第2話試乗

高野が言った。

「右へ出ましょう。」

あやめは頷いて右へ方向指示器を出した。

車が途切れて、今!とアクセルを踏むと、思ったより軽いその車は思ってもみない速さで前へ出た。

「きゃ!」

慌ててハンドルを大きく切る。ちょっとハラハラしたが、無事に道へ出た。

高野は、最初の第一歩で少し緊張したようだったが、その後安定して乗っているあやめにホッとしたようにリラックスし始めた。

「この車の名前はご存知ですか?」

あやめは首を振ろうとした。すると、低い声が答えた。「ロードスター。」

あやめは高野を見た。高野にはこの声は聞こえていないようだ。あやめは言った。

「ロードスターですね。」

相手は頷いた。

「よく知ってましたね。車はお好きですか?」

あやめは、首を傾げた。

「好きというか、祖母を乗せて病院へ行けたらいいと思って。でも、この形の車は小さい時から憧れでした。」

高野は笑った。

「そうなんですか。乗ってみてどうですか?」

「思ったより運転しやすいです。」あやめは、素直に答えた。「教習所の車は運転しづらかったけど、この車は小さいしハンドルきってもすぐに反応するし、アクセルも踏み込んだらスッと加速するし、乗ってて楽。」

「運転が楽しくなりますよ。」高野は言った。「ご家族をたくさん乗せる必要もないなら、走るのは最高だと私は思います。」

あやめは黙って頷いた。確かにそうかも。でも、このロードスターしゃべるんだよなあ…。

そんな感じでスイスイ走っていると、あっという間に元のディーラーへ戻って来た。言われた位置に車を停めると、店の中へと促されて、その前にとあやめは、そっと助手席側のダッシュボードの下を見た。そこには、言っていた通り、大きな擦り傷が斜めに入っていた。

「言っただろ。」ロードスターは言った。「8万ぐらい下げてもらえるさ。頑張って交渉して、オレを買え。駄目でもローンがあらあな。」

あやめは憮然として呟いた。

「簡単に言わないでよね。」

そしてそのロードスターは、100万円になった。

だが、諸費用があったのを忘れていて、いろいろ考えて結局半分はローンを組んだのだった。


納車の日、ビックリするほどピカピカにされたロードスターが、目の前に停められた。何でもコーティングとかいうのも自分は頼んでいたらしい。明細にたくさん書いてあったので、細かい所までチェックしていなかった。だが、やってよかった…6年前の型かもしれないが、まるで新車のように綺麗に見える。嬉しい…初めての車がこんなカッコいい車で…、

「お前、やるじゃねぇか。コーティング頼んだんだってな。オレもびっくりだ。何されるのかと思ったが。」

しゃべるけど。

あやめは思った。今は高野の説明を聞いていて、ロードスターに答える訳にもいかない。なので、黙って説明を聞いているふりをした。

すると、脇のピットでリフトに上げられて点検を受けているデミオが言った。

「あれ?行くの?いつもここに来たら居たから、話すの楽しみにしてたのに。」

あやめは、え?と思ってデミオを見上げた。若い、なんだか可愛らしい男の子の声だった。ロードスターが答える。

「いつまでもあんなところでじっとしてるのは性にあわねぇしな。見ろよ、今度のオーナーは聞こえるヤツなんだぜ。」

デミオがこっちを見たような気がした。

「え、聞こえるの?いいなあ、お姉さん、聞こえてる?あのね、半年点検なんだよ。どこも悪い所ないのに、すっごい見られてるの、さっきから。」

あやめは、答える訳にもいかず、苦笑した。ロードスターが言った。

「ああ駄目だ。今は聞こえてない人が居るから、こいつは答えねぇよ。頭おかしいと思われるしな。」

残念そうな声が言った。

「なあんだ。残念。僕のオーナーはあっちに居る由香里さんだよ。」あやめは、中でコーヒーを飲みながらスマートフォンを見ている女の人を見た。デミオは続けた。「聞こえないけど、いっつも話掛けてくれるんだ。」

なんだか分かる。あやめは微笑ましくなった。きっとデミオもあの由香里さんが大好きなんだろうな。私は、このロードスターだけど…。

「ほんとに聞こえるんだね。」デミオの声が続けた。「由香里さんのほう見たもの。」

ロードスターが言った。

「そうなんだよ。驚いた。居るとは聞いたが、こんな小娘がひょこっと来て聞こえるなんて思わなかったからな。」

あやめはムッとして思わず言った。

「小娘って何よ!」

高野がびっくりしている。

「あ」あやめは口を押えて下を向いた。「すみません、空耳でした。」

ロードスターは黙っているし、デミオはきゃっきゃと笑っていた。

「で、ではこの後の説明を…」

高野が、展示場の中へと促す。あやめはロードスターを睨んでから、中へと入って行った。

中へ入って高野が何やら書類を取りに行っている間、あやめは外の様子を見ていた。さっきのデミオは由香里さんという人が近付いて行くとはしゃいで弾丸のように一生懸命話し掛けている。ロードスターは隣の新しい型のロードスターと話していた。

