第3話辞める決断

「おい」星路の声が言った。「このままじゃケツが当たるぞ。」

あやめはハッとした。慌ててブレーキを踏む。家について駐車体勢に入って、バックしている最中だった。

確かに、あと少しで脇の柱に当たりそうだ。あやめは前に出て、切り返した。こうしてここまで、何回星路に助けられて来ただろう。お蔭で車体には、擦り傷すらなかった。慎重にゆっくり運転させられていた賜物だと思っていた。

しかし、星路もあれから5年、製造されて11年目になった。距離はまだ7万キロぐらいだが、あやめは心配していた。いったい何年、星路と一緒に居られるんだろう…。

車から降りると、前の家のプリウスが言った。

「あやめちゃん、おかえり。今日は勘が狂ったか?」

あやめは肩を竦めた。

「ただいま、りっさん。ちょっと会社でやなことあったの。」

「そうか。人も大変だな。」

あやめは古い平屋の、祖母の家に入って行った。真っ暗な中、居間の電灯のリモコンを下駄箱の上から手探りで掴むと、スイッチを押した。

途端に、居間から明るい光が差し込んで来る。あやめはそちらへ向けて歩いて行った。

居間の横にはキッチンが付いている。あやめは居間の背の低い座卓のうえにキーを置くと、キッチンのほうへ歩いて行って、冷蔵庫を開けた。すると、冷蔵庫が言った。

「あやめちゃん、そろそろリンゴがやばい。昨日の残り物は大丈夫みたいだけど。」

あやめは頷いた。

「うん、わかってる。ご飯炊いてくれた?すーさん。」

炊飯器が答えた。

「ばっちり。タイマー正確だったよ。」

「ありがとう。」

あやめはご飯を茶碗に盛り、インスタントの味噌汁をお椀に絞り出してポットに手を掛けた。

「今晩水替えてくれる?あやめ。」

熱湯を出しながら、ポットが言う。あやめは頷いた。

「替えるよ。昨日は疲れて寝ちゃったから。」

あやめは、ご飯と味噌汁、それに昨日の残りの惣菜を盆に乗せて、居間の座卓へと歩いた。そして座椅子に腰掛けて、夕飯に箸を運び始めた。

星路の声が、マスターキーからする。

「あやめ、辞めたいんなら辞めたらいいじゃないか。お前の歳なら、まだいくらでもある。まして契約社員だろうが。正社員の口を探したらどうだ。」

「え、あやめちゃん会社辞めるの?」

着いていないテレビから声が聞こえる。あやめは、黙って聞いていた。あの日、星路と共に家に戻って来てから、こうして声が聞こえるようになった。何度か試してみたが、話す物と話さない物がある。話せるけど黙っている物か、それとも意思がないのかは、感じでわかった。

そうして三年ほど祖母を星路で病院へ送り迎えした後、祖母は他界した。二年前のことだった。

それから、あやめは一人きりで家に居ることになってしまったのだが、こうして話しているので、真にひとりぼっちな訳じゃないと思うことが出来た。近所の車達もバイクも自転車も、意思のある物はあやめに積極的に話掛けてくれる。幸い祖母は、祖父から譲り受けたこの家を自分に遺してくれた。ここに居れば、家賃も駐車場代も要らないし、確かに光熱費とか、税金とかの分が賄えれば生きてはいけるのだが…。

星路は、二年車検になる。何しろ買った時でもう6年だった。これから少しずつ故障箇所も出て来るだろうし、点検も外さずしておきたい。出来るだけ長く、星路を走らせてやりたいし…。そう考えると、やっぱり少しは蓄えておかないとと、仕事も割のいい所を探してしまうのだ。

今の会社は、契約社員とは言っても、給料は良かった。少ないがボーナスもあった。だが、そんなものも削減して行くような感じの言い方だった…ここまで、小さい会社を支えようと一生懸命やって来た。だが、なんだか邪魔にしているような言い方だった…。まるで、辞めると言わせたいような。ワザとあんな言い方をしているような…。

