第3話 告白

 外気の冷たさ。家の建ち並ぶ景色。それらに目新しさなどない。けれど、自分の現状に妙な居心地の悪さを覚えてしまった紗矢にとっては、いつもと違う装いの朝となっていた。


 違和感の原因はいくつかある。

 一つ目は、祖母が亡くなってからの一年間、肌身離さず身に着けていたあのブレスレットが、今、左手首で重みを発していないということ。

 真っ二つに割れ崩れ落ちてしまったあの石たちは、小さなビロードの袋に入れた状態で、鞄の内ポケットの中に仕舞い込んである。一応持ってはきたけれど、やはり自分の体から切り離してしまった感は拭えない。

 二つ目は、木の枝をガサリガサリと揺らしながら追いかけてきている、灰色の鳥……数分前に、ランスに危害を加えていたあの鳥の存在である。

 鷹のようであり、そして二つの長い尾ひれを持つ身体的特徴からして、ランスと同じ種であることは間違いないだろう。しかしその表情は全く違うもので、紗矢はあまり可愛いと思えなかった。


(ランスは越河君の鳥……だったら、あの鳥は峰岸君の飼っている鳥?)


 家を出たその時からずっと、灰色の鳥は卓人を追いかけるようについてきているのだ。疑問を投げかけるように横を歩く卓人を見れば、すぐに卓人も紗矢を見下ろしてきた。


「なあに?」


 紗矢の心がどきりと反応する。後光の如く差し込んできた日差しが、薄茶色の髪の毛に反射し、綺麗な天使の輪を作り上げている。更に彩りを添えるかのように、卓人が無邪気な笑みを浮かべた。


(……可愛い。可愛すぎるって!)


 濃紺のブレザーとグレーのスラックス。それが紗矢たちの通う五之木(いつのき)学園の男子の制服であり、もちろん彼も身に纏っている。しかし、中性的で可愛らしい顔立ちの卓人ならば、同じ紺でも紗矢が身に着けている女子の制服姿の方が……胸元にリボンを付けている方が似合うだろう。

 その点に関しては紗矢の知っている峰岸卓人であり、いつも通りなのだけれども、今日の彼は見慣れないものを持っていた。それが三つ目の違和感である。


「ねぇ、峰岸君」


「どうしたの?」


「答えにくかったら答えなくても良いんだけど……気になっちゃって……それは何?」


 紗矢は卓人の右肩に目を向けた。肩から掛けられているのは黒光りする細長い鞘。そして上部に鍔が有り、その先には柄。どう見ても刀である。可愛らしさと鋭利さのギャップに、一体彼はどうしてしまったのかと心配になってしまう。

 卓人は紗矢の言葉に足を止める。そして注意深く紗矢の手首を掴み上げた後、囁くように呟いた。


「あれはどうしたの?」


「……ブレスレットのこと?」


 卓人の視線の先から思い当たる単語を口にすれば、彼が小さく頷き返してきた。


「壊れちゃったの……だから今日は――」


「そっか。ようやく僕は、あの女の力を打ち破ることが出来たんだね」


「え?」


 勝ち誇ったような彼の表情に、紗矢は眉間にしわをよせる。卓人はそれを気にする様子もなく、向き合うように体の向き変えると、己の背を指さした。


「これ、なーんだ?」


「か、刀」


「良かった。はっきり見えてるんだね……そうだよ、これは日本刀。そして力。愛する人を守るための、ね」


 愛という言葉を少しばかり強調させながら、卓人は己の背後を指していた手で紗矢の右腕を掴んだ。僅かに紗矢が身を引けば、卓人が一歩前へ進み、互いの距離を容易に詰めた。


「僕が紗矢ちゃんを守るために、必要なもの」


「ま、守るって。何から? やだなぁ、も――……うっ!?」


 卓人にじっと見つめられ、戸惑いがちに視線を外した瞬間、紗矢の体が引き寄せられた。一瞬で、視界が紺色に染まった。頬に当たる滑らかな制服の生地。背中には卓人の力強い腕。


