失ってしまった菜の花たちが、次々と破裂していく。

 そこから白いもやが立ち上っていく。辺りは霞みがかかり始め、程なくして、池の向こうは何も見えなくなった。


『紗矢、紗矢、さや、さ、や』


 祖母の瞳は瞬きをくり返し、口は開閉し、手が揺れ、足も揺れている。統制を欠いてしまったかのように、それぞれの部分がそれぞれに動き始めた。

 しかし突然、ぷつりと糸を切られた操り人形のように、祖母がその場に崩れ落ちた。

 紗矢は恐怖に戦きながらも、上空を見上げランスの姿を探す。すぐに見つかった赤い躰は、紗矢の斜め前に舞い降り、一鳴きした。

 すがるようにランスに歩み寄り、紗矢は息をのんだ。瞳は獲物と対峙する獣そのものであり、毛はひどく逆立っていた。目の前の祖母に対して警戒しているのだとすぐに理解した。


(これはお祖母ちゃんの幽霊ではないの?)


 あんなに綺麗だった菜の花が全て消え去り、むき出しとなったそこに力なく立っている祖母を見て、紗矢は唇を引き結んだ。


(違うなら……何なの?)


 ぐったりとしたまま、祖母の体が浮き上がっていく。ランスが羽を大きく広げた。祖母の右足がぽとりと地面に落ちた。それはすぐさま真っ黒な塊へと変化し、すぐさま紗矢へと向かってきた。


 毛の塊が飛び上がると同時に、ランスは狙っていたかのように羽ばたきをする。ゴウっと強い風の音を伴いながら、熱風が巻き起こった。ちりっと黒の塊の一部で火が上がり、次の瞬間、その全てが燃え上がった。


 地面に落ち、悶えうごめきながら、激しく燃え上がっているそれを見て、紗矢は胸の前で拳を握りしめ、唇を噛んだ。


(私……これ。知ってる)


 子供の頃、迷子になったあの時に、自分に襲いかかってきたモノだ。


 祖母の左足、そして左手がボロリと落下する。それらは黒い毛の塊へと姿を変え、再び紗矢へと向かってきた。がしかし、同じようにランスが羽ばたきを繰り返し、同じように炎の渦に閉じ込められた。


「……ランス」


 目の前の祖母じゃないモノに意識を集中させているランスの邪魔にならないように、紗矢は小さく呟いた。


「ありがとう」


 感謝を込めてぽつりと声にすれば、赤い羽先がぶるりと痙攣した。紗矢は目を凝らし、そして気付いた事実に大きく目を見開いた。


 ランスの羽から、赤い液体がぽたりぽたりと滴り落ちた。





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