ホワイト クラウン -求慈の姫と守護の翼-
真崎 奈南
序章
第1話 霧の記憶
あれは灰色の世界での出来事だった。
霧が立ちこめる薄暗い林の中を、
陰鬱な周囲を全く気にすることもなく、幼き双眸は一羽の小鳥だけに注がれている。
紗矢が引き寄せられるように追いかけているのは、鮮やかな赤を身にまとう小さな鳥。灰色の中に紛れ込んだそれは、異様な生き物だった。姿格好は鷹のようにも見えるが、尾ひれは長く、先は二つに分かれている。
それは鮮やかな赤の残像を残しながら、鳥は紗矢の目と鼻の先を飛んで行く。
「ねぇ、待って……待ってったら!」
手を伸ばし叫べば、鳥がゆったりとした動きで旋回し、紗矢の腕へ微かな重みと共に舞い降りてきた。鳥の小さな頭部をそっと撫でれば、柔らかな感触が返ってくる。
「可愛い!」
同じ言葉を繰り返しながら、頭から羽へと指先を滑らせた。
すると鳥は気持ちよさそうにグルルと喉を鳴らし、紗矢の手の平にその体をすり寄せてきた。自分に懐いてくれているような行動に、紗矢は嬉しくなって笑みを浮かべた。
ひとしきり撫で回した後、紗矢はやっと自分のいる場所に目を向け、ごくりと唾をのむ。生い茂る木々の隙間で、「何か」の影が動いたのだ。その数、一つや二つではない。林を包み込んでいた霧も、紗矢の恐怖心を煽り出す。
――……飲み込まれる!
ゆらゆらと揺れながら霧が近付いてくるような錯覚に陥り、紗矢は身を竦めた。
「ここはどこ? お祖母ちゃん!」
発した声は震えていて、心細さまで増幅する。カサカサと草が揺れ恐怖に身を震わせれば、小鳥が低く鳴き、紗矢の腕から飛び立った。
「あっ、待ってよ! 一人にしないで!」
鳥がいなくなってしまったら、きっと自分はここから動けなくなってしまう。そう感じ、紗矢はまた鳥を追いかけた。
ふわりふわりと、赤い躰が上昇と下降を繰り返す。真紅の姿を見失わないように気を付けつつ、紗矢は周囲にも目を向ける。霧の向こうに、ぽつりぽつりと小さな旗が見えた。白、黒、白、黒とそれは続いていく。
クワッと鳥が鳴き、風をまといながらスピードを上げた。
「あっ、ちょっと、まっ……うわっ!」
舞い上がっていく鳥を見上げたため、地面から盛り上がっていた木の根に気付くのが遅れてしまった。そこにつま先を引っかけ、紗矢はばたりと地面へ倒れた。痛みを堪えながら視線を上に向け、泣きそうになる。もうそこに鳥の姿はなかったのだ。
自分はどうしてあの鳥についてきてしまったのだろう。後悔し、心細さに押し潰されそうになった。
――……ガサリ、ガサリ。
風もないのに、草が揺れた。立ち上がることも出来ずにいると、茂みから影がゆらりと伸び上がった。
「っ!?」
伸び縮みをしながら、細長い影は球形へと変化していく。サッカーボールほどの大きさになった所で、それは影ではなく別のモノなのだと紗矢は気がついた。表面を固そうな短い黒い毛に覆われたそれが毛の塊となりころりと転がってきた。紗矢の目の前で動きを止め、勢いよく跳ね上がった。
見えた恐怖に、叫び声さえ上げられなかった。真下に大きな口があり、開かれたそこに鋭い牙が隙間なく並んでいたのだ。
噛みつかれる――そう思った瞬間、視界の隅で何かが輝いた。小さな光が閃光となって毛の塊に突き刺さる。奇妙な声音と共に地面に落下した塊は、短刀に貫かれていた。悶絶し身をよじるそれから逃げるように、紗矢は座ったまま後ずさった。
「…………誰?」