「紗矢ちゃん、柔らかい」


 峰岸卓人に抱き締められているということを理解した瞬間、そこから抜け出そうと紗矢はもがき始めた。


「ずっとこうしたかった」


「み、峰岸君!? なっ、何言ってるの!?」


「僕はね、入学式で紗矢ちゃんの力を感じ取ったその瞬間から、君の虜なんだよ? 紗矢ちゃんしか見えない。君が欲しくてたまらない」


 紗矢の抵抗に少しも動じずに、卓人は言葉を紡いでいく。


「好きだよ。大好きだよ」


 気持ちのこもった声音が振動になって、紗矢の体の中へ浸透していく。


「僕を見て」


 言葉に従うように卓人の腕の中で視線を上げれば、彼の瞳がゆっくりと細められた。まるで「良い子だね」と言っているかのように。


「僕には君が、君には僕が必要」


 焦げ茶色の瞳が、ふいに陰りを帯び始めた。灰色の影がちらちらと色を発し、思わず紗矢は息を止めた。


「君を守れるのは誰?」


 紗矢の体の奥底に沈み込んでいた何かが首をもたげ、心をざわつかせる。


「僕だよ。僕だけ」


 灰色の影が大きさを増すほど、思考を乗っ取られていく。


「だから、僕に力を貸してくれるよね?」



 ――……ミネギシクンナラ、コワイモノスベテカラ、ワタシヲマモッテクレル……。



 彼の言葉に頷こうとした瞬間、あどけなさの残る声が、遠くで聞こえた気がした。



『そんなに、俺と友達になりたい?』



 何度も何度も思い出す声。



『良いよ。なってあげても』



 珪介の声。



『さよなら』



 そして、別れの言葉。

 紗矢ははっとし、卓人の胸元を両手で強く押し返した。


「ごめん……何を言っているのか分からない」


 卓人と紗矢は高校一年の時に同じクラスとなり、すぐに言葉を交わす仲となった。三学期最後の席替えでは隣の席にもなり、一年を思い返せば、紗矢にとって一番身近な男の子であったことに間違いはないだろう。

 けれど人懐っこい性格の卓人は、男女問わず友人も多い。だから彼にとって自分は仲の良い友人の一人だと……まして、彼が自分に恋愛感情を持っているなどと考えもしなかったのだ。


「こういうことは、止めて」


 俯いた紗矢の手を、卓人が再び掴み取った。


「そうだよね。ごめんね。紗矢ちゃんにとっては突然すぎたね。何にも知らないんだし、説明が先だったかな……でもそれは時間があるときにゆっくりすることして、まずはこれ。お守り代わりだと思って、受け取って」


 手の平から、固く冷たい感触が伝わってきた。


「……これ」


 まるで祖母とのやりとりを彷彿とさせるように、灰色の球体が連なったブレスレットが乗せられていた。


「僕のものって証だよ」


 息苦しさを感じながら紗矢は大きく首を振り、ブレスレットを卓人に返した。


「ご、ごめんなさい。受け取れない。私、峰岸君のことは友達として見てるから」


「僕のこと、嫌い?」


「嫌いとか、そういう事じゃなくて」


「じゃあ大丈夫。君はすぐに僕を好きなるよ」


 力ずくで引き寄せられ、紗矢はまた卓人の胸元に倒れ込んだ。慌てて体を離そうとしたけれど、卓人の指先に顎を持ち上げられ、唇に柔らかい物が押しつけられた。逃げようとするよりも先に、彼の手が紗矢の腰をたぐり寄せた。


「やめてっ!」


 唇が離れた瞬間、紗矢は声を張り上げたが、全く聞こえていなかったかのように、卓人は再び唇を重ねてきた。抗議をすべく彼をみて、紗矢は凍り付いた。楽しそうに瞳が細められ、その隙間で灰色の影が揺らめき始めた。

 途端、目眩に襲われ、両足から力が抜けていく。不覚にも、卓人の腕に自分の体を預ける形となってしまった。


「大丈夫?」


「やっ……もう止めて……止めてってば!!」


 紗矢は弱々しくも精一杯、卓人を突き飛ばした。しっかりとした説明は出来ないが、自分は今、卓人に何かをされた気がしたのだ。

 やっと後退した卓人から逃げ出すように、紗矢はおぼつかない足取りで歩き出した。


「紗矢ちゃん」


「ついてこないで!! アンタも、こっち来ないでよ!!」


 近寄ってこようとする気配と、頭上を滑空してきた灰色の鳥に苛立ちをぶつけ、紗矢は両足に力を込め走り出した。


 点滅をしてる信号を横目で見ながら横断歩道を走り渡り、足早に歩いている生徒の間を縫うように進み行けば、長い上り坂が見えてきた。その坂道の先に煉瓦造りの校舎がある。それが紗矢の通う五之木学園である。


