第5話面接
その日の星路は、無口だった。
行く先の会社は小さなものだが、条件も悪くはないし、何より休みも多い。近いし車通勤可なので、ずっと通うには良い所だった。
あやめは目の前の時間貸しパーキングに星路を停めて、まだ黙っている星路に言った。
「じゃあ、行って来るから。」
「…頑張って来な。」
星路はそれだけ言うと、また黙った。あやめは気にする風もなく、目の前のビルの一角に入っている、宮脇探偵事務所に足を踏み入れた。
割と大き目なその雑居ビルの一階と二階に、それはあった。一階の曇りガラス戸を開けて中へ入ると、中は意外に広く、いくつかのブースが仕切られてあるのが見えた。そして、受付の40代ぐらいの女性に声を掛けた。
「本日、面接のお約束をしております矢井田と申しますが、ご担当者様はいらっしゃいますでしょうか。」
女性は、ああ、と顔を上げて微笑んだ。
「お待ちしておりました。少々お待ちください。」
女性が一番奥の、こちらを向いている机の男性に声を掛けると、その男性は顔を上げてこちらを見た。そして微笑んでこちらへ向かって歩いて来た。
「はじめまして。私が社長の宮脇と申します。どうぞ、こちらへ。」
若い、恐らくは30代後半ぐらいではないかと思われる、優しげな背の高い男性だった。これが、星路を注文した悟という人…。あやめは、そんな風に思って見ていた。
いくつかあるブースの一つに案内されて、中にある小ざっぱりとした椅子に座るよう促されたあやめは、鞄から履歴書と職務経歴書、それにハローワークの紹介状を出してから下に置いた。
「では、履歴書と紹介状をお預かり出来ますか。」
あやめは頷いて、緊張気味にそれを目の前に座る悟に手渡した。悟はそれに目を通して、そして言った。
「こちらでは、事務という募集でしたが、事務以外にもいろいろ頼むことがあると思います。例えば、どこかへ出ることになった者の送迎とか、役所に資料を貰いに行ったりとか、簡単な調査とか。なので、じっと一日中事務所で座っている仕事ではないと思って頂けたらいいと思います。それは、大丈夫ですか?」
あやめは、頷いた。
「はい。元々車を運転するのは好きですし、外に出るのは好きなので、大丈夫です。」
星路にその分多く会えるし、運転していられる。でも、車は持ちこみいいのかな。
「あの、車は持ちこみですか?」
悟は、首を振った。
「いや、社用車もあるし、どっちでもいいんですけどね。持ち込みだと、手当が付きますが、月に五千円程度です。それでもいいなら、持ち込み可です。」
あやめは頷いた。それなら、ここで働きたいな。五千円あれば、点検も出来るし。オイル交換にも助かる。どっちにしても、私は毎日星路を運転するんだし。
それから、前の職場でしていた仕事のこととか詳しく話して、面接は終わった。好感触だったような気がするが、人当たりのいい人なので、どう思っているのか分からない。悟は、見送りに出て来てくれた。
「どちらにしても、二、三日中にはお返事します。今日は、お車ですか?」
あやめは頷いた。
「はい。前のパーキングに停めていて。」
悟は微笑んだ。
「なら、料金を私が払いましょう。」
悟は、愛想よくそう言うと、あやめに並んで歩き出した。あやめはどきどきした…星路、悟さんだよ。覚えてるかな、悟さんは。
心の中でそう思いながら支払機の前に立つと、悟が言った。
「ああ、車の所へ行ってくれていいです。何番ですか?」
あやめは、星路を指した。
「あれです。5番の、白いロードスターのある場所。」
悟は、星路を見て、息を飲んだ。しばらく見つめた後、あやめがじっと見ているのに気付いて、ぎこちなく笑った。
「いや、私も前に白いロードスターに乗ってたことがあって。同じ型じゃないかな?もう八年も前に手離して…。」
あやめは頷いた。
