第7話別れの時
家の中は落ち着かなかった。
なので、あやめはほとんどの時間、星路の中で過ごした。ノートパソコンを持ち込んで、可能な限り星路の中で仕事して、そこで過ごした。中に入るのは、トイレの時ぐらいだった。
「エコノミー症候群って知ってるか。」
星路が言ったが、あやめは聞く耳を持たなかった。星路と一緒に居ないと、怖い。あの桑田が、今にも来るんじゃないかと、気が気でなかったのだ。ここに居れば、最悪逃げられるし籠城も出来るんじゃないだろうか。
あれから一週間だった。あやめの家の周辺の車とバイク、それに自転車も三輪車も、皆事情を知っていた。物ネットワークは凄まじいのだ。終いにはどこの家の冷蔵庫も洗濯機も、事情を知ってるような事態になり、物の間では桑田は要注意人物として知られていた。知らないのは、人だけだった。
そうやってどんどんと隣の家の車、そしてその隣の家の自転車と口コミでつながって行くうちに、ついに桑田の家の車も事態を知ることとなった。星路が黙っていたかと思うと、突然にあやめに言った。
「桑田の車と渡りが付いたぞ。」あやめがびっくりして顔を上げる。星路は言った。「何でもあいつはあの日、田島を見知っていて悟の事務所へ押しかけたらしい。悟は断固として画像を渡さなかったらしいが、警察まで来て大変だったんだと。お前のことは、田島が勝手に誘って利用した女だと説明していたらしい。知っているのかとうそぶいていたと言っている。だが、桑田はそれで由香里のダンナに多額の慰謝料を請求されて今家裁で争ってる。由香里は離婚で桑田に助けを求めて来たらしいが、桑田は一切応答しなかったそうだ。今でもそうらしい。デミオは、ディーラーに売られた。」
あやめは、口を押えた。デミーちゃん…。
と、目の前のプリウスのクラクションがいきなり鳴った。だが、誰も乗っていない。つまり、りっさん自身が鳴らしたということだ。こんなことは初めてだった。
「あやめちゃん!星路とここを離れろ!こっちに向かって走ってると伝言が来た!」
前の家の人が、びっくりしてプリウスを見に出て来た。勝手にクラクションが鳴ったからだ。
「急げ、あやめ!」
あやめはあたふたとノートパソコンを助手席へ放り投げ、星路のエンジンを掛けた。そして暗くなり始めた道を、どこへともなく走り始めた。
「右だ」星路が言った。「人けのない所へ行くな。」
あやめは焦っていた。言われるままにハンドルを切り、走って行く。後ろから、何かの車のヘッドライトが付いて来ているのが分かった。
「桑田だな。悟に電話しろ。危ないぞ…あいつ、何をするかわからない。」
あやめは、走りながらスマートフォンを出した。そして電話を鳴らす。早く出て!
『もしもし。』
三回ほどのコールで、悟が出た。あやめは必死に言った。
「なんでだか分からないんですけど、桑田が追って来るんです。今車で走ってるんですけど。」
あやめは言った。悟は、焦ったように言った。
『すぐ合流しよう。この際知ってる知らないは言っていられない。今どこに居る?』
「高崎町三丁目の交差点を左折。」
星路が言った。
「…高崎町三丁目の交差点を左折しました。」
『よし。結構遠いな…その先を転回して美津駅近くのホームセンター駐車場まで来てくれ。入り口になるだけ近い位置の駐車しろよ。オレも今すぐ出る。オレは十分で着くから。』
「はい。」
あやめは答えて電話を切った。後ろにぴったりとついて来る桑田の車が言った。
「すぐに逃げろ!こいつはさっきからものすごく嬢ちゃんを恨んでる言葉を発してるぞ。何でも相手をしてやると言ってるのに断っただの、あんな男に利用されてまんまとこいつをはめただの、はっきり言って、逆恨みだ。慰謝料山ほどふんだくられたからな、自分の嫁と、相手のダンナに。これが初めてじゃないから、自業自得なのにな。」
あやめは焦った。そんなことを言っても…!