どこからか、男の子の声が聞こえた。紗矢は忙しなく周囲に目を向ける。けれど、霧に包まれた中で、その声の主を見付けることが出来なかった。
頭上で、あの鳥の鳴き声が聞こえた。見上げれば、灰色の中に赤があった。舞い降りてきているのか、姿がだんだんと大きくなってくる。どの枝にも留まらず、鳥は木の根元へと向かって舞い降りていき……そして、小さな黒い塊に両足を乗せた。
「鬱陶しいな。下がれよ」
ほんの一瞬、さっきの塊と同じモノだろうかと、紗矢は身をこわばらせたが、言葉と共に霧が引くと、すぐにそれが声の主の頭だと気付かされた。
現れ出た姿に、紗矢の鼓動は大きく反応する。そこにいたのは自分と同じくらいの年齢の男の子だった。黒いポロシャツに濃紺のハーフパンツ姿のその子は、木の幹にもたれ、片膝を抱え座っている。
とても綺麗な顔をした男の子だった。そして、酷く疲れ切っているようにも見えた。
「で……お前、誰?」
男の子の視線に捉えられ、紗矢は動けなくなる。黒髪がさらりと揺れるその下で、瞳が細められる。あからさまな警戒心を突き付けられ、紗矢は拳を握りしめた。
「かっ、片月紗矢(かたつき さや)です!」
「……片月?」
男の子はゆっくり立ち上がり、そんな名前知らないというように首を傾げた。
「……私たち、初めましてだよ。初めましてなのに、どうも有り難う」
「は?」
紗矢もよろめきながら立ち上がり、そそくさと毛の塊から距離をとった。
「あの剣。キミが投げたんでしょ?」
毛に刺さったまま鈍く光を放っている短刀を指させば、男の子は小さく頷いた。
「あれに噛みつかれるところだったの……尖った歯がね、すごくいっぱいついてた。噛まれたら、私きっと泣いてた」
「だろうな。一週間ぐらい泣き続けるだろうね」
「だからどうも有り難う。助けてくれて、有り難う」
「……別に。助けたとか、そんなつもり無いから」
男の子はあまり動かなくなった毛の塊を躊躇いもなく踏みつけ、そして力一杯、刀を引き抜いた。光の欠片が舞い散ったように見え、紗矢の心がざわりと波立った。
刀という楔を引き抜かれた毛の塊は、痙攣しながら逃げていく。追い立てるように、赤い鳥がくちばしでそれを突く。少しだけおもしろがっているようにも見えた。
「その鳥、君の?」
「そう」
「名前はなんて言うの?」
「別になんだっていいだろ?」
彼のあまりの冷たい言い様に、紗矢は笑みを崩し、唇を尖らせた。
「いいじゃない、ケチ!……可愛いんだもん、名前で呼びたい。教えてよ!」
「可愛い? これのどこが?」
「顔とか、人懐っこい所とか」
「だからどこが?……痛っ!」
男の子の頭を細い足で蹴飛ばしてから、赤い鳥は紗矢の足下へ舞い降り、甘えるように小さな頭をすり寄せた。その光景に、男の子は舌打ちをする。
「私ね、この子を追いかけてたら、いつの間にかこんな所に……ここはどこ?」
「……お前、単なる迷子かよ」
紗矢が「単なる迷子」だと理解した途端、男の子の顔から険しさが消え、疲労感が浮かび上がってくる。
何をそんなに疲れているのだろうか……そんな疑問が頭をよぎったとき、紗矢に身をすり寄せていた鳥がぐるると泣いた。小さな振動が、紗矢の体に広がっていく。
『カナシイ』
『ニクイ』
『サミシイ』
重苦しい言葉が心の中に浮かび、嫌な余韻と共に沈んでいく。紗矢は鳥に視線を落とした。これは鳥の気持ちなのかと思ったからだ。
『カアサンハ、モウイナイ』
『オレハ、ヒトリダ』
再び伝わってきた感情に心が揺さぶられた。泣きそうになるのをこらえながら、紗矢は男の子へと歩み寄っていく。