「信じられない! 訳わかんない!……あっ、嘘! もう、峰岸君のバカ!」


 いつの間にか、自分の手首に峰岸に返したはずのブレスレットがはめられていた。紗矢は走る速度を落とし、肩を落とした。


「また顔を合わせるようじゃない!」


 自分の気持ちを無視し、あんな行動を取った卓人にはしばらく会いたくない。けれど、もらったつもりのないブレスレットを持っているのも嫌である。今すぐ返したい。紗矢は卓人の可愛らしい顔を思い出し、盛大なため息を吐いた。


 形ばかりの小さな朱色の橋を渡り、憂鬱な坂に差し掛かった時、紗矢は前方に知っている姿を見付け、足を止めた。栗色のショートボブの女の子と、すらりと背の高い男の子。

 男子の方は卓人と同じように見慣れぬ赤褐色の細長い筒を肩にしょっているはいるけれども、その後ろ姿で二人が誰なのか、紗矢はすぐに分かった。寄り添い歩いているのは、友人の若葉と越河珪介である。

 若葉はとても楽しそうに笑っていて、珪介もあの写真同様、優しい笑みを浮かべている。息苦しさに違う苦しさが混ざり込み胸元を抑えれば、バサリバサリと鳥の羽音が近付いてきた。

 二人から大空へ視線を上げると、灰色が視界の端を掠めていった。鳥は紗矢の真上を小さく旋回した後、大きな楕円を描き、そのまま一気に上昇していく。そして、真っ白な雲の向こうへと――……。


「……っ!」


 紗矢は驚きに目を丸くする。空に浮く真っ白なそれは、雲ではなかったのだ。驚くほど巨大な鳥が力強い羽ばたきを繰り返しながら、その場にとどまっている。灰色の鳥の十倍はあるだろう純白の体は、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。


「いったい……何なの」


 呟き声が聞こえたかのように、体躯に似合わぬ小さな顔が紗矢に向けられ――次の瞬間、巨大な鳥が轟音の如し咆哮をあげた。すさまじい音量に、紗矢は身を竦めた。予期せぬ迫力に鼓動が跳ね上がり、声の震動でぴりぴりと肌が痛みを発した。


「きゃあっ! 何、あの鳥!」


 悲鳴を上げながら、若葉は珪介の腕にしがみついた。珪介はただ黙って滞空する巨体をじっと見上げていたが、突然、何かを察したように振り返り、紗矢を見た。


「……お前」


 珪介の瞳が僅かに見開かれた。


「紗矢! お早よ……っ!」


 若葉が口元に笑みを浮かべたのはほんの一瞬だった。すぐに、彼女は後ずさっていく。


「若葉?」


 なぜ怯えているかが理解できず足を一歩踏み出せば、若葉を庇うように珪介が前に出た。険しさを増した彼の瞳に、紗矢はそれ以上進むことが出来なかった。


「行こう、若葉」


「……でも」


「大丈夫だよ。俺がついてる。傍にいるから」


 安心させるように、若葉の肩に珪介の手が乗せられる。思考を上手く働かせられないまま、紗矢は自分から遠ざかっていく二つの背中を見つめていた。


(私……夢でもみてるの?)


 だんだんと視界が涙でにじんでいく。


「違うよ。ちゃんと起きてる……現実なんだよね」


 壊れてしまった形見。赤い鳥。灰色の鳥。卓人の告白。強引なキス。仲の良かった若葉の変化。彼女を守るように自分を睨みつけてきた珪介。


『大丈夫だよ。俺がついてる。傍にいるから』


 若葉にかけられた、力強くも、優しい珪介の声音。それが、紗矢の耳の奥で虚しくこだまする。


「本当に、何なのよ」


 こぼれ落ちそうな涙を堪えるべく、空を見上げた。青い空に小さな雲が浮かんでいるだけで、そこにはもう、何の生き物の姿も無かった。


「お祖母ちゃん」


 自分だけが取り残されている気がして、紗矢はすがるようにその名を口にしたのだった。




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