目の前の交差点の信号が赤になった。
「止まっちゃ駄目だ!」
後ろの車が言う。
「あやめ!駄目だ、左から直進車が!」
星路が叫ぶ。あやめは咄嗟に左にハンドルを切った。右からの直進車はなく、星路は無事にその道に入った。
「こっちへ来ちまったら、ホームセンターまで行くにはどこかで転回しなきゃならない。山のほうへ一本道だぞ!」
星路が叫ぶ。あやめは、必死だった。ハンドルを持つ手がぶるぶる震えて来る。道は暗く、ヘッドライトが前方を照らす部分だけが明るく光って見えた。
「…道が段々細くなって来るぞ。あっちはセダンだから、通りにくいことは確かだがな。」
星路が言う通り、段々と道が細くなって来る。だが、行くしかなかった。戻るにも、転回するような場所がここにはない。既に、もしも対向車が来たらどこかで待っていないと行き違えないような道になっていた。片側は古びたガードレールが途切れ途切れにあるだけの急な斜面だった。それでも、桑田は追って来ていた。
「…オレには通れない道なんだが。」後ろの桑田の車が言った。「ロードスターならぎりぎり行くだろう。この先左に道が現れる。いくらなんでも、そっちに向かっては行かないと思うんだがな。」
星路が答えた。
「そいつは必死だぞ。お前の車幅なんか気遣わねぇんじゃねぇのか。」
相手のセダンは言った。
「もういいんだ。こいつはどうしようもないヤツなんだ。だが、休みの日にはオレを洗車してきっちりオイル交換もしてくれる。擦り切れどころが悪くて死んでも、転がり落ちて死んでも、仕方がない。オレのオーナーは、こいつなんだからな。」
星路は答えた。
「お前の覚悟はわかったが、お前の言う道は行き止まりだ。前は海。いくらなんでも、そんな賭けはあやめにさせられない。お前が道を塞いだ状態で、桑田が徒歩で追って来たらどうする?あっちで転回出来ても、引き返す道がないんだからな。無理だ。」
話している、その道が見えて来た。二股に分かれた、細い方の道。
「星路、行こう!」あやめが言った。「一か八か、行ってみるよ!このままじゃ追い付かれる!」
「あやめ!お前オレの言ったこと聞いてなかったのか!行き止まりだぞ、前は海だ!」
「じゃあ、このまま行ったら?」キチンと更新してあるナビは、道を示している。この先も、転回する僅かなスペースがあるだけだ。この辺りは、カップルが夜星を見に来たりすることのある場所だった。「行くよ。どっちにしても、行き止まりなんだから。」
星路は黙った。あやめは、左へハンドルを切って、その細い道を片側は急斜面、片側は大きな木がせり出した状態のその中を、慎重に走って行った。願わくば、誰か来てくれていたら…カップルが居てくれたら。
ロードスターの車体でも、本当にぎりぎりの道だった。バックミラーに映るセダンは、見る見る遠くなる。
「…冷や汗が出そうだ。」
星路が言った。本当にそうだった。慎重に抜けて行くと、その先は開けて、転回出来るようなスペースがあった。そこに、一台の軽自動車があった。
「あれ?こんな所に?でも、ロードスターなら来れるんだね。」
その軽自動車は言った。星路は言った。
「お前のオーナーは?」
相手は答えた。
「居るよ。彼女と一緒にここに。」と、後ろを振り返ったようだった。「げ、セダンが来るぞ。無理だよ!落っこちるぞ!オレでもヤバイなと思ったのに!」
あやめは、後ろを振り返った。バリバリベキベキと物凄い音を立てて、右の側面を太い木に擦る着けるような形で形を変えながら、セダンはこっちへ向かって走って来た。軽自動車のカップルが、驚いたように車の中で後ろを見ているのが分かる。そのうちにセダンの右のタイヤは片側が乗り上げているような形になって、大きく傾いた。そんな状態でも走ることに、その車のパワーを見た。
「早く転回しないと、あいつが抜けたらすぐにあの道を引き返すしかない。」
星路が焦ったように言った。
「でも、あの軽自動車が先に出てくれないと、星路が転回出来る場所が出来ないのよ!」
星路は軽自動車の運転席を見た。運転席の男は、ただ茫然と後ろを見ている。星路は舌打ちした。
「ったく、人の男ってのは緊急時にぼけっとしてるしか出来ないのか!」
セダンの声が聞こえた。
「駄目だ…!早く…しろ!」声は切羽詰まっている。「オレは力だけはあるんだ。抜けてしまう…!」
「そんなことを言っても!」
あやめは前を見た。星路が言っていた通り、前は海。転回するにも、あの車が行ってくれないと…!あやめは、窓を開けて叫んだ。
「早く!転回して!あれが抜けたら戻って!早く!」
ハッと我に返ったらしい軽自動車の男が、必死にエンジンを掛けた。そしてバックして切り返している。早く…!
だが、相手も突然のことに焦ってしまっているようで、あたふたとうまく切り返せずにいる。隣りの彼女らしい女が叫んでいるのが聞こえる。
「何してるのよ!こんな時に!急いで!」
そうよ、急いで!
あやめは思っていた。やっと転回が終わる頃、セダンが抜けてこちらへ向けて信じられないスピードで飛んで来た。実際は走っていたのだが、あやめにはそう見えた。
それでもハンドルを切ってアクセルを踏み込もうとすると、星路が叫んだ。
「駄目だ!あやめ!」
セダンが、星路の後部に激突したのを感じた。
それは、一瞬だった。
星路の体はあやめを乗せたまま前へ勢いよく押し出されて宙を飛び、海に向かって飛び出した。
「星路…!」
落下して行く重力の喪失を感じながら、あやめはシートにしがみついてその下の、見えないあのガラスの玉みたいなものをしっかりと握り締めた。
これを守らなければ…!きっとこれが星路の命…!
「あやめ…!」
星路の声が、薄れて行く意識の中で、聞こえた。
崖の上では、セダンが辛うじて停まっていた。その中で、桑田が呆然としている。
カップルを乗せた軽自動車は、ものすごいスピードでその場を逃げ出した。
「もしもし?!警察ですか?!今、車が車を押して、海へ落としたんです!早く助けてください!!」
その車の中で、カップルの女の方が、必死に電話していた。
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