寂しくて悲しいのは鳥でない。この男の子だ。彼の抱えている気持ちを、鳥が伝えてきたのだ。
そっと手を差し出せば、男の子は素早く身を引いた。
「もとの場所まで連れて行けって? 嫌だね、面倒くさい。一人で帰れよ」
「違う! 私と、友達になって!」
「なっ!?」
嫌な顔をして後退していく彼を追いかけ、紗矢は距離を詰めていく。先ほどまで寄りかかっていた木の幹に背中をぶつけると、彼はその弾みで持っていた短刀を地面に落とした。
「友達になってよ!」
「ならない!」
「なるの! いいから手を出す!」
促すように、赤い鳥が彼の手をくちばしで突っついた。男の子は眉根を寄せ、大きなため息を吐き、そして諦めたように右手を上昇させた。
互いの指先が微かに触れた。その瞬間、男の子と紗矢の小さな体を暖かな風が包み込んだ。
「私たち友達だよ」
相手の動きが止まったことに気がついて、紗矢は慌ててその手を捕まえる。
「繋がってるよ」
彼は目を瞠った。握りしめられた自分の手を見て、口元を引き結ぶ。
「一人じゃないよ」
もう片方の手も添え、彼の手をぎゅっと包み込むと、紗矢の瞳から自然と涙が流れ落ちていった。
それに気付いた少年は、戸惑いがちに瞳を伏せた。
「片月……紗矢だっけ?」
「そうだよ」
紗矢の見つめる先で、下がっていた口角がゆっくりと上がっていく。
「そんなに、俺と友達になりたい?」
彼の左手が紗矢の頬に触れる。
「良いよ。なってあげても」
そのまま一気に、互いの顔の距離がゼロになる。紗矢の唇に、柔らかく暖かな唇が押しつけられた。
「俺、
珪介の微笑みに、心が熱を帯びたのを感じ取り、紗矢は口ごもった。
鳥が短く鳴く。同時に、珪介も何かに反応し、機敏に顔を上げた。耳を澄ませば、誰かの声が聞こえてきた。くぐもっていてよく分からないが、大人の声だ。
「ランス。コイツ連れてってやれよ。誰かに見つかったら面倒だ」
繋いでいた手を勢いよく珪介に引っ張られ、紗矢はバランスを崩したが、傾いた体は彼の手によってしっかりと抱き止められていた。
「有り難う、紗矢。ちょっとは元気出た……かな」
ゆっくりと体と手が離れていく。
「さよなら」
珪介は短刀を掴み取り背を向けると、根元にあった鞘を拾い上げ、それを収めた。そのまま歩き出した彼を追いかけようとした紗矢の後ろで、羽音が響いた。振り返れば、「ランス」と呼ばれた赤い鳥が、自分を見つめながらふわりと舞い上がっていく。
『帰るよ』
そう言われたような気がして鳥に続こうとした瞬間、また大人の声が聞こえてきた。響き渡ったのは、怒鳴り声に似た音だった。
「珪介君」
彼が怒られている。そう直感し、紗矢の心で心配と不安が膨らんでいく。しかし、そんな気持ちをお構いなしに、鳥は紗矢の頭をくちばしで突っついた。
「やっ、やめてっ!……分かった、帰るよ」
苦々しく言えば、ランスが翼をはためかせ一気に上昇する。空を駆け上がっていく躰から、ひらりと赤い欠片が落ちてきた。柔らかで綺麗な赤い羽だった。それを両手で受け止め、もう一度紗矢は珪介の消えた方に目を向ける。
一つ、彼は間違っていた。
「さよならじゃない。またね、だよ!」
紗矢は膨れっ面で、そう呟いた。
(また会うんだもん)
近い未来の再会を強く願いながら、回れ右をする。そして、ここに来たときと同じように、走り出したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます