一章

第2話 始まりの朝

 静かな部屋の中で、カーテンのはためく音が響き渡っている。布が風に舞い上げられるたびに、熱を持った日差しが部屋の中に鋭く差し込み、ベッドの下に並べられたクマのぬいぐるみの小さな黒い瞳を、きらりと輝かせた。


「もう、紗矢! 早くしなさい! 遅刻するわよ!」


「はーーい」


 階下からの母の叫び声に静寂を破られ、紗矢は髪を結い上げていた手を止めると、とりあえずの返事をした。


「言われなくても、分かってるってば」


 文句がちな声音を小さく付け加えれば、指先から離れたゴムがぱちりと音を立てた。

 紗矢は慎重な面持ちのまま、姿見の前でひらりと一回転する。後頭部の高い位置できっちり結いあげた髪はほつれもなく、紺地に白の細の線が入った胸元のリボンは六回も縛り直したかいあって、ふんわりと形をなしている。

 目の前の鏡に映る制服姿の自分を何度も何度も確認したのち、紗矢は安心したように短く息を吐いた。


「大丈夫。見た目は、変じゃない!……でも」


 改めて鏡を見れば、露骨なほどに紗矢の口元は引きつっていた。


「良いですか、紗矢。貴方がこれからの一年を過ごす場所なのですから、笑顔で始まりを迎えなさい……後悔をしないように」


 亡くなった祖母の口調で、鏡の向こうにいる自分へ諭すように話しかけた。無理やりに口角を上げてみたけれど、祖母効果はあまり無かった。それどころか、眉毛がだんだんとハの字になっていく。


「困った」


 今日は高校二年の始まりの日である。


「これから一年……私、もつかな」


 学校は一昨日に始業式、昨日は入学式と、もう既に新学期が始まっているのだけども、祖母の一周忌で休みをとっていた紗矢にしてみれば、今日からが新学期なのだ。

 鏡の上部に貼り付けてある写真に目を向け、紗矢は口元をきつく引き結んだ。


(大丈夫……平常心。平常心。何を言われても、どんな態度をとられても、平常心!)


 そこに映っているのは、一年生の時の紗矢と友人の若葉わかば。文化祭で飾り付けられた学校の廊下をバックに、紗矢と若葉は身を寄せ合い、笑顔でピースサインをしている。しかし紗矢が見ているのは自分たちではない。その少し後ろにたまたま映り込んだ男子生徒の方である。

 男子は三人写っている。みな同学年で、当時、紗矢とは別のクラスにいた男の子たちなのだが……紗矢がつい見てしまうのは、その中で一番背の高い男性、越河珪介である。

 写真の中にいる彼は、とても優しい眼差しで友人たちと言葉を交わしている。たまたま同姓同名であり、顔が似ているだけ。そう訝しがってしまうほど、ぶっきらぼうな言葉遣いだったあの少年は、おおらかな人柄へと成長していたのである。今の彼はこの写真通りに、背も高く、容姿も良く、みんなに優しい。


「……っ」


 正確には、自分以外には……である。

 一年生の時、蒸し暑さの満ちあふれた廊下で、珪介からむけられた威圧的な瞳が、紗矢の脳裏にフラッシュバックする。紗矢はちくりと痛んだ胸元を手で抑え、一昨日の昼前に若葉から届いたメールを思い出し、肩を落とした。あの時の彼の態度にショックを受け、話しかける事など出来なくなってしまったというのに、どうやら同じクラスになってしまったようなのだ。


「紗矢ったら! 早くしなさい!」


 再び、一階から自分を呼ぶ苛立ち声が聞こえてくる。


「はいはい」


 心の中にわき上がってきた珪介に対するモヤモヤを、頭を振って払った。


「行ってくるね、お祖母ちゃん」


 ローチェストの上に飾ってある祖母の写真へ、紗矢はいつものように言葉をかけた。そして机の上に置いておいた通学用鞄と、亡くなる直前に祖母からもらった天然石のブレスレットを掴み上げ、部屋を飛び出そうとした。


「……え?……えっーー!? うそでしょ!?」


 掴み取ったそれに違和感を覚え視線を落とした瞬間、紗矢は悲鳴に近い声を上げた。連なっていた純白の球体全てが、コツリコツリと小さな音を立てながら落下していったのだ。石は真っ二つに割れ、手の中に残ったのはゴム製の紐のみである。指先の震えが大きくなっていく。


「どっ、どうしてこうなっちゃったの!?」


 ふいに、祖母の言葉が蘇ってきて、紗矢の瞳に涙が込み上げてきた。



+ + +



『紗矢。これをあげましょう』


 高校入学式当日、緊張で家の中を歩き回っていた紗矢は、穏やかな微笑みを浮かべながら静かに歩み寄ってきた祖母に、呼び止められた。


『紗矢の身を守ってくれる大切なお守りですよ。だから、大事に扱わなくてはいけません』


 言葉と共に、紗矢の手の中に冷たく硬いものが乗せられる。

 視界に飛び込んできたのは、真っ白な球体が連なったブレスレットだった。それは、何色にも染まらないというような凛とした雰囲気を放っていて、まるで、自分の意思をしっかりと持っていた祖母その人のようであった。

 紗矢の肩にシワシワの手を乗せ、互いの視線をしっかり合わせると、祖母は厳かな声で告げる。


『約束してちょうだい。これを肌身離さずいつも持っている、と』


『……お祖母ちゃん』


 神妙な眼差しを向けられ、ブレスレットが紗矢の手の上で重みを増す。


『……う、うん。分かった。有り難う、お祖母ちゃん! 大好きっ!』


 紗矢は祖母に対してこれまでに色々と反発をしてきた。だから腹を立てたこともあっただろうに、今は自分の門出を心配してくれている――……そう感じ、紗矢は祖母に抱きついた。