「世話になったな。先に出て行く。」

「いや、オレも近々あっちへ移動だろうし、同じ車種が二台並ぶのもなんだからこれが良かったんじゃないか。」

隣のロードスターは、新車の展示用のものらしい。あやめのロードスターは言った。

「あっち行ったらバッテリー上がらないように気を付けろよ。」

展示用ロードスターは言った。

「大丈夫だ。高野が毎日、日を決めて順番にエンジン掛けてるじゃないか。お前も、事故には気を付けろよ。」

あやめのロードスターは鼻を鳴らした。

「ま、大丈夫だろう。始めはゆっくり走るように言うさ。そのうちに慣れる。大きい車体じゃねぇんだからよ。」

「また、点検に来いよ。」

展示用のロードスターが、少しさみしげに言った。あやめのロードスターは答えた。

「ああ。あいつは聞こえるし、点検時期になったらうるさいほど言うから大丈夫だ。」

あやめはそれを聞いていて、なんだかしんみりした。車同士も交友関係とかあるのか。知らなかった。でも、うるさく言われたら鬱陶しいから言われる前に点検に来よう。

高野にキーを渡されて、あやめは感無量でそのキーを握り締めた。これで、あのうるさいロードスターは私のものになったのだ。

そして、深々と頭を下げる高野の姿をいつまでもバックミラーに映して、あやめは家へ向かって走ったのだった。

サービス期間中とかで無料で着けてくれたナビが知らせる家路とは別の方角へ、あやめは走って行った。少し走りたい気分だったのだ。

「…なんだ。暗くなる前に帰れよ?お前初心者なんだから。若葉はどこだ?貼らなきゃダメだろうが。」

ロードスターが言う。あやめは、近くのスーパーの広い駐車場に車を停めて言った。

「あのね、確かに私は免許取りたてだけど、あなたよりずっと長生きしているのよ?あなた6歳でしょう。私なんて二十歳だもんね。」

ロードスターはうんざししたようにハッ!と言った。確かにあやめにはそれがはっきり聞こえた。

「あのなあ。確かにそうかもしれねぇが、だからなんだってんだよ。お前は車のことを知り始めてまだ赤ん坊の歳ぐらいだ。今だってここに停めるのに4回も切り替えしやがって。この小さい車体をどうやったらあんなに枠から外して入れられるんだよ。」

あやめは赤くなった。

「うるさいわね!これから慣れるわよ!」

ロードスターはため息を付いた。

「はいはい。お前はオレのオーナーだ。何回切り替えてもいいよ。だが回りに迷惑掛けるなよ。」

あやめは、そこは素直に頷いた。

「わかった。」

と、隣のワゴン車を見た。自分の車よりは新しい型のようだ。あやめは、思い切って話し掛けて見た。

「こんにちは。あなたはどこから来たの?」

返事はない。あやめがためらっていると、ロードスターが言った。

「そいつは駄目だ。もう死んでるんだよ。」

あやめはびっくりして車のハンドルを見た。

「え、どういうこと?あなたより新しい型よ?それに、どこも傷がないし。」

ロードスターはため息を付いた。

「きっと事故だろうな。」その声は、暗かった。「いったいどこをイカレたらこうなるのか、オレにもわからねぇんだが、ぐちゃぐちゃになってても直してもらったらいつも通り話すやつも居れば、損傷箇所が悪かったのか少しの損傷で見た目、元通りなのにも関わらず、こうして気配のなくなるヤツがいる。それに、新車の時から全く気配のないヤツとか。いろいろさ。オレにもわからねぇ。オレ達に、教えてくれるヤツなんていねぇからな。ただオレ達の間じゃあ、これは死んでると言うんだ。」

あやめは驚いた。車の意識って、何かしら…。

「ねえロードスター、あなたはいつからそんな風に意識を持ってたの?」

ロードスターは悩むようにしばらく黙った。

「…そうだな、最初の記憶は工場だったな。オレを作った奴らが送り出してくれたのは覚えてるよ。オレに最初に声を掛けたのは、作業着姿の男だった。出て行くオレを見て、「がんばれよ」って小声でつぶやいたのをはっきり覚えている。オレだけじゃなかったがな。他にも何台か居た。」

あやめはジンとした。たかが車なんて思わないで、そんな風に送り出す人も居るんだ…。自分も、前のオーナーよりずっと大切にしよう。このロードスターを。っていうか、名前長いな。

「…あのさあ、ロードスターって呼ぶの長いし、それに他のロードスターと被るから、名前付けよう。私のことは「あやめ」でいいよ。」

ロードスターはためらったような声を出した。

「あやめ。で、何て名前付ける気だ?」

「そうねえ…」あやめは、悩んだ。「ロードスターの「ロード」は道でしょ。「スター」は星。道星っていうんじゃなあ…路って道路の路で使う?」

ロードスターの声は明らかに首を振っていた。

「みちぼしなんて呼ばれるのは嫌だ。字が路星でも。」

あやめはうんうん唸った。

「ほんとにもう、文句ばっか言わないでよね。」あやめは、ひらめいた!という顔をした。「じゃあ、字をひっくり返して星路(せいじ)って呼ぶのはどう?」

ロードスターの声は裏返った。

「何だって、星路ぃ?なんでそんなに純和風なんだよ。オレ和風か?」

「国産じゃん。」あやめはひとつ、頷いた。「決めた!あなたは星路ね。よろしく、星路。」

あやめはエンジンを掛けた。我ながらいいネーミングセンス。星路はまだ不満そうだ。

「お前は一方的なんだよ、あやめ。もっと考えて付けろ!」

あやめは微笑みながらアクセルを踏んだ。

「名づけなんて、そんなもんよ。」

あやめは嬉々として星路を運転して家へと向かったのだった。

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