「ディーラーで並んでいて、一目惚れしたんです。シートが明るい茶の合成皮革で、足元のマットが赤くて。私はその頃初心者だったから、どうしてもオートマが良かったんだけど、これはオートマだったから。」
悟は、じっと星路を見ていたが、明らかに動揺していた。だが、あやめに知られてはならないと思ったようで、さりげない風を装って言った。
「ちょっと見せてもらっていいかな?懐かしい。」
あやめは頷いた。星路に歩み寄って鍵を開けると、悟は中を覗いた。あやめは運転席に座って、窓を開けた。
「私は、この車以上のものはないと思って乗ってるんですよ。」
あやめは誇らしげに言った。そう、ずっとコーティングのメンテもして来たし、車体はとても綺麗に保っている。点検だって足蹴く通っている。悟は助手席側のドアを開けて、中を見た。
「…本当に私が乗ってたのと同じだ。」
悟が言って、さりげなくダッシュボードの下に視線を送ったのを、あやめは見逃さなかった。そこには、悟が付けた大きな擦り傷がある。
「久しぶりだな、悟。」
星路が言った。だが、悟には聞こえない。悟はその傷を見て絶句し、少し涙ぐんだが、慌てて首を振った。
「すごく大切に乗っていらっしゃるんですね。でも、ここに傷が…」
あやめは、困ったように微笑んだ。
「そうなんです。でも、それがあっても欲しかったので。むしろ、他と見分けがついていいと思っています。」
悟は、嬉しそうに微笑んだ。
「まるで恋人のように言う。」
あやめは驚いた顔をしたが、少し赤くなった。
「…そうかも。絶対手離したくないから。」
悟は、頷いた。
「では、料金を支払いますので、出てください。本日は、ありがとうございました。」
あやめは頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました。」
悟の手が、そっと星路の天井を撫でたのを、あやめは見た。
きっと、私が乗ってることに、安心してくれたんだ。それなら、いいんだけどな…。
タイヤの下の、板が下がる音がした。あやめは、アクセルを踏んで、家路に付いた。
その夜のうちに、採用の連絡が来た。
あやめは、珍しく夜のドライブに出た。あれから、星路は悟のことに関して一切何も言わなかった。あやめは、星路がどう思っているのか、聞きたいと思った。だが、家の駐車場だと回りの車とか自転車とかバイクに聞こえて落ち着かない。なので、こうして出て来たのだ。
そして海を見渡せる丘の上に星路を停めると、言った。
「悟さん、元気そうだったじゃない。」あやめは、ずっと黙っていたが、切り出した。「星路だって気付いたんだよ。涙ぐんでたもの。」
星路はしばらく黙っていたが、答えた。
「そうだな。あいつはオレを覚えてたんだ。だが、あの頃は若かったが結構歳いってたぞ。」
あやめは笑った。
「そう?若かったじゃない。でも、星路から見たらそうかな。もう八年も前だもんね。」
星路は頷いたように思った。
「どうするんだ?お前、悟の所で働くのか。」
あやめは頷いた。
「うん。星路を使っていいって言ってたし、そしたら前より一緒に走れるよ。仕事中も使えるもんね。」
星路は、複雑な声を返した。
「そうか。だが、オレももう歳だ。お前は人だからまだ若いし、次はもっと燃費のいいやつを新車で買え。そうすりゃ長年走ってくれる。」
あやめは、シートを倒して横になっていたが、がばと起き上がった。
「何言ってるのよ!買い替えるつもりなんてないわ。20年だって乗ってる人居るのよ?持たせてみせるわ。」
星路はため息を付いた。
「それはな、あやめ、ほとんどの部品を入れ替えて使ってるんだ。エンジンを変えてあるのまであるんだぞ。」
あやめは、ハッとした。そこまでしたら、星路の意識はどうなるんだろう…。
星路は、あやめの考えを分かるかのように、言った。