 優しい手つきで紗矢の背中をそっと撫で、祖母は次の言葉を紡いだ。


『私もですよ……紗矢、お聞きなさい……たぶん私が貴方を守れるのもここまでです。この先きっと、私はそう長く生きられないでしょう』


『……えっ?』


『これからの人生、例え自分の身に何が降りかかろうとも、立ち向かいなさい。決して過去を振り返らず、そして心が負けることも許しませんよ』


 その場で祖母の言葉を理解することは出来なかった。何を言っているの。悪い冗談は止めてよ。まだ元気でいて。私の傍にいて。思いは心の奥底から浮かび上がってくるが、祖母の真剣な瞳に、どの言葉も返すことは出来なかった。

 数日後、彼女の言葉は現実となった。大好きだった祖母が、穏やかな表情で天国へと旅立っていった。これまでの思い出と祖母からの最後の贈り物を胸に抱きながら、紗矢は誰よりも涙を流した。



+ + +



「どうしよう……お祖母ちゃん」


 祖母が亡くなってから、ゴムが切れてしまった事は度々あった。その度に新しくゴム紐を購入し、付け替えていたのだけれど、これではもう補修のしようがない。

 一欠片摘まみ上げ、どうしたら良いのだろうかと紗矢は瞳を凝らした。小さな欠片には、細かな傷が沢山付いていた。思わず紗矢は、うめき声を発した。

 本当に大切にしていた。でもそれは、紗矢の独りよがりな思い込みで、実際はそうではなかったのだろう。無数についている傷がその証拠だ。

 指先にほんわりと熱を感じ取り、紗矢はハッとするように真っ白な石の欠片に目を向けた。


「……赤、い…………熱っ!」


 まるで血管でも通っているかのように、真っ白だった石の表面に細く赤い線が延びていく。指先でこすってみたけれど、石の感触しか返ってこなかった。白がゆっくりと濁りを帯び始め、薄灰色へと姿を変えていく。ねずみ色の世界の中でちらちらと赤い閃光が走り――……そして、小さな欠片は紗矢の指の間で弾けるように砕け散った。

 息をのんだ紗矢の耳に、カーテンの揺らめく音が聞こえてくる。


――……バサッ……バサリ……。


 布のはためく音に、鳥の羽音が微かに重なり合う。そして、羽ばたきが力強さを増し、主張するかのように音が大きくなっていく。窓に顔を向れば、カーテンが一瞬だけ陰りを帯びた。何かが陽の光を遮ったのだ。

 強ばる足を動かし、紗矢は窓に歩み寄っていく。カーテンに手を伸ばせば、映り込んだ影が動いた。紗矢の鼓動が加速する。

 ゆっくりとカーテンを引き、紗矢は顔をほころばせた。窓のすぐ向こうにある木の枝に、鮮やかな真紅を身に纏った大きな鳥がとまっていたのだ。自分の思い出の中に、似た姿がある。目の前に存在するそれよりは数倍小さいが、顔や声音は記憶の中としっかり一致する。


「……ランス?」


 目映い色彩に目を細めながら、その鳥の名前を口にすれば、クルクルと甘えるように喉をならす音が返ってきた。鳥を驚かせないように慎重に、紗矢は少しずつ窓を開けた。


「越河君と一緒にいた、ランス?」


「グルル」


 もう一度問いかければタイミング良く鳥が低い声を発し、紗矢はまた笑みをこぼした。まるで自分の言葉に返事をしてくれたかのようだったからだ。


「久しぶりだね……私ずっとね、ランスにも会いたかったの……だけどごめんね。探しに行けなかった」


 珪介に会えても、この一年、ランスには会えなかったのだ。祖母が亡くなった後は、外出すると気持ちが悪くなってしまう事が多々有り学校以外の外出は控えるようにしていたのだ。

 珪介の鳥……と言うことは、本人もいるのだろうか。そんな疑問を持ち、紗矢は中途半端に開けていた窓を全開した瞬間、ランスがバサリと派手な音を響かせた。力強く羽ばたき、赤い躰は素早く上昇する。


「あっ、待って!」


 窓から身を乗り出した紗矢の眼前を、灰色の体がつむじ風の如く通り過ぎていった。


「え?」


 晴れ渡った空へ、似通った鳥たちが舞い上がっていく。違っているのは色彩だけだ。


(ランスの仲間?)


 灰色が赤色の羽に嘴を突き刺し、ランスが悲鳴のような鳴き声を上げた。


(違う……攻撃してる)


 灰色の鳥が追い払うような仕草を見せ、紗矢は拳を握りしめた。


「紗矢ちゃん!」


 突然、下から声を掛けられ、紗矢は真っ青な空から玄関前へと不機嫌な瞳を向けた。


「お早う」


 紗矢の様子にはお構いなしに、家の門に寄りかかっていた姿が、ゆっくりと前へ進み、軽やかに片手を上げた。


「……み、峰岸君? どうしたの」


「紗矢ちゃんと一緒に登校したくて。こっそり待ち伏せしてたんだ」


「私と、一緒に?」


「そうだよ。早く降りてきて、お願い。待ちくたびれちゃった」


そう言って、峰岸卓人みねぎし たくとは可愛らしい笑みを浮かべた。






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