あやめが黙って箸を運んでいるので、回りの物も黙っていた。極力邪魔しないでおこうとしてくれているのが分かって、いつも感謝していた。

「…もう少し考えてみる。失業保険だって入ってるから、しばらく遊んでも生活には困らないけど、でもね、いろいろお金要るでしょう?税金とか。だからなのよ。」

星路の声が言った。

「オレの維持費、結構掛かるだろうな。何しろもう11年だ。」

あやめは慌てて言った。

「まだ7万ちょっとしか走ってないでしょう?大丈夫よ、点検だってきちんと行ってるし、どっか悪い所あっても取り返しのつかないことにはならないから。」

星路は、少し黙った。

「…ちょっとな、言おうか悩んでたんだが。」

「何?」あやめは急に不安になって言った。「何でも早めに言ってよ。遅れたら回りに波及することあるんだから。どっか具合悪いの?」

「前の、お前が座ってる所から見てちょうど足元辺りだ。最近動きが悪い気がする。見た目結構すんなり行くんだが。」

星路がバツが悪そうに言った。あやめは、頷いた。

「とにかく見てもらおう。明日、急いで帰って来て行くよ。」

時計はまだ7時半だった。あやめは買ったディーラーに電話を入れて、予約を入れて置いた。


次の日の夕方、高野が感心したようにこちらへ歩いて来た。

「よくわかりましたね!まだそんなにエンジン掛かりにくい訳じゃなかったでしょう?」

やっぱりどこか悪かったんだ。あやめはまるで肉親の症状を聞くような顔で高野を見た。

「…どこが悪かったんでしょうか。」

高野は油で汚れた布に包まれた、筒のような金属の部品を両手で支えて見せた。

「これです。セルモーターですよ。そろそろ寿命だったようですが。」

あやめはびっくりした。この大きさを取ったの?!

「え…交換したんですか?!」

あんまりにもあやめが驚いているので、高野もびっくりした。

「悪くなってたら交換しろということだったので…。」

どうしよう。あやめは焦った。もし、これが車の意思に関係するパーツだったら、星路がこれ取った時に死んじゃったことになる。とりあえず、ここは取り乱してはいけない。

「ありがとうございます…あの、これってもらっても?」

高野はまたびっくりした顔をした。

「いいですけど、何に使うんですか?」

あやめは頭をひねった。どう言ったらおかしくないだろうか。

「あの、車のこと勉強してて。独学なんですけど、パーツには興味があります。こんな近くで見ることって少ないし。」

相手は、頷いた。

「じゃあ、トランクに入れておきます。女性で車の部品に興味があるなんて、驚きですよ。」

高野は去って行った。あやめは慌ててキーに向かって小声で話し掛けた。

「星路!星路、大丈夫?」

しばらく沈黙。あやめは涙が出そうになった。星路が死んじゃったら、どうしよう。

「…お前、あんなもの持って帰ってどうするつもりだ。」星路の声が、少し疲れたように言った。「一瞬意識が飛んだような気がするが、大丈夫だ。あれがどうのなかったみてぇだな。オレも部品を外すと聞いた時にはどうなるかと胆を冷やしたよ。オレの心臓は、どこにあるんだろうな。」

あやめもそれが気になった。いったいどのパーツが星路の意識に関係してるんだろう。

あやめはいつものデミオに会って挨拶をし、回りの展示車にひとあたり挨拶してから星路に乗って、そのディーラーを後にした。お金は掛かったが、星路が無事でよかった。やっぱり、お金は蓄えておかなきゃ…。仕事、もっと割のいい所があるかもしれない。契約社員じゃなく、正社員の…。

あやめは、今の仕事を辞める決心をした。明日、契約書を白紙で返そう。

星路は、その決断に何も言わなかった。ただ、体を壊すなよ、とだけ言ったのだった。

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