「そうなりゃ、オレはオレじゃねぇよ。いつ言おうかと思ってたんだが、最近、オレがお前に応えない時があったろう。お前は無視すると怒ってたが、あれは無視してた訳じゃねぇ。意識が飛んでるんだ。」
あやめの背に、冷たいものが流れた。
「え…それって…。」
星路は頷いたようだった。
「そうだ。気を失ってるんだよ。オレはもう長くねぇ。この体はまだ人の手で何とか動かすことは出来るだろうが、お前と話してるこのオレの意識は、そう遠くない内に消えるだろう。だから言うんだ。走る屍となったオレより、新しい車を買えとな。」
あやめは、突然のことに我慢し切れなくなって、涙を流した。星路が段々消耗して来るのは知っていた。でも、こうして寿命なんて言われたら、いくら車体を直しても意識が無くなるなんて言われたら、どうしたらいいのか分からない。星路は、本当にパートナーだった。どこへ行くのも一緒だったし、一緒に考えてくれたし、ずっと話していた。マスターキーから話していたから、ベットで寝るまでずっと話し相手になってもらっていた。本当に、悟が言っていた通り、恋人のような存在なのだ。
車のことを好きなんて…。あやめは泣きながら、星路に言った。
「私は星路が好き。だから、そんなこと言わないで。私には、人の夫なんて必要ないのよ。星路が好きだったからじゃない。ずっと一緒に居てくれたでしょう?こうして話して来たんじゃない。ただの車なんて思ったことなかった。」
星路は、戸惑ったような声を返して来た。
「あやめ…オレは車だ。この車の意識なんだぞ?お前、混乱して分からなくなってるんじゃないのか。」
あやめは首を振った。
「関係ないわ。星路という意識が好きなの。星路の意識が冷蔵庫だろうとポットだろうとテレビだろうと、自転車だろうといいの。あなたの心が好きなんじゃない。ただ好きなんじゃないわ、愛してるのよ!」
星路は、グッと黙った。暗い車内で、あやめが涙を流しながら時に嗚咽を漏らすのが聞こえる。しばらくして、星路は言った。
「…困ったな。オレはもうすぐ逝くってのによ。心だけだって言うなら、オレだってお前が好きだ。だがな、オレは車でここまで生きて来たし、人の感覚ってのは今一分からねぇ。だから、人のように愛してはやれねぇなあ。お前を抱き締める腕もないし、第一生物じゃないんだからよ。せいぜいこうしてお前を体の中でシートにくるんでることぐらいしか出来ねぇし。」
あやめは、涙を拭いた。
「それでいいのよ。今まで通り傍に居てくれたら。」
星路はため息を付いた。
「わかったよ。この意識が消えてなくなるまで、お前の恋人で居てやらぁ。困った奴だな、全く。」
あやめは笑った。
「嬉しいわ!きっと頑張ってね。少しでも長く。」
あやめがシートに抱きつくと、星路はためらったように言った。
「こら。変なとこ触るな。今どこ触った?」
あやめは手の先に当たる、シートの下にある何かに触れた。
「え、これ?」何だかすべすべしている。丸いガラスのような手触りだった。「何だろう?良く見えないけど。」
星路が慌てたように言った。
「あ、こら!撫で回すな、わかった、もういいから!」
「なあに?」あやめはそっちを覗き込んだ。「でも本当に見えないのよ。何だかすべすべなの。」
あやめは指先でそれを掴もうとした。手は届くのに。
「あ!」星路が変な高い声を出した。「ちょっと待て、それは本当に駄目だ!よせ!死ぬかもしれんぞ!」
あやめはびっくりして体勢を変えた。死ぬかも知れないような部品なの?!見なきゃ!
「どれ?どれよ…それらしいものが全く見えないんだけど!」
ルームライトに照らしても、あやめが触れたものらしきものは、その辺りには見えなかった。だが、手を伸ばすとそれに触れた。
「星路の生死にかかわる部品なのに~!!」
あやめは、夜中まで奮闘していた。
星路は、最後には無口になっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます